丗壱【8月11日・午後3時42分】
早瀬警部が長野県警捜査本部に戻ってから数分経っていたが、その間、部屋の中に舞が戻ってきていない事を不思議に思い、近くにいた刑事に尋ねたが、彼も詳細を知らなかった。
「あ、早瀬警部……鑑識結果が出ました」
部屋に入ってきた鑑識課の刑事が早瀬警部に声をかける。
「そうですか。それで、やはり遺体は本部長のものでしたか?」
そう訊ねると、鑑識課の刑事は少し訝しげな表情を浮かべる。
「はい。確かに発見された死体は本部長のものだったんですけど、数箇所違った人間のが混ざっていました」
「どういう事ですかな?」
「発見された頭部、胴体、両足、左肩から手にかけての部分は本部長の物だったんですが……右腕と思われる部分は違う人間であるという鑑識結果が出ました。それにより、ここ最近遺体をバラバラにする事件があったかを調べていますが、逆に何時あったのかが特定出来ない以上、その遺体のものだという断言が出来ないんです」
鑑識課の刑事は書類を読みながら、自分の意見を伝えた。
「もう一つの死体と本部長との繋がりは?」
「それがわかれば苦労はしませんよ。確か本部長は余り人間関係はよろしくなかったようですから」
それもそうだ。実の息子や妻とさえコミュニケーションをとってなかったようだし……と、早瀬警部は肩をすくめた。
「ところで舞ちゃんは一体何処に行ったんでしょうかね? それにあの馬鹿息子もいないようですが?」
「植木警視と大牟田警部は一緒に何処かに行かれてたようですが」
「あの二人がですか?」
それはまた奇妙な組み合わせだなと、早瀬警部は含み笑いを浮かべた。
そんな中、突然内線が鳴った。
「はい。此方捜査本部……植木警視? えっ? あ、はい……早瀬警部なら戻ってきていますが……はい。伝えておきます」
内線を出た婦警が電話を切ると、「早瀬警部。植木警視から至急ご自宅に戻って下さいとの事です」
「私の家にですか? しかし何てまた……」
「詳しい内容は其処で、との事です」
早瀬警部は少し考え、「わかりました。それじゃちょっと行ってきます。誰か車出して下さい」
そう云って、早瀬警部は部屋を出て行った。
早瀬警部は自分の家の前に来て、ようやく舞の意図がわかった。
庭に回ってみると、引き戸のガラスに小さな罅と血が点々と付着していた事、そして舞の左手に包帯が巻かれていた事が結びついたからだ。
どうして、そんな事が起きたのか理由を聞き、更にいるはずである自分の妻がいない事に違和感を感じていた。
「早瀬警部。申し訳ありません」
舞が深々と早瀬警部に頭を下げる。
「舞ちゃん……頭を上げて下さい。これは貴女の責任じゃなく、私の監督不届きなんですから」
「ですが、まさか自分の車に盗聴器が付けられていたとは露知らず、渚さんをこの家に送ったことを相手に聞かれてしまい」
早瀬警部はジッと舞を見据えていた。
「ですが、その本人はこうしている訳ですけどね……」
そう、早瀬警部の隣には鮫島渚が座っていた。
どうして彼女が無事だったのか、それは単純な答えである。
ただ隠れていただけ、しかも誰にでもわかるような場所に……。
「それにしても、うちのかみさんも考えましたね。渚さんをシンク棚に隠すなんて」
「シンク棚を見て吃驚しましたよ。子供一人が隠れるくらいの隙間があったんですから」
「恐らく渚さんが小柄だったから出来た荒業でしょうな。それにしても怖い思いをさせてしまいましたね」
早瀬警部は渚に謝るが、渚は違う意味で申し訳なく思っていた。
「渚さんの話だと、奥さんが何者かに連れて行かれたことには変わりないようですが……連れて行かれたというよりも、付いていったと云った方がいいのかもしれませんね」
大牟田警部がそう伝えるが、早瀬警部はいまいちピンと来なかった。
それもそうだろう。突然人が押し込んできたのだから、早瀬警部の妻は渚を匿った。
それに自分が連れて行かれるのなら、悲鳴の一つくらいは挙げるはずである。
それなのに渚が聞いていた状況では、悲鳴どころか何か話していたようだが、声を殺す事に必死で内容はほとんど覚えていないかった。
「早瀬警部。失礼ですけど、奥様の交流関係で心当たりは?」
「いや、あまりそう云うのは話さないんでね。此方も詮索はしないんですよ」
