丗捌【8月11日・午後11時12分】
榊山の麓近くに“長野県警”と書かれた白いバンが停まっている。
その周辺には二十人ほどの警官が並んでおり、周囲に街灯はなく、ただ雨の音だけが響いていた。
「A班隊員数に異常なし、何時でも準備O.K.です」
「同じくB班も異常なし。何時でも出れます」
「同じくC班も異常なし…… 指示をお願いします」
各班のリーダーとなる警官が総司令の機動隊隊長に申し上げをする。
「よし。各自用意はいいな? 捜索はあくまでカモフラージュだ。その時に防空壕の入り口を見つけても、決して近付かないように。発見しだい連絡をするように」
「盗聴されていたらどうしますか?」
「本部で話していた通り、モールス信号でおこなう。各班重要な部分だけを決めてくれ。“異常なし”・“発見”・“危険”と云った感じだ。他の班と同じにするな! 本部は各班の暗号を保存しておく」
そう云われ、各班は話し合いをし、大凡五分後にはそれぞれのモールス暗号を作り上げていた。
「各班は三十分おきに連絡をするように……健闘を祈る」
そう云うと、機動隊隊長は隊員たちに向かって敬礼をする。そして規則正しい並びをした彼らに一寸の狂いもなかった。
先ずはB班が南側から山周辺を調べ、人が通れる広さの獣道を探し出す。十分おきにC班が西側、A班が東側と続いていった。
本来、捜索は早朝からなのだが、この行動は一種の威嚇行動でもある。
これで上手く犯人グループが防空壕まで逃げてくれればいいのだが、恐らくそれは淡い期待だった。
バンに設置されている無線機から何か物を叩くような音が聞こえた。車内にいる記録係たちは集中してその音を聞き取っていた。
“S・1・4・1”
「此方本部……周りに何かないか探しながら、慎重に捜索していってくれ」
“――了解”
無線は途切れ、記録班が各隊員に付けたGPSで場所の確認を取っている。
「ばれませんかね?」
一人の隊員が云う。左耳にヘッドホンを当てながら、右手で記録していく。
「わからん。だが、共通していない暗号なら、あちらさんは解読に手間取ってしまうだろうから、時間稼ぎにはなるだろうな……」
あくまで本格的な捜索を開始するのは早朝四時からだ。それまでに防空壕の場所を見つければ、追い込める事が出来るかもしれない。
「各班に連絡……発見しても近付くな、急ぐ命でもなかろう?」
そう機動隊隊長が無線を越して、各隊員に告げた。
それから四十分ほど経った時だった。
無線の受信ランプがひかり、記録係が書記を取っていく。
“W・デ・ス・ベ・リ”
“E・ネ・ツ・カ”
どうやら他の班も入り口を見つけたようだ。
「よし。各班くれぐれも気をつけるように。深追いはするな」
機動隊隊長がそう云うと、外からドアを叩く音が聞こえた。
こんな時に一体誰が……と、車内の全員が互いの顔を見渡した。
「あー、すみませんねぇ? ええ、すみません……」
深々とシルクハットを被った一人の老人と制服姿の警官が二人。
その三人は無断で車内に入り込んできた。
「誰ですか? あなた方は一体……」
機動隊隊長がそう云うと、「くぅくくぅっくっく……」
老人が含み笑いを浮かべ、そして……
「なんじゃ? 野々村の小僧は、恩人の顔を忘れるとはぁ……」
老人は帽子の鍔を人差し指でヒョイと持ち上げ、顔を見せた。
老人の顔を見るや、機動隊隊長は背筋を伸ばし、老人に向かって敬礼をした。
「こ、こここ……これは失礼しました。三重野光彦警察医殿ぉっ」
声を上擦らせながら、機動隊隊長である野々村は、老人――三重野警察医に再度敬礼をする。
「元をつけんか! 元を……わしゃぁ、もう現役じゃないんじゃぞ?」
三重野は含み笑いを浮かべた。
「それで……状況は?」
「各班全て獣道を発見。さといちで取り合っています」
“さといち”とは、“三十一”と書く。本来は“十一”と書き、十日で一割という金利(利息)を取ること及び、そういった金利を取る金融業者を意味する。
この場合三十分に一度連絡を入れるようにという意味である。
「ほう? “さといち”と来たか。じゃが聞いた話じゃと、本格的な捜索は明朝四時じゃと思ったんじゃがなぁ?」
「勿論、機動隊は何時でも行動できます。ですが、人質を取られているらしく、慎重に行動をしていくしか……」
「で、その人質は?」
「耶麻神邸で使用人として働いている大内澪という女性です」
澪の名を聞いて、三重野は何かを思い出そうとしていた。
「大内……確か植木警視長の元妻の苗字がそうじゃなかったかの?」
「どうやら、舞さんの妹らしいです」
「なるほど……それじゃ此方も慎重に行動せんといかんなぁ?」
三重野は小さく笑みを浮かべた。
不謹慎だと思い、それを云うが……
「君が一番わかるんじゃないかね? 昔、男女混同での空手大会で秒殺されとるんじゃからなぁ? 確か相手はまだ高校二年生の娘じゃったかのうぉ?」
三重野はヒョウヒョウと哂い、野々村を見た。
「あ、あの時の……ですか?」
思い出したのか、野々村は少しばかり身震いをした。
「たしかあの時、彼女は全部寸止めじゃったなぁ? 苛々したあんたは我を忘れて突進してしまった」
「い、嫌なことを思い出させないで下さい……」
野々村は項垂れながら三重野を見遣った。
