丗玖【8月12日・午前2時24分~午前3時25分】
目を覚ますと、秋音と冬歌の寝息が聞こえる。
まだ誰一人起きているような気配はしなかった。
ぼんやりと壁に掛けられた時計の文字盤が光っているので、それに目を遣ると、まだ時刻は二時半になるくらいで、起きているのが自分だけだと知る。
一応橙色の豆電球が点けられていて、あたりを見渡すと、早瀬警部と植木警視が壁に寄りかかっている。
後のみんなは布団の中で寝息を立てている。
横で寝ている秋音や繭を起こさないように、そっと起き上がろうとすると――
「……巴さん?」
小さな声で霧絵が私に呼びかける。
「もしかして、寝てないの?」
出来る限り小声でそう尋ねると、「寝る事には慣れてますから、何時でも寝れるんですよ」
霧絵は幼い頃から入退院を繰り返していたので、少し寝たくらいでいいらしい。
こういうところは体質の問題なので私は深く訊かない事にした。
「眠れませんか?」
霧絵が厨の電気を点け、冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取り出し、二つのコップに注ぐ。
「前とは違って、一週間くらいやってるから、体が慣れたんでしょうね」
私がそう皮肉っぽく云うと、「繭さんや澪さんも同じでしたよ。やっぱり慣れなんでしょうね」
霧絵はクスクスと小さく笑った。
「看護婦さんから聞いた話ですけど、人の死を何度も見てると、その事に関して何も感じなくなるそうですよ」
霧絵はそう云うと、ゆっくりと麦茶を飲み干す。
「私は生まれた時から体が弱かったですから、いつも入退院の繰り返しだったんです。入院している時は四六時中、病院の中は本当に生死の狭間だった事が当たり前で、毎日のように誰かが死んでいくんです。緊急で担ぎ込まれて来た人達、重い病気で入院している人達……そんな人たちを私は何人も見てきました。誰も今日死ぬだなんて思っていませんし、思いたくもないと思います」
霧絵は自分の昔話をするのが嫌いなはずだった。
「でも、そういう人たちって、医師に余命何年とか云われても、ピンと来ないんですよね。“信じられないから”って云われると、それまでですけど……」
ふと、霧絵の言葉に違和感を感じた。
「霧絵……今日誰かに殺されようが、殺されまいが、自分が死ぬ事を」
私が言い切る間もなく、霧絵は頷いた。
「恐らく、正樹さんや巴さんが来たとしても、この運命だけは変えられないんだと思います。だから私は祠に祭られている神様にお願いしていたんです。あの子達の幸せを……私と大聖さんがいなくても、幸せでいられるようにって」
「独り善がりな気もするけどね?」
私は素っ気無く霧絵にそう告げると、「わかってます。でも初めから神様が決めていた運命なら、それを受け入れるまでです。でも、誰かが作った運命なら、私は赦しません」
それを聞いて、私はあの事を聞いていいのだろうかと悩んだ。
二十四年前、霧絵の身体には大聖の子が宿っていた。
だけど祭の日、人込みを走っていた子供にぶつかった為、胎児を流産してしまい、それから春那を養子としている。
霧絵の姉の子である事から、一応は霧絵と血は繋がっている。
だけど、本当にあれくらいの事で流産するのだろうか……
どう考えても、高々子供にぶつかった程度で流産するとは思えない。何か破水を促す薬を飲まされたか……
――と云っても、一般人がそんな薬を手に入れる事は到底無理に等しい。
「鹿波さんは四十年前に起きた“鹿狩”以外知らなかったんですね。孤児院の事はご存じなかったみたいですし」
「その直後に孤児院が造られたって事になるわね」
私はそう話しながらも、縁の言葉がしつこいくらい頭の中を過ぎる。
「おばあちゃんから聞いた神様の話と全然違うわね……」
「どんな話なんですか?」
頭の中で云ったはずが口にしていたらしく、霧絵が訊ねる。
「仮に縁が私よりも前にこの榊山にいたのなら、私たちを余所者と云っている事には納得出来るんだけど……最初の金鹿之神子は生まれた時から盲だったはずなのよ。と云う事は、彼女は少なくとも初代の神子ではない。それにあの力も違う気がするし……」
私は霧絵に話しながらも、殆どが自問に近かった。
「巴さんが持っているのは“鏖”でしたね」
「でも、それには先ず相手を知らないといけない。つまり、相手を知らなかったら、意味がない能力なのよ。麓の人間を殺した時は憎悪に駆られていて、誰彼構わずに殺してしまったけど」
