廿漆【8月11日・午後2時32分】
ハナの出産のさい、付きっ切りで見守っていた澪にも、ようやく暇が出来、遅い昼食を取っていた。
霧絵や姉妹たちの昼食は、正樹と巴が作っていたので空腹にはなっていない。
「……ごちそうさま。春那お嬢様はお昼食べたの?」
昼食を食べ終えた澪はすぐさま片付けを終え、春那の容態を気に掛ける。
「いや、まだ……部屋からも出てませんね」
そう繭に云われ、澪は春那の部屋を一瞥する。
「そういえば、深夏お嬢様が作ってたお粥どうだったのかしら?」
「美味しいって云ってたそうですよ。ただあくまで澪さんが作ったって事になってるみたいです」
そう返され、澪は少し考える。
「若しかして、本当の事を云っても“嘘”と捕えられるからかしら? 深夏お嬢様、本当に料理駄目だから……」
そう云われ、繭は苦笑いをした。
「それにしても、静かね……」
広間には澪と繭しかおらず、春那を除く姉妹と霧絵は犬小屋でハナと子犬を見ている。
正樹と巴には夕食のためにもう一度精留の瀧へ水汲みを頼んでおり、渡辺は霧絵の頼みで使いに出ていた。
そして縁はいまだに客室にいる……事になっている。
と云うのも、玄関から外に出たとすれば音が鳴るし、窓も手が入るくらいにしか開かないようになっている。
つまりは外に出るには玄関か裏口しかない。トイレに行こうにも、広間の近くを通るので、必ず誰かに会う事になる。
云ってしまえば、縁の部屋は密室になる。いや、出入り出来るのだから密室にはならないのだが、屋敷から外に出れないのなら、これも密室になるのではないだろうか?
暫くして厨房の勝手口が開き、正樹が澪を呼びかける声がする。
「お疲れ様です」
澪は正樹と巴に労いの言葉を掛けると、バケツを厨房へと運んでいく。
「繭さん。ちょっとお茶くれませんか?」
そう云われ、繭は冷蔵庫から冷却ポットを取り出すと、コップにお茶を注ぎ、正樹に渡した。正樹は貰うと、お茶を一気に飲み干す。
「あぁーっ! 生き返る!」
「すみません、繭さん。私にもくれませんか?」
「はい。巴さんの分」
そう云われるだろうと思い、繭はもう一つにもお茶を注いでいた。巴も巴で、コップを渡されるや一気に飲み干す。
「あっつ……何でこんなに暑いの? 精留の瀧にいる時はそう思わなかったけど……」
「多分、今日は暑いって云ってたからじゃないでしょうか? 気温も三十三度を超えるって云ってましたし」
それを云われ、巴は少し考えると、「それじゃ、雨が降るなんて……」
そう云うと、澪と繭のどちらが先に笑ったわけではないが、
「こんなに天気がいいのに、雨が降るわけがないですよ。そりゃ山ですから天気は変わりやすいでしょうけど、カンカン照りの状態で雨雲が出てくるなんてありえないでしょ?」
確かにそうなのだが、巴は苦虫を噛むような表情を浮かべる。
「あの、そう云えば……縁さんとこの窓が開いてましたけど」
「ああ、多分換気で窓を開けたんだと思いますよ。あの部屋の窓は少ししか開きませんし、実際クーラーが付いていても、気休め程度にしかなりませんよ」
繭が説明すると、「それが、人がいる気配がしなかったんですよ」
正樹の言葉に、繭と澪は互いを見遣った。
「え? ちょっと待って下さい? 人がいる気配がしなかったって、つまり、部屋から出てるって事ですよね? でも縁さんが用事があるなんて、トイレに行くか、水を飲みに此処に来るかですよ?」
「誰かに用がある…… 訳でもなさそうですしね」
確かに縁が誰かに会うとすると、渡辺を除く全員が縁に用がある訳ではない。
そもそも、部屋で休んでいる春那以外は二人以上で行動している。
「タロウとクルルが警戒してるみたいですから、奥様達の方にいるとは考え難いですし、春那お嬢様に用があるとしても、必ず広間の前を通りますから、私達が気付かないわけがないんですよ」
「ちょっと、見てきます」
正樹はそう云うと、縁の部屋へと走っていく。その後を巴が追い、澪と繭は襖の方へと走っていった。
