廿壱【8月11日・午前6時27分】
どれくらい寝てたのだろうか……薄らと視界が広がっていくと、部屋の天井が見えてきた。
少し見渡すと、そこが自分の部屋で、自分は布団に寝ている状態だという事に気が付く。
少しだけ身を起こすと、ズキッとした痛みが頭を過ぎった。
そうだ……確か部屋を出た後、澪さんからコーヒーを貰って……。
――駄目だ、それからの事が思い出せない。いや、恐らくその前後に私は気を失ってたんだ……
私はフラフラと立ち上がり、部屋の襖を開けた。
廊下に出ると、広間から賑やかな声が聞こえる。
あれ……こんなに賑やかだったっけ……?
「あ、春那お姉ちゃん」
広間に入ってきた私に気付き、冬歌が近付いてきた。
「冬歌! 春那姉さんは風邪を引いてて、気分が悪いんだから」
秋音がそう云うと、冬歌は素直に自分の座っていた場所に戻った。
「春那お嬢様? 御気分はどうですか?」
「少し寝てたからかな……。今は大丈夫だから……」
本当はここまで来るのも辛かった。
どうせだったら自分の部屋で休みたいけど……。
――今はそうは云ってられない。
私はもう八年以上、耶麻神旅館で社長をしている。
本当だったら高校に通っていて、勉強をしていたり、友達と遊んだり……。――恋をしたり……
だけど、冬歌が屋敷に養子として来た時、お母さんの体調は思わしくなかった。
それで仮の社長を決めるというのを役員の人たちがやっていた。
会社の事に関して、余り口を出す事が許されていなかった私達姉妹には正直関係のない話だと思っていた。
そんなある日、お父さんから書斎に呼び出され、私にこう告げた。
“明日から、お前に耶麻神旅館の社長を任せる”
たったこれだけ。何の理由もない。
勿論、右も左もわからないし、会社経営とか、人事とかもわからなかった。
渚さんや渡辺さん、修平さんに教えてもらったり、お母さんに教えてもらったり、それこそ色々な人から教わった。
始めて他の旅館運営の人に接待をした時も、余りに酷い私の行動に嫌気が差したのか、逆に接待の作法とか、人付き合いの心得なんかを教えてくれた。
あとでわかった事だけど、それはお父さんがお願いしてくれたらしい。
結局、私は誰かに支えてもらわないと何も出来ないんだろう。
四年前の時だって、本当は何も出来なかった。
真相を調べる事も、現場に行く事も出来なった。
本当は怖かったから。
何を云われるのかわからなかったから……未熟とか、そんなの言い訳でしかない。
私が何を云っても、隠蔽を企ててるとか、今更此処に来たのかとか……そう思われていると思ってたから、私は何も出来なかった。
外に出ても人殺しの会社と云われて、社員も減っていった……。
事故の原因を証明しても、私が人を殺したことには変わりない。
変わらないんだ……ずっと……。
「ごめんなさい、もう少し休むわ……」
私はそう澪さんに答えると、自分の部屋に戻った。
パソコンの電源を押し、メールを確認する。
一応私宛てに来たものは一通り目を通しているけど、熱のせいで集中出来ず、書かれている文字もぼんやりとダブっている。
それでも、どうにか一通りメールを確認すると、自分の携帯がなった。
確認すると沢田さんで“安静にしてください”とたった一言だった。
“すみません。御迷惑お掛けします”と返答し、私は布団の中に入った。
どれくらいぶりだろうか、ジッと部屋の天井を見たのは……。
誰かが襖を叩く音がした。
「春那…… 大丈夫?」
声の主は母さんで、私は大丈夫だと答えた。
「何か…… 食べたい物でもある」
「ううん。今は何も要らない」
本当はお腹が空いてるのだけど、今は何も食べたくない。
「春那、余り自分を責めないでね……」
母さんは襖越しにそう云っているだけ。
それなのに何故か耳元で言われる錯覚があった。
私は重たい瞼を閉じ、深い眠りについた。
社長室の椅子に私は座っていて、目の前には影があった。
影は私にこう云った。
“どうしたんだい? 春那ちゃん……”
これって、確かあの時と同じだ……。
「私、どうしたらいいんですか? みんなには事故があった事を教えた。責任を取る覚悟も出来てる」
“責任って、何をするんだい?”