何か矛盾しているけど、目の前で大切な人を殺されて、その怨みで私は麓の人間を殺している。
「だけど縁の力は記憶消去。多分私と霧絵以外が記憶を持っていなかったのはそこにあったんじゃないかと思うのよ」
霧絵は少し考えると、「確かに……でも、どうして私と巴さんだけ? それに正樹さんも今回に限ってはほとんど思い出している」
「いや、多分全部を思い出してないかもしれない。ううん、この殺人劇じゃなくて、もっと前に……」
私がそう話すと、霧絵もそれを思い出そうとしている。
「正樹さんが小学生の頃、工事現場で事故にあった」
「それは本人も覚えてたでしょ? それより後で、この殺人劇よりも前に何かが起きてる。それを多分姉妹達も知ってる」
「春那たちもですか?」
それを縁のもつ記憶消去で消していたとしたら、正樹と姉妹達は八月十日に始めて会ったというのが崩れる。
「その力が自分の戯言で弱まっていたとしたら?」
「そう考えると、春那や深夏に曖昧な記憶があったとしても可笑しくないですね」
どちらかと云うと、元からあった記憶が浮かび上がっていたと言った方がいいのかもしれない。
「でも、正樹さんがあの子達に逢っていたと云う事は、私も逢っていたという事になりますよね?」
「私と霧絵は縁の能力に影響を受けていない。それなのに幼い頃の正樹の記憶しかないと云う事は、霧絵は正樹が入院していた時以外に逢っていないという事になる」
「でも、それじゃぁ、その事も関係あるんじゃ……」
そう云われ、ハッとする。
確かに事件に関係がない事なら、記憶消去なんてしないはず。
それなのにこの舞台以外での記憶がないと云う事は、それとは違う事があった事になる。
「正樹がそれを思い出してくれるか……」
「もしかしたら、正樹さん自身がそのことを思い出したくないからじゃないんですかね?」
霧絵にそう云われ、私はそうなのだろうかと自問した。
でもそう考えると、余程の事があったという事になる。
幼い頃、工事現場で目を失った時の事は覚えていた。つまりそれよりも深く傷をつくった出来事があったという事になる。
「霧絵さん。すみませんが、私にも一杯くれませんかね?」
声が聞こえ振り返ると、早瀬警部が厨を覗き込んでいた。
云われた霧絵はコップに麦茶を注ぎ、早瀬警部に渡した。
「お二人とも結構早起きですね? もしかして緊張してます?」
早瀬警部がそう訊ねるが、「緊張してたら、眠れないと思いますよ」
――と、霧絵が小さく笑う。
「確かにそうだ。お二人とも起きるまで寝息を立ててましたからね」
そう云うと、早瀬警部は麦茶を飲み干す。
「お二人とも、今はゆっくり休んで下さい。もしかしたら徹夜になるかもしれませんからね」
そう云われ、私と霧絵は互いの顔を見遣る。
「わかりました。でも、早瀬警部もお休みになってください」
すれ違いさまに霧絵がそう云うと、私も一言云って厨を出た。
「舞ちゃん……起きてますか? 舞ちゃん」
早瀬警部が壁に寄り掛かって寝ている舞の肩を軽く揺さ振る。
「ぅん……」
舞は薄らと目を開いた。
視界は暗かったが、自分を起こしたのが早瀬警部だと気付くのに、余り時間は掛からなかった。
「――もう時間ですか?」
「いや、まだ予定より後三十分くらいはありますけどね? もしかして、起こさない方がよかったですかね?」
早瀬警部は申し訳なさそうに言うが、「いえ、機動隊の方々に連絡を入れないといけませんでしたし……」
そう云うと、舞は携帯を取り出し、画面を見た。
画面には新着メールが何通もきている。
それに気付かなかったと云う事は、それほど舞は深い眠りについていたという事になる。
――と云うよりも、霧絵のことを考えて、マナーモードにしていたため、ほとんど気付かなかったというのもあるが……。
メールを確認すると、それは機動隊隊長である野々村からだった。
最新メールの内容を読むや、舞は絶句する。
「どうかしましたか?」
早瀬警部が訊くや、“渡辺洋一の行方が知れず、監視していた警官たちは何者かによって惨殺されていた”
舞はメールに書いてある通りに読んだ。
「なっ!?」
早瀬警部は唖然とする。
「渡辺は確か白馬温泉に泊まっていたはずなのですが、その旅館には霧絵さんからキャンセルの連絡があったそうです」
舞は着信メールを読む。
