廿参【8月11日・午前8時35分】
「あんまぁ~いぃ~」
アイスを一口食べた冬歌ちゃんが満面の笑みを浮かべる。
「春那お姉ちゃんも起きてくればいいのにね?」
「今までの疲労がたまってたんだし、休養も必要でしょ?」
深夏さんがそう云うと、アイスを口に頬張る。
実を言うと、このアイスは買って来たというよりかは、澪さんのお手製で、少しばかり西瓜の味がしている。
「あの? 若しかして昨日の余りを使ってるんですか?」
「ええ。半分切っておいた西瓜を使ったんですよ。おかわりありますからね」
「あんまり食べ過ぎるとおなか壊すわよ」
深夏さんがそう釘を刺すと、冬歌ちゃんが立ち止まった。
いの一番に食い終えていた冬歌ちゃんがおかわりを貰おうとしていて、その時に言われたものだから、頬を膨らましながら、ジッと深夏さんを見つめていた。
「さてと、今日は特に予定はないんでしたっけ?」
澪さんがそう云うと、渡辺さんは少し考えながら、「ええ、特にお客さんが来る訳ではないですし、今日はひさしぶりに羽を休めますよ」
渡辺さんはそう云いながら、自分の肩を揉む。
「それじゃ! 今日はお休みって事?」
「そうなりますね」
「それじゃね、澪お姉ちゃんに見せたい物があるんだ」
そう云うと、冬歌ちゃんは澪さんの手を引っ張り、廊下の奥まで引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと! 冬歌?」
秋音ちゃんは顔を覗かせながら叫ぶが、冬歌ちゃんは自分の部屋に入ってしまっていた。
「冬歌ちゃん、何を見せようとしてるんでしょうね?」
「多分、“花鳥風月”の絵でしょうね。やっと絵の意味がわかったんですよ」
“花鳥風月”というのは、姉妹其々が持っている絵で、それには金鹿之神子が描かれているとされている。
“花”を春那さんが持ち、“鳥”を深夏さん。
“風”を秋音ちゃんが持っており、最後の“月”を冬歌ちゃんが持っている。
「それでわかった事って?」
「描かれている絵の背景が榊山なんですよ? “花”には、池に咲いている白い彼岸花。“鳥”には、よく近くで止まる百舌鳥。“風”には、山道の森林。“月”には、“精留の瀧”に写った月を描いてるんだと思うんです」
確かにそう考えられなくもない。
「彼岸花は“悲しい思い出”という花言葉があって……。昔、ある雪山に住んでいた青年に逢う為に、麓の女性が毎日山を登ってきていたそうです。それこそ吹雪の夜でさえ……。それに恐れた青年は女性を谷底に突き落としたそうです。その時の女性の悲しみで出来た花が“彼岸花”と云われています」
そう語るが、秋音ちゃんは少し俯きながらも、再び僕を見る。
「でも、池のほとりに植えている白い彼岸花は造花で、実際は九月に咲く花なんです」
確かにあの白い彼岸花は造花で、近くを通ったが、何の匂いもしなかった。
「次に“鳥”の絵に描かれていた百舌鳥は、餌である虫や爬虫類を木の枝に刺して、後で食べるんです。“はやにえ”と云われていて、どうしてそうしているのか、一説では冬支度の為と云われてますけど、実際はまだわかってないそうです」
「“風”で描かれている森林は云うまでもなく、この山の山道を描いてるんだと思うの」
そう云うと、深夏さんは秋音ちゃんに耳打ちをする。話が終わると、スッと立ち上がるや、霧絵さんを見遣た。
「あの、ちょっと私の部屋に来てくれませんか?」
そう云われ、僕は秋音ちゃんに連れられて部屋へと入っていく。
深夏さんも一緒だった。
部屋に入ると秋音ちゃんは押入れの襖を開け、奥を探り始める。
「あ、あった…… ったぁ!」
何か見付かったと思った瞬間。小さな悲鳴が聞こえた。
「秋音? あんた気をつけなさいよ?」
「ううぅ……」
押入れから出てきた秋音ちゃんは、絵の描かれたキャンパスを片手に抱え、頭を擦っていた。
そして畳の上にその絵を置く。秋音ちゃんが持っている“風”の絵だ。
「ほら、山の崖みたいなところに多きな木があるでしょ? これ…… 多分“榊”だと思うの……」
深夏さんの指先は、深緑罹った森林から少し離れた場所を指していた。其処には確かに大きな木が聳え立っている。
「榊山と言われる前は“逆鬼山”と言われてた事は知ってます?」
そう尋ねられ、僕は頷く。
「植物には神が宿ると云われていて、特に葉の先が尖っているのに宿るそうなんです。榊の葉っぱも先が尖ってますから、それに当て嵌まるんですよ。悪い鬼が登ってこないように、榊が生っていると考えられるんです」
つまり榊は守り神の役目もあるという事か……
「だけど榊には“境木”とも云われていて、神と人間を分けるという意味もあるんですよ」
そう云うと、少しだけ深夏さんと秋音ちゃんの表情が暗む。
「最後に“月”。これは瀧の水面に写った月を意味してるんだと思います。精留の瀧には不思議な話が多くて、魂があの瀧を登って、天に召されるという話があります。他にあの滝壷には、戦や戦争で亡くなった人が沈められていて、その魂が留まっているという話があるんです」
二人が話している表情が、普段とは違う。
「二人ともどうかしたの?」
意を決した僕はそう尋ねた。