「あ、繭は……」
澪が何かを云おうとしたが、途端に声を止めた。
「どうかしたんですか?」
「いや、気のせいよね? さっき誰かに見られてたような……」
そう澪に云われ、繭は首を傾げた。
二人は丁度使用人の部屋がある十字路の真ん中にいる。
澪が感じた視線は今は使っていないというより、あまり使われない部屋からだった。
しかし、それは澪だけで、繭は怪訝な表情を浮かべている。
「繭、あんたは春那お嬢様のところに行って」
「え? それってどういう……んぐぅ?」
繭が云い終える前に、澪は繭の口を押さえた。
「いいから、聞きなさい? 私は大丈夫だから……」
そう云うと、澪はゆっくり部屋の襖へと近寄っていく。
開く直前、澪は視線を繭に向け、行くように命ずる。
繭はそれを見ると、余り音を立てないで、早足に春那の部屋へと行った。
澪はそれを見終えると、少し深呼吸をした。
“藪を突付いて蛇を出す……か……”
そう考えると、どうして気になったのだろうと自問する。
気にせず、縁の部屋に行けばよかっただろうに……。
縁の方は正樹たちに任せるとして、この異様な空気の根源をどうしても知りたかった。
意を決した澪は襖をゆっくり……ではなく、思いっ切り開けた。
それこそ襖に罅が入るほどの衝撃音が響き渡る。部屋の中は暗く、まるで誰もいないようだった。
気のせいか……と、澪は天井を見遣った瞬間だった。
一瞬視界の端にギラリと光る何かが見えた刹那、後から誰かに押され、襖が閉じられる。
閉じ込められた?と思った瞬間、ぐらりと意識が遠のいていく……
――が、澪は足を踏ん張らせ、意識を保とうとする。
「……だれ?」
暗闇の先に何ががいる事はわかっている。
電気をつけようにも、この部屋は使わない事が多いので、一体何時電気を変えたのか、全く覚えていなかった。
去年の大掃除の時に変えて以来、入っていない。
仮に電気が通っていたとしても、恐らく両方とも危険であろう。
部屋に自分以外の人間がいるとなると、隠れる場所はこの部屋にはないはず……
だからこそ、出来る限り襖近くにいた方が安全でもあった。
後ろ手で襖を開けようとしても、何かつっかえ棒をされているのか、ウンともスンとも云わない。
全くの暗闇で、次第に自分が何処にいるのかもわからなくなっていく。
すると、澪の身体に、カッターで切られたような鋭い痛みが走る。
先程何かで自分を刺した人間が、影のように近付き、傷をつけていく。
両手、両足、腰や胸、背中へと傷をつけていく。
背中にされた時、澪は自分の背後が人の入るくらい開いている事に気付く。
部屋の中は四畳一間だが、自分たちの部屋と違い、押入れがない。つまりは逃げる場所がむこうにもない。澪は少しばかり齧っていた柔道の構えを取ると、目を閉じ、音だけを頼りにした。
暗闇なのだから、目を瞑ったところで変わらないとは思うが、そうではない。
目を瞑る事で本当に自分の目の前を暗闇にする。
強いては目が開いている事を意識させないようにする為だった。
神経を耳だけに集中させ、足音を頼りにする。
自分が何度も傷つけられても、音だけを頼りにしていた……。
――キュッ……という、畳を踏む音が聞こえ、
「そこぉおおおおおおおおおっ!!」
澪は一瞬だけ聞こえた微かな音がした方へと手を伸ばした。
延ばし終えた瞬間手は畳を叩くが、刹那何かに触れた感触があった。
もう一度、澪は瞼を閉じ、音だけに集中する。
むこうも先程の事で警戒したのか、今まで以上に音を立てないでいた。
――が、その緊張感は何時しか自分の首を絞める。本当の意味で……。
何かが壁に叩きつけられる音が響き渡った。
一瞬足音が聞こえ、澪は足元ではなく、上半身……いや、胸元を平手で押した。
相手と壁の間に隙間が余りなかった事が幸いだった。
「みつけた……」
澪は相手を押さえつけている左手をより一層押し込んだ。
