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廿陸【8月11日・午後12時32分~午後1時48分】


「ただいま」


 玄関の方から声がし、僕と鹿波さんは其方へと駆け寄る。

 声を掛けたのは深夏さんで、どうやらハナの事が気になって帰ってきたらしい。


「あれ、誰か来てるの?」

「ええ。ちょっと……」


 深夏さんの質問に鹿波さんが曖昧な返事をする。

 その行動に深夏さんと繭さんは首を傾げた。

 外からは賑やかな声が聞こえる。


「子犬産まれたんですね? 何匹ですか?」


 繭さんに訊かれ、僕が答えようとすると……


「一匹ですよ……たった一匹……」


 隅っこの客室から縁さんが出てきて、そう答えた。


「……誰?」


 深夏さんが警戒するように言う。繭さんも同様の空気だった。


「すみません。深夏さんと繭さんにはまだ自己紹介してませんでしたね? 私の名は縁と申します。旅一座のものでして、二日ほど滞在を許可してもらっています」

「それはご丁寧にどうも……」


 縁さんの挨拶に深夏さんはぶっきら棒な返事で返した。


「それで、何故そのような事を?」


 繭さんがさっき縁さんが言った言葉に疑問を持ち、その事を問いかける。


「其の儘の意味ですよ?」


 縁さんが冷たい口調で答えた。


「あの犬が産んだ子犬の数は六匹。そのうちの子犬五匹は子宮から出てきた時点で死んでいた。澪さんは死産だと直ぐにわかったくせにそれを認めようとしなかった。莫迦みたいに応急処置をして、其処にいる瀬川さんにも手伝わせた……」


 確かに……あの時僕は助からないと思った。

 冷たかったんだ……持ち上げた時……既に……

 いや? ちょっと待て……何でそんなことを彼女が知ってるんだ?


「でも! 一匹助かったんでしょ?」

「助かった? 一匹だけ? 一匹だけなんて、死んだのと同等ですよっ!! 一緒に生まれてきたのが全員死んだ。それならその子犬も一緒に死んだ方が、幸せなんじゃないですかね?」

「それじゃ! 死んだ子犬達はなんだって云うんですか?」

「はぁ? この世に“生”を受けていない生き物に! “死”なんて言葉を付けてあげるなんて…… 全く、ちゃんちゃら可笑しいですねっ! いいですか? “死”というのはこの世に生まれてきて、息をし、動いた動物に云える言葉なんですよっ! ピクリとも動いていない肉の塊に同情出来るなんて…… 私には考えられませんね……」


 そう縁さんが言い終えた時だった。

 まるで鞭で叩いたような鋭い音が廊下中に響き渡った。

 あまりに突然の事で、僕はおろか、隣にいる鹿波さんも、彼女の近くにいた繭さんまでも驚いていた。

 縁さんは壁に凭れ、ズルズルと崩れ落ちていく。


「“肉の塊”? 冗談も大概たいがいにしなさいよ! あんた何様のつもり? たとえ生まれた時には死んでいたとしても! たとえハナだけの力で出てきたとしても! 出てくる瞬間までその子達は必死に出ようとしたんでしょうが! いい! 出産でのはね? 母親だけの力じゃないのよ! 子供も必死になって出ようと頑張るの! たとえ死ぬ事がわかっていても! 必死になって目の前に出ようと頑張るの! それを“肉の塊”だなんて! あんた頭可笑しいんじゃないの?」


