廿肆【8月11日・午前9時25分~午前10時24分】
渡辺が生きていて、春那と秋音は自分の部屋ということをふまえると、一応全員生きている。
脚本家が何をしてくるのかわからないけど、まだ何も起きていないので、正直暇で仕様がない。
というのも、仕事を貰っていないからだった。
玄関に飾っている詩の様なものを読みながら、私が生きていた時の事を思い出していた。
『この屋敷に努々《ゆめゆめ》近付く事勿れ。
金色に煌く鹿がその屋敷に住まいて
死屍を喰らい、咆哮を挙げん。
その声を聞きし者、煉獄の夢魔が汝を縊らん』
集落の周りに柵という柵はなかった。
流石に畑には鳥獣対策に柵は設けられていたけど、大抵烏にやられはしてたが、獣にやられる事はあまりなかった。
それどころか集落に入る事すらしなかった。
最初の行は恐らくそうなのだろう。
次の行。金色に輝くというのは、恐らく鹿は“神使”と云われているからだと思う。
とはいえ、その後に続く言葉が妙に気味悪く、死屍を食すとある。
多分屋敷に入ってきた何かを食べ、其処を護っていると解釈出来なくもないけど……。それなら、“鬼”とか“悪魔”とか、譬えるものは沢山ある。
だけど、書かれている言葉は“死屍”。生きていないもの……動いていないもの……。
そして最後の行。恐らくこれはあの鹿威しを表してるんだと思う。
何かが起きる度に鳴り響いていた音。
そもそもあの鹿威しの竹に水は溜まらない。そもそも給水されないからだ。
あの池に小さな鯉や鮎がいるが、実を云うと“青龍の瀧”から流れているのが逆流していると、霧絵から教えてもらった。
それにこの山は私有物なので、水道は川から給水している。多分その時に池も作ったのだろう。
「あれ、何してるんですか?」
ふと気がつくと、横に立っていた繭が声を掛けてきた。
その横には深夏がいる。
二人とも外行きの格好で、深夏は薄ピンクの袖のないカッターシャツに、膝が少し隠れる程度のスカート。一応蚊除けにニーソックスを履いている。
繭は青色のサマーセーターを着ており、下はデニムを履いていた。
「何処かお出かけですか?」
「ええ。前から約束してたんですよ」
そう話す繭は、何処となく楽しそうだった。
「繁華街に新しくお店が出来ててね。そこに行こうかなって」
「前々から決めてたんですけど、暇が出来なかったので……ほら、深夏さんって、夏休み入るまで生徒会遣ってましたし、最近じゃ大学受験で忙しかったですから……」
「その息抜きにって事」
深夏が笑いながら云うと、ジッと私が見ていた掛け軸に目を遣る。
「で、さっきからずっとこれ見てるけど……これがどうかしたの?」
「いや、ちょっと怖いなって」
「でもさ、若しかしたら、昔に作ったものじゃなくて、最近作ったものなのかもね?」
深夏があっけらかんとした表情でそう云う。
「どういう意味ですか?」
「だって、屋敷って書いてあるでしょ? この屋敷は元々旅館だから、旅館って書くでしょ?」
「いや、それじゃ全然説明になってませんよ」
繭にそう云われ、深夏は“そう?”と首を傾げていた。
……いや、深夏の云う通りかもしれない。若し、これが最近出来たものなら、当然“屋敷”が当て嵌まる。
だけど、“旅館”と云われていた時からこの詩があったとしたら、そう書くべきだ。
そして、それがこの土地を意味している事は明白だけど、それなら“場所”と曖昧に書く。
でも、この詩には“屋敷”と限定している。
「でも、最後の煉獄の夢魔ってのがわかんないのよね? “煉獄”ってのは神の恵みや親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないまま死んだ人が、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るように浄化の苦しみを受ける場所とされているのが“煉獄”っていうらしいのよ」