事件が起きたのは〇時になる直前だった。
「〇時になる前と云う事は十一日……その日に渡辺洋一が失踪したと云う事は、いよいよ舞台が始まるという事ですか?」
「それはわかりませんが、そう考えていいでしょうな? しかし、こちらは全員が一ヶ所に集まっていますから……」
早瀬警部はそう云うと、襖を開けた。
そしてタロウとクルルがいることに気付くと、ホッとする。
ハナは自分の子供と冬歌の近くで寝ているため、今のところは自分の目の前にいる何一つ、なくなっていないという事になる。
舞は機動隊隊長である野々村に連絡を取るが――どうも繋がらない。
「捜索に手間取ってるんでしょうかね?」
「だといいんですが……でも、連絡を取り合うのが当たり前なのに……」
もう一度連絡を取るが、それでも音信不通となっていた。
舞と早瀬警部は只ならぬ悪寒を感じていた。
幾らなんでもそれは“ありえないだろう”からだ。
こちらはプロだ。主犯格以外はほとんどがずぶの素人であろう犯人グループに負ける筈がない。
「他の方に連絡は出来ないんですか? 捜索班には?」
早瀬警部にそう云われ、舞は捜索班班長に連絡を取るが、どれもこれも全く応答がなかった。
早瀬警部と舞は一点を見ていた。
「こちらに対しては、何もアクションを見せてこなかったのは、それに梃子摺っていたからですかね?」
早瀬警部がそれに向かって言う。
「聞こえてるんでしょ? 渡辺洋一さん?」
虚空に消えるその声は、確かに相手に聞こえているはずである。
全員が寝る前のあの時、霧絵は一点を見つめながら話していた。
その一点こそ広間で発見した盗聴器だった。
本当なら直ぐに壊した方がいいのだが、発見してから一度も触れていない。
なので、これまでの会話は全て聞かれていた事になる。
早瀬警部は自分の時計を見遣った。
時間は先ほど自分が云った通り、午前三時半を過ぎている。
その時間くらいになると、使用人である繭がゆっくりと起き上がった。
巴もそれくらいにおきている為、二人は早瀬警部が起きている事に気付いた。
「どうかしたんですか?」
巴がそう訊ねると、早瀬警部は悔しそうな表情を浮かべた。
「今起きているのは、わたしと舞ちゃんを除くと、繭さんと巴さん、それと……」
早瀬警部は霧絵を見遣るが、春那の横で寝ている。
「ほら、正樹! 早く起きなさい」
巴は正樹を蹴り起こした。正樹はパッと起き上がり、何が起きたのか理解出来ていなかった。
「ちょ、ちょっと! そんな起こし方ってないんじゃ……」
繭がそう小さく云うと、「一々身体を揺さ振って、ゆっくり起こすよりも、衝撃を与えてパッと起こした方がいい場合もありますよ」
巴はそう云うが、起こされた正樹は気分がいいものではない。
その証拠に、先刻から巴を不服そうに睨んでいた。
「それで何かあったんですか?」
巴はそんな正樹の視線に目もくれず、早瀬警部に声をかけた。
「捜索隊の皆さんと連絡が取れないんですよ」
「犯人に気付かれたって事ですか?」
そう考えるのが妥当かもしれないが、如何せん気付くのが早い気がしていた。
「若しかして、機動隊に?」
舞がそう云う。確かにそう考えられるが、それでも捜索隊全員の連絡が取れないという理由にはならない。
「いや単純にやられたと考えた方がいいでしょうな。此方から連絡が取れないほどの強力な電波を……」
早瀬警部はそう云うが、それもどうかと舞は思った。
仮にそうだったとしても、両方に不利が生じるはずだからだ。
「一度開かない部屋を探索しますかね?」
「この状況でですか?」
「あくまで確認ですよ。むこうさんもこの話を聞いているはずでしょうからね、穴の直ぐ近くに潜んでいても可笑しくはないでしょ?」
早瀬警部はそう云うが、それならなおさら襲ってこない事に違和感がある。
此方は早瀬警部と舞を除けば、役に立つかどうかもわからない。
巴はタロウが本気を出していないとはいえ、それに抵抗出来るくらいの力は持っているが今は怪我をしている状態だ。
「使用人の皆さんは朝食の準備をした方がいいかもしれませんね」
舞は長考の末、そう告げる。
「ど、どうして?」
「今は両方とも動きが取れない状況だと云う……」
舞が話している途中、まるでタイミングを計ったかのように携帯が震えた。
「も、もしもし……」
舞は恐る恐る電話に出る。
“おっ? まだ生きとったか? むこうさんは未だ何もしておらんようじゃなぁ?”
