廿玖【8月11日・午後2時30分】
縁の部屋窓は先程澪達が云っていた通り、正樹の手が入るくらいの隙間しか開かない。
「縁さんっ! いらっしゃいますか? 縁さんっ!」
正樹は窓を叩きながら彼女を呼ぶが、返事はない。
部屋の中は日が昇っているにも拘らず、真っ暗で中が見えない。正樹の部屋も窓側になるのだが、ここまで真っ暗にはならない為、正樹は首を傾げていた。
「澪さんっ! 繭さんっ! そっちはどうですか?」
巴が襖の方にいるはずである澪と繭を呼びかけるが、こちらも返答がない。
それもそうだろう。彼女達はこの時点では廊下にはいない。
「っかしいなぁ……いるはずなんだけど……」
巴は首を傾げ、もう一度呼びかける。
「仕様がない。玄関から回りましょう」
巴がそう云うと、二人は玄関から上がろうとしていた時だった。
「あら? お二人とも…… どうしたんですか?」
目の前にいたのは、紛れもない……縁だった。
「縁さん? 一体何処に……」
「何処にって…… トイレに行ってましたよ?」
そう云われ、二人はキョトンとする。
「若しかして、あの使用人が云っていた事を真に受けてたんですか?」
縁はクスクスと哂いながら云う。
「でも、彼女達が嘘をついて、何のメリットが?」
「さぁ……そう云えば、その二人の姿が見えませんけど」
縁はキョロキョロと辺りを見渡す。
「貴女は客人なのよ? 客人が余り屋敷の中を探索するのは、不謹慎じゃないの?」
「トイレとお風呂の場所くらい知った方がいいでしょ? それと……使用人と姉妹達の部屋の場所も」
「知ったところで入れないでしょ?」
「確かにね……それじゃ……」
そう云うと、縁の瞳は真っ赤に染まっていく。それを見て、二人は縁と視線を合わせないようにする。
「なるほど? 対処法は知ってる訳だ……でも、巴さんは見ても平気なんじゃないの? 同じ“鏖の神”なんだから……」
確かに巴は金鹿之神子である。
つまりその力に対抗出来る力を持っている。
巴はゆっくりと相手を見据えた。
「瀬川さんがこの時点で既に対処法を知っているという事は、今までの記憶がある……」
「それがどうかしたの?」
「それじゃ……今まで起きた事件の概要も覚えてるって事よね? “巴さんが今朝の担当を替えた”。これにより渡辺が鶏小屋で死ぬ事は亡くなった。そもそも! 渡辺は鶏小屋で殺されていない!」
そう縁が断言すると、床が歪んだ。
「今までの世界で、共通して八月十一日午前四時四十分前後に“鶏小屋で死体が発見されている”。しかし、扉を閉じた後、再び扉を開けるが、あったはずの遺体がなくなっている。“鹿波巴が来た場合は死体も何も発見されていない”」
確かに縁の云う通り、巴が渡辺洋一と一緒に鶏小屋で仕事をした時は行方がわからなくなっただけである。
「そして、鶏小屋に入った瀬川正樹は、一緒に入った澪、若しくは繭の狂言により、“天井に吊るされた死体を渡辺洋一のものと認識している”。グチャグチャに潰された顔と引き裂かれた四肢、それだけでは遺体が誰なのか確定は出来ない。然し、“着ていた甚平が渡辺のもの”なら、それが“本人”だと錯覚出来る!」
「でも、その推理には矛盾が生じてるわよ? 若し貴女の云う通り、その死体が渡辺のものじゃないのなら、当の本人は何処に行ったって云うの?」
「何処にも行ってませんよ……ずっと隠れていた」
「それが何処なのかを訊いてるんでしょ?」
巴が興奮状態で訊ねると、縁はクスクスと哂う。
「“鶏小屋の中で殺人は起きていない”! これは渡辺洋一だけではなく、首をちょん切られたり、周りに捨てられた鶏も同様! そもそも! あんな短時間で人間が殺せるとでも思った? “鏖の神”ナンテ幻想ハ最初ッカラなイノヨ?」
縁の云う通り、短時間で人をあんなふうに殺せるとは巴も正樹も思っていない。
