丗伍【8月11日・午後9時14分】
夕食を終えた後、一時間ほどテレビなどを見てから、秋音と冬歌はお風呂に入りに、繭は深夏の部屋で一緒にいる。
今広間に残っているのは私と正樹、霧絵、春那、早瀬警部の五人だ。
「では、これまで鹿波さんと霧絵さんが見てきた夢が本当だったと仮定して、犯人は必ず八月十一日に渡辺洋一を殺害した……と思わせておいて、実際は殺しておらず拉致している。若しくは一緒についていったと考えましょう」
「鶏小屋の天井から吊り下げた人形をまずどうやって吊り上げたか……からですね。あの薄暗い鶏小屋でなら気付かない場合はあるでしょうけど、天井に張り巡らされた柱に滑車をつけて、それで吊り上げた」
「でもそれは、鶏小屋を造った時からと考えないと駄目なんじゃないんですか?」
「ねぇ、母さん……あの小屋はこの屋敷を受け取った時から鶏小屋として使ってたの?」
「ええ。鶏小屋は農園と一緒で、元々からあった場所をそのまま使ってる。此処は山の中だから、買い物に行こうにも出来なかったからね。野菜や卵だけなら自家栽培出来るでしょ?」
「つまり日用雑貨以外はこの屋敷で採取出来ていたという事ですか?」
「水は精留の瀧から汲み取ってますし、山菜や川魚、冬には猪が出る場合がありましたから、狩猟許可を県から貰って、牡丹鍋とかもやってましたね」
「なんか、麓より豪華な気がするんですけど?」
正樹が唖然とした顔でそう云うと、「そうとは限りませんよ? 屋敷の周りは塀で囲まれているとはいっても、匂いでわかるのか、猪が農園近くの塀を突き破った事だってあるんですから。そこだけの修理に毎年悩まされてますからね」
どうやら、それが悩みの種らしく、春那は頭を抱えていた。
「孤児院も同じような感じだったんでしょうか?」
「どうでしょうかね? 孤児院にいたのはほとんどが子供で、大人といえるのは院長と職員だけでしたでしょうから。鉄線で取り囲んでいたと聞きましたが、それが果たして鳥獣被害を防ぐためだったのか……」
「……どういう意味ですか?」
「院長は子供たちの心を壊すほどの暴力や性的虐待をしていて、恐らくその中の一人を誤って殺してしまっている。その事で院長を殺した後、人知れず逃げる事も出来れば、隠す事も出来たかもしれない。四十年前、うちの親父が鹿波怜という老婆に会いに行った時点で既に山道はある程度補強されてたんですよ。つまり、逃げようと思えば逃げられたが……」
「子供たちは逃げていない」
「でも遣り過ぎじゃないですかね? ただでさえ山の中なのに、それを鉄線で孤児院の土地を全部囲むなんて」
「もしかしたら、子供達の戸籍がなかったのは、麓に行く理由がなかったからじゃないの? 先刻霧絵が云ってたでしょ? この屋敷には野菜もあれば卵もある。水もあるし、肉だって取れる……云ってしまえば一つの小さな国と考えられるでしょ? 自分たちの国で充分取れるのに、態々他の国に行くわけにはいかないでしょ?」
「でも、お米はどうするんですか? さすがにそれは麓に行かないと手に入らないんじゃ? それにそんな土地があったとは思え……」
正樹は言葉を止めた。
「自家栽培でしょうな……条件が悪いとはいえ、造れなかったとは思えませんし」
「子供たちが与えてもらえていたかですけどね」
「それじゃ一体何のための孤児院ですか? 子供たちを護るためにあるんでしょ? それなのに、職員達が与えていなかったかもしれないって……」
「榊山は本来、人が入ってはいけない山だった。それを六十年前に集落が出来、それからその場所は人が住むようになった」
それを聞いて、私は縁が云った言葉の意味を知る。
縁は元々から生きていない。それは私も同じだが、理由が違う。
私は護りたいからこの場所に来た。
だけど、縁の目的は何? 何の目的でみんなの前に姿を現し、私と正樹以外に自分に関しての記憶を消したのか、それが全然わからない……
そもそも、邪魔者だと考えているのなら、最初からこの舞台にしなければよかったのに……
「ねぇ、霧絵……耶麻神って言うのは昔からあったの?」
「それって、どういう意味ですか?」
「だから……耶麻神乱世の前に誰が“耶麻神”を名乗っていたかよ?」
霧絵は少し考えると、頭を振った。
「耶麻神はお爺様がご自分で付けた名前です」
やっぱりそうだ…これで何故耶麻神という名前の謎も解ける。
「若しかしたら、乱世自身も孤児だったのかも……だってここら一帯を牛耳っていた乱世が高々一つの孤児院に執着する? 慈悲だったとしても、山一つを与えるなんて思えない」
「確かに山を手に入れるために集落を襲わせたと思われてますからね。でも、それに関しては耶麻神乱世は関与していない。むしろ関与出来ない」
早瀬警部がそう云うと、正樹と春那は首を傾げる。
「それは孫である霧絵が一番知ってるんじゃない?」
そう訊ねると、霧絵はお茶を一口のみ心を落ち着かせた。
「耶麻神乱世は、私が三歳の時に亡くなっています。ですが、耶麻神の名を消さないためにそれを伏せていたようです」