「つまりその音を聞いた人間は煉獄に潜む夢魔、つまり悪夢に殺されるって意味じゃないかな?」
二人はそう私に言うと、靴を履き始め、出ようとする。
「あ、ちゃんと出産予定時間までには戻ってきますから……」
そう云い終え、屋敷を出て行った。
私は二人を見ながら、霧絵の言葉を思い出していた。
澪と繭は関与していない。そして渡辺も……つまり関与しているようで、実は関与していなかった。
何か弱みを握られていると考えられる。
ジッと掛け軸を見遣り、詩の意味を考え直す。――が、余り考えが思い浮かばず、頭が痛い。
そんな中、「おきらき!!」と、冬歌の楽しそうな声が聞こえてきた。
広間に一人だけかと思ったが、霧絵がお茶を飲みながら、一緒になって見ていた。
「こら。余りテレビに近付かないの」
霧絵は優しくそういうと、意外にも冬歌は素直に言う事を聞いていた。
水が流れる音が聞こえてくる。精留の瀧に近付くにつれ、その音は大きくなっていく。
片手にバケツをふたつ持ちながら、僕は獣道を進んでいた。
照り付ける太陽の熱も、瀧の音と日陰になっているせいか、暑さを感じない。若しなかったらバテテいただろう。
溜まり池に着くと、僕は中腰になってバケツに水を汲み始めた。
一つを汲み終え、もう一つを汲み始めようとした時だった。
大きな水の音。その音にハッとし、僕は手からバケツを離してしまった。
「あうぅっ!」
女性の小さな悲鳴が聞こえ、僕は辺りを見渡す。
周りは草に覆われていて、誰かが隠れるような場所がない。
「いっ!?」
突然頭に激痛が走る。思わず倒れた僕の目の前にいたのは――裸の少女だった。
少女はジッと僕を見据える。と云うよりかは睨んでいた。
それもそうだ。水浴びをしていたのを覗いてしまったのだから……
でも、こんなところにいるとは思わなかったし、第一、全裸で泳ぐのも無用心だ。
彼女は頭だけを出して、ジッと僕を見つめている。
彼女は僕を見つめながらも、視線を横に向けた。僕もそちらを見る。視線の先には着物みたいなものが置かれており、どうやら彼女の着替えらしい。
つまり、着替えたいから、見ないで欲しいと云いたいのだろう。
僕はむこうを向くと、数秒して水の音が聞こえる。どうやらあがったようだ。
「もういいですよ」
後から声が聞こえ、僕は其方を向く。
少女の見た目は深夏さんくらいで、髪は腰まである。まだ乾いていないのか、髪は濡れていた。
あれ? でもこの子何処かで……
「ごめん。人がいるとは思わなくて」
「貴方…… あの屋敷の人?」
少女は見上げながら云う。視線の先は屋敷がある方向だ。
「うん。昨日から働いてるんだ」
「昨日から……そう……」
少女はそう云うと、獣道を進んでいく。
「ほら! 私の裸を見た罰っ! そこにあるの持ってきて」
突然そう云われ、周りを見ると、彼女の着替えが置いてあった場所に小さな風呂敷が置かれていた。
多分あれが彼女の言ってる物だろう。
近くまでいき、手にとって見ると……
『…………!?』
ズシッとした重みがあり、大凡二十キロはあるんじゃないかと云うものだった。
僕は少女を見遣る。どう見ても華奢な体系で筋肉があるとは思えない。
「何遣ってるんですか? それとも……男の人が高々20キロも持ち歩けないんですか?」
少女は僕を見ながらクスクスと哂った。
「それじゃ! 君は……」
僕が言おうとすると、彼女は足早に僕のところへと来た。
そして、重たい風呂敷を……抱えた。
「――――え?」
僕は自分でも驚くほどの素っ頓狂な声を挙げる。