だが、そんな中でも巴の表情は何処か余裕があった。
「それじゃ……あくまで貴女は渡辺洋一は生きているという説で通す訳ね」
「ええ……そうですよ? 死体を前々から準備しておき、時機を見計らって宙吊りにすればいいんですから……」
「そう……それじゃ……どうして私の時にはしなかったわけ?」
確かに縁の云う、死体を前準備していたのなら、巴がいようがいまいが、鶏小屋から出しているので、死体を出す時間はあった筈である。
「それは私が“遺体を宙吊りにし、自分は防空壕の中に逃げ込むという時間の猶予を与えなかったから”! 確か私が鶏小屋から追い出されてから、澪が門を壊し、中に入るまで…… 多く見積もっても、五分となかったと思うわよ?」
巴がそう云うと、縁の表情が歪む。
「二人とも“死体は前々から用意されていた”というところは同じなんですね」
正樹がそう云うと、巴は頷く。
「だけど、“防空壕がある”というのを“鹿波巴が来る以前には誰も口にしていない!」
「正樹は“長野県の出身”である! 当の本人が“こっちの生まれ”だと、自分の口から発している! 違う県の生まれだったら、こんな事云わないわよね? そして、“榊山に集落があった事を知っていた”としたら? そして戦争があったにも関わらず、集落は滅びなかった。これは集落の人間が独自に防空壕を作り、身を守っていたから……」
「それなら、その入り口が偶然この鶏小屋だった……と、云う事ですか?」
「鶏小屋が防空壕の入り口だったのなら、今の今まで、渡辺が死体で発見される場所が、鶏小屋だったというのが説明出来る。そもそもこの屋敷からは出る事は出来ない。出ようと思えば池の中を泳いで、川に流れ出るって方法があるけど、そんなの人間が出来る訳がない。何故なら人が入るほどの穴じゃないから。そして鶏小屋から素直に出る事は出来ない! 何故なら……タロウ達は既に起きていたから! あの子達が気配を感じて、吠えたのなら、逃亡失敗でしょ? さらに鶏小屋の鍵は、内側からしか閉まらない事を渡辺本人が証明している。これにより、外から鍵を掛けられないという徹底的な証拠であり、彼が防空壕からしか逃げ場所がない状態である」
巴がそう云い切ると、縁は口元を歪ませる。
「さぁ、こんな馬鹿な事を穿らないで、本当は一体何処に行ってたのか……」
そう縁に問い質そうとした時だった。
ピチャッ……
不意に巴の足元から水が滴り落ちる音が聞こえた。
正樹と巴はその音にギョッとし、其方へと見遣った。
「……っ!?」
そこには指先が転がり落ちており、今なお血が止まらないでいた。
それが巴自身のものだと、本人が気付くのに一体どれ位掛かっただろうか……
「私の力を教えてあげましょうか? 確かに貴女と同じ“鏖の力”を持っていますが、相手に痛みを与えずに殺す……いうなれば毒薬のようなものですね。あ、ご心配なく、それは幻想ですから……」
縁はそう云いいながら手を叩くと、廊下が歪みを正していき、巴の指先も元に戻っていた。
「くくくっ……きゃはははははっ!!」
突然縁が笑い出し、正樹と巴はキョトンとする。
「何が可笑しいの?」
「仮に渡辺洋一が生きていたとすれば、それはどうして?」
「自分を亡くした状態にすれば、動きやすく……」
巴はその先を云おうとしたが、出来なかった。
死体が動き回るというのは、この屋敷内では出来そうで出来ないものだ。
何故なら見付かってしまえば意味がない。
例え広い屋敷内であったとしても、鍵を持っているのは春那だけである。
だからこそ、何故最初、深夏が殺されたのか矛盾が出来る。
「あ、それと……実際あった事件は渡辺失踪のみ。他の事件は全く持って関係ない」
そう云うと、縁は二人の間を通り、客室へと入った。