「しかし、相手は銃を持っている可能性があります。素手で勝てるかどうか……」
「何でそう思うんじゃ?」
「何でって、人が銃に勝てるなんて事……」
野々村はハッとする。
「本来、空手は素手でするもんじゃが、競技ではグローブを嵌めて行う。それはなぁ、正しく握られた拳は石のように硬く鋭い。それをまともに食らえば人を殺せるとさえ云われておる。そして何よりも必要なのは覚悟じゃよ。相手を倒すと云う絶対的な覚悟がな……」
三重野はそう話していると、横にいる制服警官が耳打ちをする。
「三十年前、孤児院にいた子供たちの身元がわかったようじゃよ……」
「ほ、本当ですか?」
「そんなかに渡辺洋一の名前が入っとったよ。そう云えばその本人は休暇中じゃったな?」
そう云われ、野々村は無線で監視している警官に連絡を取った。
――が、まったく応答がない。
「感度良好、感度良好……もしもし……」
野々村が呼びかけるが、返答がない。
「渡辺は何処の旅館に泊まってるといっていた?」
「確か白馬温泉だと……」
「……車、出せるかのう? 君らは自分たちの仕事をしてなさい。追って連絡する」
三重野はそう云うと、制服警官と一緒に車を降りた。
野々村はもう一度無線で連絡を取るが、やはり反応がなかった。
その数十分後、白馬温泉に着いた三重野は急いで車を探した。
そして、発見した車の中には朽ち果てた二つの死体が無造作に転がっていた。
それが同業者だとわかるのに、数秒も掛からなかった。
車内を見渡すと、割れたパトランプが床に散らばっていたのだから……
連れてきた警官を旅館へと向かわせ、渡辺が何処にいるかを確認させる。数分後戻ってきた時、彼の口から出た言葉は
“当旅館に渡辺洋一という人は泊まってませんが”
と、いうものだった。
確か霧絵さんが旅館に予約を入れていたはずだがと、警官に再度確認を取らせると、諸事情でキャンセルされていた。
雨の音が聞こえる。浅い眠りから覚め、自分の時計を見ると、まだ二十分ほどしか寝ていない事に気付く。
極度の緊張のせいか、眠れなかったのだろう。
そんな中、突然尿意を催し、僕は広間を出ようとすると、「正樹ぃ? あんた何処に行こうとしてんのよ?」
秋音ちゃんの横で寝ていた鹿波さんが身を起こし、僕を呼び止めた。
「ちょ、ちょっとトイレに……」
「あのね? 一人になると危険だって……」
そう云いながら、鹿波さんは起き上がり、僕の近くにゆっくりと近付く。
「ほら、ついてってあげるから……」
「な、何か……可笑しな光景ですね?」
「可笑しくはないでしょ? 私は四十年前死んでなかったら、完全にあんた達より年上なんだから……」
そう云いながら、鹿波さんは頬を膨らませる。
確かに彼女が生きていたらそうなのだが、たまに見せる子供のような仕草に、笑いを堪えるのに必死だった。
襖を開けると、その音に気付いたのか、タロウが身を起こす。
「あ、ごめん。もう少し寝てて……」
僕が小声で言うが、タロウは云うことを聞かない。
本当に澪さん以外の言うことは余り聞かないという事だろう。
トイレに着くと僕は個室へと入っていく。用を済ませて出てきた時、鹿波さんはジッと風呂場の方を見ていた。
「何かあったんですか?」
「今、其処に誰かいたような?」
鹿波さんは首を傾げる。暗くてよく見えないが、人の気配がしているとは思えない。
それに若し犯人グループの一人が屋敷に侵入していたとしたら、タロウが真っ先に吠えているはずだ。
タロウを一瞥すると、吠える気配どころか尻尾を振っている。
「澪さんですかね?」
そう云うが、その可能性はないと鹿波さんは言い切った。
僕達は廊下を歩くと、タロウが裏口の前で足を止めた。
僕は鹿波さんと一度見合いし、ゆっくりと扉を開いたが、外を見渡しても何もなかった。
「やっぱり私の気のせいかな……」
「緊張して、聞こえないのが聞こえたりして……」
「ちょっと! そう云う話しないでくれる? わたし幽霊とかそういうの駄目なんだから。……って、自分がそうじゃないの?」
鹿波さんは自己解決する。
「…………」
「――どうしたのよ?」
鹿波さんに声を掛けられ、ハッと我に返った。
そして、それを指差す。
其処にはあの時の少女がいた。
鹿波さんも彼女が見えるらしく、一度警戒するような表情を浮かべるが、直ぐにもとの表情に戻した。
「君は……いったい、誰なんだい?」
僕はまた同じ質問をする。少女は口を動かすが、何も聞こえない。
「聞こえないじゃなくて、聞けないのよ、私たちには……」
鹿波さんは少女の正体に気付いたのか、はっきりとそう云った。
「知ってるんですか? あの子の事……」
「知ってるも何も、みんな多分知ってるわよ……」
そう云われ、少女をもう一度見遣る。
その時、僕の脳裏にある映像が浮かび、愕然とした。
「君は“花鳥風月”に描かれていた……」
僕がそう云うと、少女は何の事だろうと云った感じに困った表情を浮かべる。
恐らく、絵のことを知らないのだろう。
「きっ……」
声をかけようとしたが、突然風が吹き荒れ、僕と鹿波さんは目を覆った。
――その一瞬だった。
「あっ……」
僕と鹿波さんは唖然とする。何時の間にか少女は消えていたのだから。
僕は自分の時計を見ると、針は午前〇時を指していた。