それを聞いた舞は少し考える素振りを見せた。
「こちらで勝手に調べましたが、奥さんは孤児院の施設にいたそうなんです。ですが施設自体は三十年前にある事件が起きてから潰れているようです」
「うちのかみさんは余り昔の話をしてくれませんけど、一体どんな話ですか?」
そう訊かれ、舞と大牟田警部は話していいのだろうかと少し躊躇ったが……。
「その孤児院で児童達による院長を殺害したというのがあったそうなんです。しかし、院長の死因は心臓麻痺で、当時の鑑識結果だと、酒に酔った状態で水風呂に入り、急激に血液の流れを縮めたのが原因じゃないかと――。早百合にお願いして、当時の捜査報告を調べてもらいました。アルコールを取っている場合、血液の流れは速くなりますから、それによるものだそうです」
「つまり、その当時の子供たちの中に私のかみさんがいると? 馬鹿々しい……云っておきますけどね? かみさんは今年で五十二になるんですよ? 三十年前といったら、もう社会人じゃないですか?」
早瀬警部の疑問にも一理ある。
それくらいの年齢なら既に社会人で、一人暮らしをしながら働いていただろう。
「それが…… なかったんですよ……」
舞が少し言葉を濁らした。それが早瀬警部の逆鱗に触れた。
「なかった? 一体何が?」
「なかったんですよ! 奥さんが生まれてから施設に出るまでの戸籍が! 戸籍は孤児院が持つものですが、その手続きも何もされていなかった。事件が発覚したと思われる日から一週間後、今のご両親が彼女を養子縁組にしている」
なんとも荒唐無稽な話である。
「ちょっと待って下さい! 私はちゃんと親御さんにお会いして、結婚の挨拶をしてるんですよ」
早瀬警部は妻が養子縁組だとは一言も聞かされていない。
しかし、何故事件発覚から一週間後に養子縁組が出来たのか、それは事件発覚を隠していたから、事件が公になったのは、実行されてから既に半年が経っており、遺体はワインセラー等の冷たい場所に保管されていた為、損傷はあまり見られなかった。
当時働いていた職員が自首してきた事でわかった事である。
その間、児童達は養子縁組になっているため、身元がわからないでいる。
「それと、その施設を支援していたのが、耶麻神関係の者だったようです」
「――結局、出鱈目な糸屑は耶麻神に結びつく訳ですか……」
「それだったら、まだよかったんですけどね……」
舞の言葉に早瀬警部は首を傾げる。
「榊山にある耶麻神邸が出来たのがいつか知ってますか?」
「確か、三十年位前に……でもきちんとした時期はわからな……」
早瀬警部は唖然とする。
いや、そうだと考えるとあの無駄に広い屋敷内と“箱庭”と呼ばれていた理由も頷ける。
「その施設が今の耶麻神邸だと云うんですか?」
「確信は出来ませんけど……でも、旅館としては、場所が悪すぎませんか?」
「確かに……それじゃ、大聖くんや霧絵さんはその事を知っていて」
「ですが、確か大聖さんや霧絵さんも、何時建てられたものか知らなかったそうじゃないですか?」
施設から誰一人、それこそ誰が入り、誰が出て行ったのかがわからない。
それもそうだ。施設が潰れたのは丁度、霧絵と大聖が屋敷を手に入れる一年前だったのだから……そして、この事件も打ち切られている。
「しかし、孤児院にいた子供たちが院長を殺すとは……何か理由があるんでしょうけど」
「虐待ですよ。子供たちは院長から執拗な虐待を受けていたようです。女の子の中には性的虐待を受けて、無理矢理中絶させられた子もいたようです」
中絶は当然の事ながら、中絶手術でするものである。
院長はお腹を蹴り飛ばして胎児を殺し、流産させている。
その事による後遺症で、その娘は一生子供が埋めない体になっていた。
「院長権限がありますし、当時、日本は高度成長期だったとはいえ、再就職は難しかったでしょうから、職員も口出し出来なかったそうです。いや、中には虐待に参加していた職員もいたそうです」
聞けば聞くほど、胸糞悪い話である。
そんな院長なら復讐されても仕方がないとさえ思えてしまう。
「屋敷内に誰も入れない場所がありますよね? 赤い扉以外の場所は躾部屋と偽った拷問部屋だったそうです」
「大聖くんは知らないうちに、その施設後を使っていたという事ですね」