 深夏さんはそう怒声をあげると、縁さんの頬をもう一度叩いた。


「深夏さん! もう止めて下さい!」


 繭さんが制止すると、深夏さんはキッと縁さんを睨みつける。

 それを見てか否か、縁さんはスッと立ち上がり、着物の裾を叩いた

「はぁ……、やっぱり理解できないわ……高が犬畜生にそこまで感情剥きだしに出切るなんて……」

「あんた喧嘩売ってんの? あの子達はね! 家族なの! 私の大切な!」

「家族? 霧絵と春那以外、血も繋がってない、継ぎ接ぎだらけがよくもまぁ、いけしゃあしゃあと云えるわね?」


 その言葉を聞いて、僕と鹿波さんは驚きを隠せないでいた。

 勿論深夏さんもだ。


「ちょっと待って! 何でそんな事知ってるの?」


 確かに霧絵さんと春那さん以外は血が繋がっていない家族だ。

 だけど、どうして彼女がそれを知っている? 誰かがそれを言わない以上知る事はない。


「あんた! 一体何なの?」

「先程自己紹介したのに、もうお忘れですか? 私はただの旅一座の芸者。西から東、北から南へと旅をする人間ですよ?」

「そんなのが、どうしてそんな事知ってるの?」

「あらあら? まさか本当だったとは? くくくっ、まぐれとは末恐ろしいものですね?」


 縁さんが指で唇を押さえながら笑う。いや、哂っている。

 マグレ? マグレなんかでそんなことが云えるのか?

 どう考えても、マグレなんかじゃない。彼女は知ってるんだ……

 この屋敷であった事も何もかも……


「っ! 繭っ! 子犬見に行くわよ!」


 深夏さんがそう云うと、繭さんは黙って、深夏さんの後を追った。

 廊下には僕と鹿波さん、そして縁さんが残っている。


「全く……人間の考えてる事はわからないですね」


 縁さんはそう云うが、正直僕は彼女の考えが理解出来ない。


「お昼は頂きましたし、少し部屋で休んでますよ」


 そう云うと、縁さんは奥の客室へと戻っていった。

 僕は暫く動けなかった。

 そもそもハナが出産していた時、彼女はその場にいない。

 それに誰も“子犬が何匹生まれて、何匹死んだ”なんて……

 一言も喋っていない――はずだ。

 それなのにどうして彼女は事細かに知ってるんだ?

 そう考えれば考えるほど、僕は悪寒を感じていた。


「彼女は一体……」


 鹿波さんにそう訊くが、彼女も僕と同様に得体の知れない何かに怯えているようだった。



「うむ。体温は三八度二分……。心音も規律よく動いておるし、目はまだ生まれたばかりじゃから、見えとらんじゃろうが、時宜じきに見えてくるようになるじゃろうて」


 連絡を受けた獣医が急いで屋敷にくるや、ハナと子犬の健康診断を行っていた。


「ハナの方は落ちついとるなぁ。出産による後遺症も見当たらんて。まぁ、あんたらなら大切に育てるじゃろうよ。それにしてもよう頑張ったなぁ……」


 そう云いながら獣医はハナの首元を優しく擦る。


「にしても、難儀じゃったなぁ」


 獣医はそう云うと子犬たちが埋められた場所を見遣る。


「聞いた話じゃと、犬達が自立的にしたそうじゃが、いやはや奇妙な事じゃなぁ」

「私たちはただただ見守るしか出来ませんでしたよ」


 澪がそう云うと、獣医は少しだけ深呼吸をした。


「澪さんや、ドッグトレーナーとしてではなく、この母子おやこの主人として聞いてほしいんじゃがな? 死産した子犬は喰われる場合がある。勿論それは野性の本能じゃから、わしらが口出しできない領域じゃ……」

「……わかってます」

「あんた……残りの五匹が死産じゃったの……気付いとったじゃろ?」


 獣医にそう云われ、澪は小さく頷く。


「思うんじゃがなぁ、わしゃぁ、ハナも子が死んでおるのをわかってたと思うんじゃよ。さっきも言うたが、自立し生きていけないと判断した場合、子を食らう場合がある。それなのにそれをせんで、大切に保管するように穴に埋めた。恐らく一生そこを掘る事はないじゃろうて……」