「え? どうかしたんですか?」
「いや、二人とも何か表情が暗いから……」
「あ、いや…… ちょっと食べ過ぎたかなって……」
深夏さんがそう云うと、秋音ちゃんも同意する。だけど二人はそんなに食べ過ぎてはない気がするけど……。
「あっ! 私、部長に今度のコンクールの打ち合わせしないといけないんだった」
そう云うと、秋音ちゃんは立ち上がり、部屋を出て行くようにと促した。
「仕方ないわね。ほら、乙女の部屋に何時までも長居は出来ませんから」
深夏さんは僕の手を引っ張りながら言う。僕は有無を云わされないまま、廊下に出た。
「ごめん、深夏姉さん」
「いいって、それじゃ頑張って」
そう云うと、秋音ちゃんは部屋の襖を閉めた。
呆然としている僕を深夏さんはジッと見ていて、何か言おうとしていたが、直ぐに止め、何時もの表情に変わっていた。
正樹と深夏が部屋を出た後、秋音は自分の机に座っていた。
いや、座っていたというよりかは、倒れているといった方がいい。
眼は虚ろで、額からは大量の汗が噴出しており、呼吸もリズムがあっていない。
何時倒れても可笑しくない。そんな状態だった。
秋音は自分が同級生からイジメられていた事を思い出していた。
それは水深中学校に通う前、彼女がまだ小学生の頃……“耶麻神”の娘という理由で誘拐事件があった。
その時、一緒に誘拐されていた男の子が目の前で射殺され、自分だけが助かった。
その日から秋音は雷のように、耳を劈くような音を極端に嫌っていた。
運動会で使われる空砲の音もそれに当て嵌まり、故に秋音は運動会と言うよりも、その道具が使われる時が一番嫌いだった。
その事でクラスメイトからイジメにあったことがある。
ある生徒が体育の時間、空砲を誤射してしまう。
勿論空砲なので被害はなかったが……
秋音だけは精神が壊れるほどの恐怖が脳裏に過ぎっていた。
真っ暗な部屋。知らない人たち。自分と同じくらいの男の子。
泣いている。男の子でも泣くんだ。やっぱり怖いんだ。
でも助けに来てくれる。誰かが助けに来てくれる。
そう思い、秋音は必死に泣くことを我慢していた。
誘拐されて一日が経とうとした時、目の前の扉が蹴り飛ばされた。
入ってきたのは無数の警官だった。
その中には早瀬警部がいた。
しかし誘拐犯はあろう事か抵抗し、男の子を人質にとってしまった。
警察は人質の命を優先に話をしようとしたが、興奮状態の犯人は耳を傾けなかった。
そして、静寂を切り裂くほどの銃声が周りに響き、血腥い臭いが秋音の鼻を掠めた。
目の前の男の子が撃ち殺された事に気付くのに、一体どれ位掛かっただろうか……。
秋音の視界に早瀬警部が写る。
早瀬警部は秋音を縛っていた縄を解き、正気を確認する。
しかし、秋音の精神は崩壊していた。
正気に戻った時には誘拐された時に“恐怖”と、目の前で“大好き”だった男の子を目の前で殺された事への“気の狂い”が混ざり、自分でも何をしているのかわからなかった。
叫んでいるのか……泣いているのか……暴れているのか……
その後、彼女を見る周りの目は一段と冷たくなっていった。
秋音と一緒に帰っていたから、男の子は殺された。
秋音を人質にとり、その身代金を請求していたが、断られ、その腹癒せに殺された。
男の子は秋音の身代わりに殺された。
勿論、秋音は被害者であるし、負い目を感じなくてもいい。
だが、そうはいえなかった。
結局殺したのは自分なのだと、秋音はそう思っている。恐らく今もだ……
中学に入った時も、それを理由にしたイジメが続いていた。
ある日、音楽室の前を通った時、シンバルの音が耳に入り、秋音は跪き、動けないでいた。
廊下を歩いていた顧問の大川が彼女を見つけ、音楽室に連れて行く。
勿論、秋音のことを知らない生徒はいなかった。
部員たちは彼女を気にしないように練習をする。そして再びシンバルが鳴った。
ただ事ではない反応を見た大川は、秋音を空き教室に連れて行き、理由を聞いた。
勿論それはあの銃声に似ているから……
すると大川は秋音に、何か出切る楽器はないかと尋ねた。
つまりはその音に慣れさせるという事だ。
嫌いなものは克服出来なければ、一生嫌いなままだ。
勿論、あの事件を忘れろとはいわない。大川も其処まで残酷ではない。
だが、ずっとそのままだと、いつか本当に心が壊れてしまうかもしれない。
そう思ったからこそ、秋音を吹奏楽部に誘った。
秋音は小さな時からフルートを自己流に練習している。
それを聞いた大川は秋音を執拗に勧誘していた。
部員たちはどうしてそんな事をするのか疑問だった。
しかし、ある日試しに部員全員の前でフルートを吹くと、大川がどうして入れたかったのかが直ぐにわかった。
秋音には音楽の才能があったからだ。
秋音は自己流で覚えただけで、誰かに教わった訳ではない。
部員の何人かは納得していなかったが、それもいつか打ち解けるだろう。
そう思いながら、大川は秋音を吹奏楽部に入部させた。
それから秋音は、自分のトラウマを克服するというのと、よりうまくなりたいという一心で、吹奏楽を続けている。
そう、あの日、正樹と巴が秋音の世界を変えた。
もし変えなかったら、一生秋音は暗い世界にいただろう。