電話先から聞こえる老人の声に、舞はハッとする。
「そ、その声は……三重野警察医殿っ!!」
“じゃぁからぁ! 元を付けんか! 元を! わしゃぁもう現役じゃないんじゃぞぉっ!”
三重野がそう怒鳴るが、実際は怒っていなかった。
「そ、それで……どうして三重野元警察医殿が私の携帯に?」
“いやなぁ、野々村の小僧に連絡を取ろうとしたんじゃがなぁ、全然取れんのじゃよ”
「私たちの方も、メールを確認してから連絡を取ろうとしてるんですけど」
“舞ちゃんの方も取れないと云う事は、野々村の小僧たちに何かあったと考えた方がいいじゃろうな”
確かに電波障害が弱いはずの場所にいる三重野ですら連絡が取れない状況だ。
野々村、つまり機動隊の方に何かあったと考えても不思議ではない。
舞たちは厭くまで犯人グループが妨害電波を出して邪魔をしていると考えられるが、若しかすると……
「今どちらにいるんですか?」
“今か? 今は大町警察署におるが、一応はわしが第一発見者になるわけじゃからな”
「警官二人の死亡推定時刻は?」
“――それがわかれば苦労はせんよ”
そう云われ、舞は理由を訊く。
“発見した警官二人は、顔も身体もグチャグチャじゃったからな。それでいて、まったく周りの人間は誰一人気付いてない。まぁ詳しい事は明朝からの聞き込みになるが……”
それでは遅すぎるが、猟奇的な殺し方は今までだってあった。
「三重野元警察医はどれくらいだと思います?」
“死亡推定時刻か? そうじゃなぁ、概ね半日も経っておらんじゃろうよ、詳しくはわからんが……”
舞は最後に監視していた警官と連絡を取ったのは何時だろうと思考模索する。
が、昨日はほとんど空けていた為、自らが連絡を取ってはいない。
“すまんなぁ、何の役にもたてんで”
「いえ、何かわかったら連絡を下さい」
舞はそう伝え、電話を切ろうとした時だった。
“あ、ちょっと待ってくれんかな? 大事な事忘れとったわ”
耳元から離す直後だったため、三重野の声が小さく聞こえた。
「な、なんですか?」
“三十年前に起きた孤児院の話じゃがな? その中に渡辺洋一の名前があったようじゃよ”
それを聞くや、舞は驚きを隠せないでいる。
“一応は連絡したからの。またあったら連絡するわ”
そう云うや三重野は電話を切った。
薄々とわかっていたとはいえ、実際第三者から云われるとそれが事実であると思ってしまう。
「誰からでしたか?」
早瀬警部がそう訪ねると、「三重野元警察医からでした。現在大町警察署にて、変死体の解剖をしているそうです」
「死亡推定時刻は?」
「それはまだわからないようです。恐らく検死の結果が出ても……」
そうなると、何故誰一人自分に連絡が来なかったのかが気になっていた。
途端、早瀬警部と舞の携帯が同時に震えだした。
突然の事で、二人はまるで鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべる。
――そして、二人のメール内容は同じであった。
“馬鹿を見る”