 獣医の話を澪はただ黙って聞く。


「あんたなぁ、主人としては頑張っちょるが、トレーナーとしては失格じゃな。トレーナーは育てるのと躾けるのが主な仕事じゃが、それ以上の事をしたらいかんのじゃよ?」

「わかってます……」

「あんた、まだあん時の事後悔しとるんか?」

「してません。してませんよ」


 澪は俯きながら、獣医の言葉に生返事する。


「あれはあの子がした事じゃよ。あんたの責任じゃない……」

「でも、あの時……あの時私がちゃんとしてれば、ちゃんと云われた通りにしてれば」


 澪は肩を震わせながら言う。


「あれは、仕方ないじゃろう……あの子がそれを拒んどったんじゃから」


 獣医はスッと立ち上がり、胸ポケットから煙草を取り出し、一服する。

 獣医は澪が警察犬訓練士の資格を取る際、研修先を紹介している。以下の話は、その研修先での出来事である。


 澪が研修先で出逢った犬こそハナの母犬で、その子供であるハナを澪は引き取っている。

 勿論、屋敷の主である大聖や霧絵、他の使用人たちも同意の上でだ。


 研修先にいた数匹の犬達。その中にハナの母犬。名をセツという。

 セツを含んだ犬達は研修生達の言う事を余り聞かなかったが、どういうわけかセツだけは、澪のいう事を素直に聞いていた。

 また勉強もあったが、殆ど犬優先の毎日だった。

 研修先での一年間は澪にとって、そしてその母犬に辛くはあったが、とても楽しい日々でもあった。


 そんなある日の事、セツが妊娠している事を知り、澪は我が身のように喜んだが、セツは老犬で、出産出来るかどうかも怪しかった。

 人間同様、年老いた出産は両方に危険が生じるからだ。その事もある為、薬で流産させる事が既に決められていた。

 勿論、早期に薬を打てば、身体に負担はなかっただろう。

 しかし、それを決めるのは唯一懐いていた澪に委ねられていた。

 理由を聞いて“はい”と云えるほど、澪は心の決意が出来ていなかった。

 勿論訓練士としては未熟であるが、それ以上に懐いているセツの子を、自らの手で殺す事をかたくなに拒んでいた。

 その後も餌の中に流産の薬を混入させ、食べさせようとしたが、セツは感付いて吐き残し、さらには澪以外の云う事を聞かなくなっていった。


 “早く薬を打て!”と訓練所の教師から云われても、打つ事は出来なかった。

 痺れを切らした教師が薬を打とうとするが、セツはその教師の手を噛み、頑なに拒否していた。

 今まで以上に澪以外の云う事を決して聞こうとしなかった。

 そして出産の時が来た。


 一応刺激させないため、澪はセツとの距離を離していたが、ジッと出産し終えるのを待っていた。部屋の温度を見ると二六度に設定されており、窓を少し開けただけで冷たい空気が入ってくる。