「ちょっ! それってどういう意味よ!」
巴が襖を開けるが、部屋の中には誰もいなかった。
「あぁあああっ!」
巴は興奮のあまり、拳を畳に叩きつけた。
「鹿波さん、落ち着いて……」
「渡辺が失踪した以外は全く持って関係ない? それじゃ……他の皆は誰が殺したっていうのよ?」
「彼女の言うことが本当だったとしたら、彼女は全ての事件を知っている」
「彼女が“脚本家”だったとしたら、説明出来るけど……でも、深夏と春那が殺された時、二人とも死んでから発見されるまで時間がある。つまり、二人がそれぞれ殺された時間は、鶏小屋で死体が発見される時間より前になるのよ」
巴がそう云うと、正樹は違和感を感じていた。
「それじゃ秋音ちゃんはどうして殺されなかったんでしょうか?」
確かに夜中、二人が殺されていたとすれば、秋音が殺されなかったのが不思議である。
それが共通している事なら、秋音も殺されていた可能性だってある。
「春那と深夏は、渡辺が発見された時点で既に死んでいる」
「でも、春那さんが遺体で発見された時、第一発見者は深夏さんですよ?」
「深夏を発見したのは繭だけど、これは説明が出来るわよ? 夜中に毒薬か何かを飲まして殺した後、目を抉り取ればいいんだから……」
そんな残酷な事を……と、正樹は言おうとしたが、可能性がある以上、何もいえなかった。
「仮に春那が殺された時ね。目を抉り取ったのが誰なのか証明出来ない」
それは繭に対しても同じ事が言える。
だからこそ、植木警視の言葉が、巴の頭の中で引っ掛かっていた。
“証拠がないと何も出来ない”。
つまり、徹底的な証拠がなければ意味がない……それは鶏小屋の中に防空壕の穴がなければ、渡辺が失踪したという証拠にならないと云うこと。
「何の理由もなしに、鶏小屋を調べるのは無理でしょうね。そもそも鶏小屋にあるのかも定かじゃないのに……」
巴は大の字になって倒れる。
「あの、他に何かやつらがこの山を執着する理由はないんですか?」
「そもそも耶麻神乱世がこの山を手に入れるために私たちを殺したと思ってたけど、どうも違うみたいだし……だからといって、石炭が欲しかった訳でもない。なら、別にほしいなんてものはないと思うのよ……」
「防空壕を作った理由は?」
「あんたねぇ? 爆弾から身を守るためでしょ? 私が生きてた時はもう戦争が終わってたから……」
巴は起き上がると、何か考え始めた。
「あの時だって、防空壕に逃げさえすれば、みんな助かってたんだ……それなのに逃げ込まなかったのは、何か理由があったから……」
巴がこの世に生を受けた時、既に戦後から二十年以上が経っていた。それなら防空壕の役目など殆どない。
「澪さん? 澪さぁああんっ!」
廊下から繭の声が聞こえる。
何かあったのだろうか?と、正樹と巴は互いを見遣った。
襖が開いていた事に気付いた繭は此方を覗き込み、二人を見つけた。
「あ、瀬川さんと鹿波さん。あの、澪さん見ませんでした?」
「一緒じゃなかったんですか?」
「それが何か用事があるからって……」
その言葉に二人は驚きを隠せないでいた。
「あの縁さんがいなくなって、それを探してたんじゃ……」
正樹がそう尋ねると、繭は首を傾げた。
「あの…… “縁”って、誰ですか?」
彼女が冗談を言っているような表情ではない事は二人も気付いていた。
それでも二人はしつこく訊くが、「もう、冗談は止めて、澪さんを探して下さい」
そう云うと、繭は再び廊下に出て、澪を探していた。
そんな繭を襖から覗いていた正樹の後ろで巴は身体を震わしていた。
「そ、そんなの……そんなの反則でしょ? 繭の記憶から自分に関係あるものだけ消し去ったなんて! 脚本家なら堂々と筋を通しなさいよ!」
二人は中庭にいる霧絵達からも“縁”の事を訊ねたが、全員存在すら覚えていなかった。