手から伝わる感触から、相手は彼女よりも少し大きめで、力がある感じだった。
相手は逃げ出そうとしているが、壁と型の決まっている澪の両方から押さえられ、身動きが取れないでいた。
腕を掴みつく感触と、カッターで刻む痛みが全身を走ったが、澪は一向に放しはしなかった。
「…………ぐふぅっ?」
暗闇の中で男の呻き声が響き渡る。澪の正拳が男の鳩尾に決まったのだ。
そこからだった。澪は間髪いれずに何度も思いっ切り男の鳩尾に正拳を打ち込んでいく。
最初は声をあげていた男も次第に声を挙げなくなっていく。
相手が気絶している事に気付くと、澪は男の顔を触っていく。
男はゴーグルのようなものをしており、それを外し、自分に着けてみる。
するとそれは暗視スコープで、どうやらこれで自分の場所を把握していたのかと溜息を吐いた。
男の顔を見ると、全く持って知らない人間だった。
何時の間にこんなのが屋敷の中に入り込んだのだろうかと、澪はそう考えながら、襖を開けようとするが、襖は開かないままだ。
誰かが来るのを待つしかないかと考えながら、澪は部屋の電気をつけようとした時だった。
スーッと誰かがうしろに立っている気配し、其方へと振り向いた刹那、本当の意味で意識が遠退いていった。
「うぅううぅ……」
倒れていた男が起き上がり、自分の目の前が本当の意味での暗闇である事に気付くと少しばかり狼狽する。
「しっかりしろ! ほらっ! お前の」
澪を抱きかかえている男が、暗視スコープを倒れていた男に投げ渡したが、周りが暗く、何処に放り投げられたのかが把握出来ていなかった。
「馬鹿! 右だ! 右!」
「あっ、っと、これか」
男は暗視スコープを見つけると、それを身に着ける。
「っくそ! このあまぁ! 本気で俺を殺す気かぁ?」
男は苛立ちから澪の頬を一発叩いた。
「止めておけ! 気が付かれると、俺もやばい」
抱きかかえている男が澪の様子を疑う。
叩かれた瞬間ピクリと動いたが、それ以上の事はなかった。
「それにしても、本気で死ぬと思ったぜ」
男は殴られた部分を手で押さえる。
「確か、瓦十枚は平気で割れるんじゃなかったか?」
そう云われ、男は血の気が引いていくのを感じた。そんなのを何発も食らっていたのだから……
「はははっ! 冗談だ……確か五枚くらいだったと思うぞ……」
「だ、だよなぁ?」
悪い冗談だと男は笑ったが、「ただし、彼女が本気だったら、どうなってたかなぁ?」
笑われた男は不快な表情を浮かべた。
ジジッと無線機がなる。
「こちら子藩。大内澪を捕獲」
「こちら戌藩。渡辺洋一の車を卯藩が追跡。どうやら屋敷の中にいさせないつもりらしい」
「感付いているというのか?」
「脚本家が書いていたシナリオが悉く覆されているな。予定では渡辺を殺したと見せかけた後、財産目当てで使用人たちが殺人を犯していき、最終的には自殺するというシナリオだったはずだが……」
「その財産を俺たちが根こそぎ持っていくという裏シナリオだったな……。くそぉっ! めんどくせぇ! まどろっこしい事はしねぇで、さっさと殺そうぜ!」
「待て待て! 一人ずつ殺してった方がいいだろう」
「それじゃ、先ずはこの娘から殺すか?」
男はそう云われ、少しばかり考えるが、「いや、このまま連れて行こう。別にこの娘が最初じゃなくてもいいだろう」
男はそう云うと、もう一度澪を抱え直す。
「よし、引き上げるぞ!」
そう云うと、もう一人が畳を床から外した。
すると、全く巴の推理通りで、床には人が通れるほどの空洞があった。
“一体…… 何時の間にこんなのが? 畳を掃除した時はこんなのなかったはずなのに”
澪は薄らと意識を取り戻していた。
正確に言えば、無線がなったあたりから気付いていたが、危険を察し、気絶している振りをしていた。
ここで悲鳴をあげ、逃げる事が出来ないのが何よりも悔しかった。
襖が開かなければ結局逃げられないのと一緒だからだ。仕方なく素直に澪は連れて行かれるほうを選んだ。