 動物訓練の最中、施設の動物に子が生まれる事は珍しい事じゃないが、それを自分だけが見ているという優越感が澪の中にあったのかもしれない。

 それが傲慢だったとしても……。


 セツがピクリと動き、痙攣をする。そしてその数分後に子犬は産まれた。

 澪はゆっくりと犬を覗き込むと、生まれたのは一匹だけ。

 少し様子を見るが、産む気配がない。それどころかセツは動く気配すら見せなかった。


「セツ……」


 澪はセツの名を呼びかける。が、二、三回名前を呼びかけても一向に動こうとはしない。

 産まれた子犬は必死にセツの母乳を飲もうとするが、出る様子なんてなかった。


 澪は自分の目の前にある現実を受けいれる事が出来なかった。

 いやしようともしなかった……。

 自分の責任だったから、自分が教師の言うことを聞いて、流産の薬を打っていたら、少なくともそれ以上に生きていたかもしれないから……


 澪は警察犬訓練士の免許は持っていない。いや取得しようともしない。

 その事件があってから、タロウやクルルたちを警察犬として育てている。

 いや既に訓練士としてではなく、トレーナーとしても未熟なのかもしれない。

 ハナの妊娠がわかってから、母子揃って同じ事があるわけではないが、澪にとって、出産は嫌な思い出でしかなかった。


「誰が悪いなんてのはないんじゃよ……施設長が云っておったぞ? セツが唯一命令を聞いていたのは澪さんだけじゃったとなぁ……」


 そう、セツは澪以外の言う事は本当に聞かなかった。

 他の訓練士は早く資格を取ろうと必死で、そのことが犬達にも伝わり思うように命令を聞かないでいた。

 澪はゆっくりと接しながら訓練をしていたので、犬達にとっては澪の方に懐いていた。

 特にセツに関しては四六時中一緒にいて、すでに決められたパートナーのようでもあった。

 澪にとっても、セツにとっても、これ以上にないものだった。

 その絆は娘であるハナにも受け付かれているのかもしれない。


 ドーベルマンは獰猛な犬ではあるイメージが強いが、性格は好奇心旺盛である。

 その上活発であるため、訓練士も体力がなければ、振り回されるのが落ちである。

 澪は空手を遣っていたため、体力には自信があり、それには問題がなかったが、他の研修生はただ興味本位で参加していたらしく、殆どがついていけていなかった。

 そしてセツの中では、恐らく澪だけが自分よりも上だと判断してたのだろう。

 犬と云うのは面白いもので、自分よりも下だと思う人間の命令はてんで聞く耳を持たない。


「あの子は……ハナは自分の両親の事知らないんですよ……私はお父さんを知りませんけど……」


 澪は近付いてくる子犬を抱きかかえる。


「あんたは父親の事を知らん云うとったなぁ?」

「お母さんから聞いた話じゃ、小さい時に離婚して、それから連絡はしてないそうです」


 澪の父親、つまり植木警視の父親に当たるわけだが、当の本人はその事を知らない。

 勿論、植木警視と直接逢った事はあるが、まさか自分の姉であるとは努にも思っていないだろう。


「ふぅ……それにしても暑いなぁ……。小屋の換気はしっかりとなぁ」


 そう云うと獣医は小屋から出て行く。


「あ、そうじゃ……あんた、もう一度訓練する気ないか?」


 そう云われ、澪は首を傾げる。


「いやな、施設長があんたには才能があるとか云っとるんじゃよ。犬と訓練士の間には強い絆がないといかんってな……」


 澪は獣医の言葉をただ黙って聞いているだけだった。


「まぁ、今すぐにとは云わんよ。気持ちの整理が出来たらいつでも来なさい」


 そう告げると、獣医は小屋のドアを開け、もう一つのドアも開けた。

 暫くして横にある中庭の扉が開き、タロウとクルルが小さく吠える。

「おうおう。元気にしとったかぁ」


 獣医がタロウとクルルの健康診断もすると云っていたので、そのためだ。


 澪はゆっくりとハナの身体を撫でる。

 出産後は警戒しているはずなのだが、ハナにはその様子がなかった。

 そもそも子を抱かせる事だって本当はなかったのかもしれない。


「セツ……あんたの子供ね……ちゃんと子供産んだよ……。ちゃんと子供生んで、こうやって子供と一緒に生きてるんだよ……。ねぇ……セツ……。あんたもさぁ……こうしたかったんじゃない?」


 澪は震えた声をあげる。目の前のハナは子犬の毛繕いをしている。


「澪さん…… ちょっときてくれませんか?」


 中庭から深夏の声が聞こえ、澪は流れていた涙を拭い、そちらへと駆けつける。


「まだ子犬に触れないんですか?」


 深夏にそう訊かれ、澪は頷く。


「まだ無理みたいですね。警戒してましたし」


 本当は嘘なのだが、もう少し母子一緒にさせてあげたかった。

 それはタロウ達も感付いていて、小屋に戻ろうとしない。

 さっさまで診断していた獣医は、澪の嘘に気付いていたが、口に出す事はしなかった。


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