「まるで武田信玄みたいですね。確か自分が死んだ後も3年は隠すようにって話がありませんでした?」
「何時の時代も情報が命になりますからな……。となると、既に耶麻神乱世が生きていなかったとなると、いったい誰が集落を襲わしたんでしょうかね? それも私の家を襲った襲撃犯同様に素人を集めて……」
私はあの時の事を思い出していた。
襲撃を食らったのは夜だ。それも前々から襲撃を食らうと教えてもらっていた。
でないと死ぬ場所は家の中だからだ。
でも、私が死んだ場所は精留の瀧だった。
それは襲撃犯から逃げるため……
一瞬グラッと頭の中が歪む。
それに伴ってか前のめりに倒れてしまう。
「大丈夫ですか?」
隣に座っていた霧絵と春那が声をかけてきた。
「だ、大丈夫……」
「昨日タロウの訓練をして大怪我をしてるのに、無理をするからですよ」
春那はそう云うと、零れてしまったお茶を拭き取った。
「痛みはだいぶ治まってるけど、後で診てみるわ」
「後で舞ちゃんが来る予定ですから、その時に見てもらっては?」
早瀬警部にそう云われ、私は頷いた。
「それじゃ……舞ちゃんが来た後の事ですが、屋敷の中を知らないうちに入り込んでいるやつらでしょうから、どこで聞いているのかわかりません。ですから此処は単純な話で行きましょう」
そう言うと、早瀬警部は屋敷の全体図を台の上に広げた。
「屋敷の造りは孤児院として使っていた当時のままでしょうな。それをある理由で一つ部屋を壁で囲んでいる。廊下の幅に対して、広間の広さが狭いですからね。多分屋敷を受け渡した人物がしたんでしょう。それと廊下を挟んでの六部屋は躾部屋として使われていたようです」
「酷い話ですね」
「まぁ、確かに行き過ぎてはいましたが、昔は反省するまで押入れの中に閉じ込められてたものですよ」
早瀬警部の話を聞いていると、私もおばあちゃんに怒られた時、よく押入れの中に入れられたものだと思い出した。
まぁ、その時はまだおばあちゃんは白内障になっていなかったし、元気な方だった。
まぁこれは年齢の問題だからどうしようもない。今だったら直せるかもしれないけど。
「でも、その時は見方がいたものですよね?」
「まぁそうでしょうな。私の場合はお袋でしたけどね、自分も責められるのがわかっていても、ついつい助けるんでしょうな」
そう話しながら、早瀬警部は頭を掻く。
「助け舟がないと駄目でしょうね。四面楚歌じゃ可愛そうですし」
「でしょうな……春那さんもされた事あるんじゃないんですか?」
そう云われ、春那は少し赤らめる。
「どうかしたんですか?」
正樹がそう訊ねるが、春那は俯く。
「瀬川さん? 人には訊かれたくない秘密もあるんですよ。それにデリカシーのない人は嫌われますよ?」
霧絵はクスクスと笑いながら言う。それを見て、春那は更に顔を赤らめた。
因みに春那が押入れに入れられた理由は夜一人でトイレに行けなかった事だ。
それが十歳まで続いたらしく、何時までも一人で行けなかったため、大聖から暗い場所でも平気でいられるようにと押入れの中にいさせられた。一、二時間で出すつもりだったのだろうけど、それをすっかり忘れていたらしい。
それ以来春那は閉所恐怖症になっている。
「それでは舞ちゃんが来た後、皆さんには長野県警が保護します」
「つまり、ここから退場しろと?」
「ええ。ここからは警察の仕事です。皆さんをこれ以上危険な目に合わせられない」
「でも、これは私たちの問題でもあります。当事者が逃げ出したんじゃ、負けを認めてるのと一緒じゃないですか?」
早瀬警部は少し歪んだ表情を浮かべたが、直ぐに諦めたような、いや……最初から私達が屋敷から出ない事はわかっていたのだろう。
「ここから先は長野県警刑事部捜査一課所属、早瀬慶一警部としてではなく、耶麻神大聖の友人である早瀬庸一として言います。大聖くんに代わって、私が皆さんを必ずお守りします」
そう云うと、早瀬警部は私たちに向かって土下座をする。
「頭を上げてください。庸一さん……警官は常に凛々しく、決して人に弱みを見せてはいけないのが、あなたのお父様の教えてはなかったのですか? それに憧れて大聖さんの悪友だったあなたが頑張ってお父様の背中を追った。だからこそ凛々しくしてください」
「ですが…… 私は大聖くんを救えなかった」
「大聖さんは怨んでなんかいませんよ。寧ろ感謝してると思います。自分の言葉を信じてくれたからこそ、裏帳簿の事が明らかになったんじゃないんですか? 今まで起きていた役員達の自殺と見せかけた殺人事件も、解決の糸口が見えたそうじゃないですか?」
「大聖さんだったら、人を助けるのに自分の身を犠牲にはしませんよ。鼬の最後っ屁も遣りかねませんからね」
霧絵は笑いながら言う。
誰も反論しないのは、しそうだと思っているからだった。
「はぁ…… 本当に大した人たちだ。若しかしたら死ぬかもしれないのに」
「夢の中で何回も死んでますからね。今更現実で死んだところで何ら変わりませんよ」
そう云われ、早瀬警部は大口で笑った。