「私は持ってきてとは言いましたけど、“片手で”とは云ってませんよ」
「でも、こんな……」
「こんな重たいのを片手で持てると思う? 普通は抱えるでしょ?」
少女はそう云うと、風呂敷の包みを持ち、再び獣道を進んでいく。
僕は急いでバケツに水を汲み、両手にバケツを持ち上げ、彼女の後を追おうとした。
「……あれ?」
獣道を半分進んだところで、歩みを止める。
周りを見ても少女の姿がなかった。
鹿波さんと同じくらい、この山に詳しいのか……
屋敷に戻った時まではそう思っていた……
「只今戻りました」
僕が厨房の勝手口から声を掛けると、ドアの鍵が開く。
開けたのは澪さんだった。
繭さんは先刻、深夏さんと一緒に買い物に出かけているのを、林に入った時に見ている。
「すみませんね。料理は直接この水を使った方がいいと思いまして」
「それにしても不思議ですね。水は全部川から給水してるのに、料理を作る時だけ汲みに行くなんて……」
僕はバケツを持ち上げ、床に乗せながら訊く。
「前は香坂さんがいましたから、力仕事は出来たんですけどね……瀬川さんが来る前まで、鹿波さんか繭にお願いしてたんですよ」
「渡辺さんは?」
「渡辺さんは奥様と同じくらいですけど、体力ないんですよ」
そう云うと、澪さんは広間の方を見遣る。
「此処だけの話、渡辺さん余り仕事してないんですよ。前は渚さんとか使用人部屋一つに二人いたくらいなんですけど、日に日に辞めていって……」
そう話していると、奥の方から笛の音が聞こえた。
「秋音ちゃんですか? いい曲ですね……」
「これ、フルートの音じゃない……篠笛?」
「篠笛って?」
「神楽とかで使われている横笛ですよ。フルートもそれに当たるんです」
「へぇ、詳しいんですね?」
「小さい時、子供神楽に参加した事があるので」
なるほどと思いながら、僕と澪さんは笛の音を聞いていた。
楽しそうな音色。だけど……何処か寂しそうだった。
――数分すると大きな拍手が聞こえる。
「瀬川さん。其処から上がられて下さい。靴は私が玄関に持っていきますので」
そう云われ、僕は言葉に甘えた。
広間の方に行くと霧絵さんと春那さん、秋音ちゃんに冬歌ちゃん、渡辺さんが拍手をしている。
唯一していないのは鹿波さんだけだった。
「どうしたんですか?」
霧絵さんが鹿波さんに声をかける。
「あの、お気に召しませんでした?」
篠笛を持った少女が鹿波さんに聞いてくる。
「曲はよかったけど、貴女…… 誰なの? 今日は誰も来ないはずだけど」
鹿波さんがそう尋ねると、少女は一つ咳払いをし、全員を見渡す。
そしてゆっくりと正座をし、深々と頭を下げたが、直ぐに頭を下げた。
「私、全国を回っている旅一座の者でして、名を“縁”と申します。この度は突然の来訪にも拘らず、冷たいお茶を頂戴出来ましたこと、まことに有難き所存に御座います。其のお礼として、先ほどの神楽を披露させてもらった所存に御座います」
そう縁さんが云うと、再び頭を下げた。
「あ、っと……頭を上げて下さい」
春那さんがそう云うと、縁さんは頭をあげた。
「あの? 気になったのですが、苗字は?」
「苗字は御座いません。そもそも私らに苗字と云うものは御座いません」
そう云われ、渡辺さんは目を点にする。
「まぁ、聞かれたくないんでしょうな……いや失礼失礼」
渡辺さんが笑いながら云う。縁さんもクスリと笑っていて、どうやら気にして……
ちょっと待て? この人……
「あああああああああああああああっ!!」
僕は目の前にいる縁さんを見て、大声を挙げた。
「ちょ、ちょっと。いきなり近くで大きな声出さないで下さい」
春那さんが頭を抱えながら、僕を睨みつける。
「瀬川さん、知り合いですか?」