施設であった事を知らないのか、それとも知っていたのか……今となっては全くわからなくなってしまっていた。
「これ以上渚さんを危険な目に遭わせる訳にはいきませんから、長野県警に連れて行きましょう」
「確かに……ですが、長野県警には敵がいるんじゃ……」
「だからこそですよ。大牟田警部、彼女の警備をお願いします。失敗したら……」
そう云いながら、早瀬警部は自分の首を手刀で切った。
勿論、早瀬警部にそんな権限はない。
しかし、それくらいの覚悟を持てと云いたいのだろう。
「わかりました」
大牟田警部は早瀬警部と舞に敬礼をした。
「それじゃ……まずは人ん家の庭に、無断で隠れている人たちをぶちのめしてからにしますかね」
そう云いながら、早瀬警部はソファから立ち上がった。
大牟田警部はその言葉に驚いていたが、舞は感付いていた。
二人とも刑事課にいたからこそ、経験で殺気を感じていたのだ。
庭に隠れていた数人の男たちも観念したのか、それとも隠れている事に飽きたのか、徐々に姿を現していた。
「ある人からの命令でね? 口を塞がせてもらいますよ」
そう覆面の男が銃を向けるが、刹那男の手から抜け落ちた。
男は何が起きたのか全くわかっていなかった。
そして、自分が天を仰いでいる事にさえ気付くのに、どれ位掛かっただろうか。
「っく……」
男は体制を整えようとしたが、「っせっ!」
舞が男のお腹に蹴りを入れ、その衝撃で男は泡を吹いた。
男の近くには灰皿が転がっており、どうやらそれで拳銃を落とさせたのだろう。
幸いガラスは防犯ガラスだった為、割れる事はなかった。
「ひ、卑怯だぞっ! 不意打ちになんて…… お前それでも警察か?」
仲間の一人が狼狽するが、その表情は蒼白へと変わっていく。
舞が懐に潜り込み、男の鳩尾に正拳を食らわしたからである。
「卑怯? 今貴方達が言ってた事は嘘な訳? 私たちを殺しに来たんでしょ? だったら! 殺される覚悟で相手になってやるのが礼儀でしょっ!」
舞の云う通りである。
本来殺人とは殺される覚悟がなければいけない。
殺した相手の親しい人間が自分を殺しに来るかもしれないのだ。
そんな覚悟がなければ、殺人など犯してはいけない罪である。
その覚悟がやつらにはなかったのか、二人やられた瞬間、何人かが逃げようとしていたが――。
「逃げれると思わないでくださいよ? 貴方達全員を捕まえてやりますから」
表に逃げ込む場所には早瀬警部が立っており、裏にまわろうにも舞が立っている。
「っ! くそおおおおおおおおっ! 死ねぇえええっ! 老い耄れ爺ぃいいいいいいっ!!」
男がナイフを持って、早瀬警部目掛けて突進していく。
「猪突猛進。前しか見えていない」
そう早瀬警部が口にすると、スーッとナイフを受け流し、相手の顔に肘打ちを決めた。
別に早瀬警部の力が強いわけではない。相手が勢いよく突進してきただけである。
何故これほどまでに二人が強いのか、それは現場専門の刑事だったからである。
現場専門の刑事は基本体力勝負である。
そして犯人と刺し違えた場合を想定し、その訓練もしている。
だからこそ命を張った事が出来るのだ。
勿論、死が怖い訳ではない。寧ろ怖いのだ。
だが、恐怖を知っているからこそ、その対処法を知っているだけである。
ただ単に銃やナイフで人を殺すという事しか知りえない彼らとは、覚悟に雲泥の差があった。
「くっ……」
倒れていた男の一人が早瀬警部目掛けて銃を放った。
そして銃声が空を切った。
「早瀬警部っ!? っくのぉおおおおおおおっ!」
舞は拳銃を撃った男の手を蹴った。
その痛みで男は銃を手放す。
その銃声が終わりの合図だったのかはさて置き、最早やつらは二人に立ち向かう気力を持っていなかった。
「早瀬警部、大丈夫ですか?」
「大丈夫、これくらい掠り傷ですよ。それより、私と舞ちゃんは急いで耶麻神邸に向かいましょう……」
早瀬警部の言葉に舞は頷いた。
「大牟田警部。すみませんが渚さんを宜しくお願いしますね」
「わかりました」
「本部までは私が同行します。早瀬警部は先に行って下さい」
舞にそう云われ、早瀬警部は乗ってきていた車に乗り込み、急いで榊山へと向かった。
その数分後、近くの住民が警察に通報し、奴らは呆気なくお縄についた。