「知り合いじゃないですけど、彼女…… さっき、精留の瀧で水浴びしてたんですよ」
僕がそう説明すると……
「はい、そりゃもう。上から下まで見られました」
と、縁さんはあっけらかんとした表情で云った。
其の言葉を聞いて、全員が僕を見る。特に女性陣の視線が痛い。
「ちょっと待って! 確かに縁さんが水浴びをしていたのは見てますけど、全身は見てませんよ」
「でも! 見たことには変わりないんですよね?」
「最低……」「そんな人だとは思いませんでした」
春那さんと澪さんが僕を見ながら云う。ううぅ……濡れ衣だ。
「大丈夫ですよ。別に気にはしてませんし……」
縁さんは僕に助け舟を出そうとしているのだろうけど、既に遅かった。
「実は霧絵さんにお願いがあるのですが、私を二日ほど、屋敷に泊めていただけないでしょうか?」
そう云われ、霧絵さんは少し考えると、「私は別に構いませんが、他の方々は……」
霧絵さんはチラリと僕達を見る。
「別に気にはならないんじゃないですかね? 一人や二人」
渡辺さんがそう云うと全員が頷く。少し遅れて鹿波さんも頷いた。
「それでは、余り豪勢な歓迎は出来ませんが、ゆっくりとお寛ぎ下さい」
霧絵さんが深々と頭を下げ、僕達も頭を下げた。
「澪さんは部屋の用意を。秋音……鍵をお願い」
そう云われ、秋音ちゃんは春那さんから鍵のある場所を聞き、部屋へと入っていった。
数秒して鍵の束を霧絵さんに渡し、霧絵さんは客室の鍵を一つ束から抜いた。
鍵の方を澪さんに渡すと、澪さんは玄関の方、つまり客室へと走っていく。
束は秋音ちゃんに返され、部屋へと戻しに行った。
「少し部屋の準備が出切るまで、お待ち下さい」
「いえいえ、突然来たのですから、準備が遅れるのはわかりますよ……誰かが来た時と同じで」
縁さんがそう云うと、鹿波さんと霧絵さんはピクリと表情を強張らせた。
「はははっ。お二人とも、そんな怖い顔しないで下さいよ。突然人が泊まりに来て、準備をしていないのは当たり前ですからね。よほどその人が来る事を知っていない以上は……」
縁さんが笑いながら云う。
「そ、そうですね」
霧絵さんも笑いながら返事をするが、何処かぎこちない。
と云うより、霧絵さんと鹿波さんは警戒心剥き出しで縁さんを見ている。
「ねぇ? 他に何か吹けるの?」
冬歌ちゃんが縁さんにそう尋ねると、
「ええ、出来ますよ。冬歌さんの大好きなゴーガーの曲も」
そう云われ、冬歌ちゃんは目を輝かせる。
「正樹、ちょっと……」
僕の近くまで来た鹿波さんが裾を引っ張りながら、僕に声をかける。
僕は首を傾げながら彼女に付いていった。
風呂場の前にある廊下に僕達二人は立っている。鹿波さんは屋敷との扉を後ろ手に閉じ、ジッと僕を見ていた。
「どうしたんですか?」
僕がそう鹿波さんに訊くと、「あの子…… 何でわたしが来た時の事知ってるの?」
突然そう云われても、何がなんなのかわからない。
「わたしは以前、突然この屋敷に来たから、部屋の用意はされていなかった。それを知ってる……いや、覚えているのは、記憶が消えていない霧絵だけなのよ。正樹はその後に来てるし、説明もしていない」
そう云われ、僕は彼女が何を云いたいのかがわかった。
「彼女は……今までの事を見ていたという事でしょうか?」
「今までどころか……全部よ……。この屋敷で今まで起きた猟奇殺戮も、四十年前、私がした事も全部知ってる……」
彼女は四十年前に起きた榊山惨殺事件の当事者だ。だからこその予感なのだろう。
「でも、勘違いって事も……」
「それじゃ、正樹が戻ってくる前、あの子、何を云ったと思う」
そう云われ、僕はそれを訊いた。
『余所者が、いけしゃあしゃあとこの山に住み着くな……』