「社長の籍を外れ、遺族の方々に謝罪をします」
“それで、何が変わるの?”
傍から聞けば暖かい声だけど、私はそれが冷たい言葉に聞こえた。
“君は社長じゃない。あくまで社長の肩書きを持っているだけに過ぎない。それに、そんな事で遺族が許してくれる訳がない”
「私は! 私はこの会社の社長なんです! 社長が責任を取らないと……」
“君は少し考えれば、何がいいのか、わかるはずだ……”
それがわかれば苦労はしない。わからないからこうやって苦しんでるんだ。
こうすればいい、ああすればいい。それを考えれば考えるほど、最悪なほうしかにしか結論が出てこない。
“遺族の人たちが君を怨んでいるのは目に見えている。でもね、過ちを認め、それを悔いる人を赦さない人はいないと思う。たとえどんな事を云われたって、君は何もしていない。君は誰も殺していない。これだけは絶対なんだ”
「だけど、私が悪いんです。私が! 私が旅行なんて考えたから。大河内さんや田川さんを殺したのは――結局私なんです!」
“君はそれを認めてるんだろう? 確かに君が旅行を考えなかったら、誰も死ななかったかもしれない……。でも、君はそんなことを望まなかっただろう”
「望んでなんかない! そんな事! 望んでなんかない! 旅行に参加した人達は何も遣ってないのに馘首されてた。その事で私に理由を訊いてきたけど、私はみんなから訴えられた時、始めて知りました。役員の人たちが勝手に決めてて、どうしてそんな事をするのかって、私は役員の人達に理由を聞いた。でも、何も云ってくれなかった! 答えてくれなかった!」
椅子に座ってる訳じゃない。
自分が何処にいるのかわからない。
此処が社長室だって事はわかってる。
だけど足がおもつかない。
床がフラフラしてて…… 立つ事も出来ない……
“君は…… 誰かに支えられている”
修平さんが手を差し伸べてくれる。
“人は誰かに支えられている…… いや生き物全部がそうだ”
彼は私が一人ではないと云ってくれている。
私は四面楚歌の中心にいる。
孤軍奮闘とでも云った方がいい。
色んな人が私を罵ってる。
ううん。社長になる前から……
私は好きで耶麻神の娘になったんじゃない!
本当のお母さんやお父さんがある理由で私を養子に差し出した。
屋敷に来た数年後に、その両親は事故で死んだと、お父さんに教えてもらった。
それから似通った理由で深夏が来て、秋音が来た。
冬歌が来た時にお母さんの持病が悪くなり、そして私は形上の社長となった。
勿論、そのことでお母さんもお父さんも怨んでいない。
でも、どうして役員の人から選ばなかったのだろう。
普通は社長の下にいる人。例えば副社長とか……。
学校で云えば教頭など色々とある。
うちの会社のシステムというか、お父さんは地元の人に色々なことを聞いて、その人たちを何人か働かしている。
そして色んな企画を社長や役員だけではなく、社員全員に求めてもいる。
だからこそ色々な事が出来たのかもしれない。
結局、私は一人では何も出来ない臆病者なんだ。
誰かが手を引っ張ってくれないと何も出来ない。
“そんな事はないよ……君は一人でも出来るじゃないか”
嘘だ…… 私は何も出来ない。
“そうかな? 君は頑張ってるじゃないか…… みんなの期待にこたえようとしている”
それは必死だから……。みんなの気持ちに応えるのに必死だから……
“無理はしないようにね。君は僕の……”
その後、誰かが部屋に入ってきて、修平さんはその人に呼ばれて部屋を出た。
彼が何を云い掛けていたのか、私だから知ってるし、自然とわかることが出来た。
私は人を信じた事がない。
それは裏切られるのが怖いから……でも本当にそれだけの理由?
そう……。私は自分からも逃げている。
その日彼が屋敷に戻ってくる事はなかった。
何日も……何日も……彼の帰りを待っていた。
三ヶ月が経っても……彼が見付かったという報せがなかった。
「お姉ちゃん?」
小さな子の声が聞こえ、私は目を覚ました。
冬歌が私の横に座ってて、声をかけたようだ。
「駄目でしょ、冬歌。春那姉さんは寝てるんだから」
「姉さん、どう? 澪さんにお願いしてお粥作ってもらったんだけど……」
そう言われ、視線を向けると、秋音の横には小さな鍋があった。
「ん、貰おうかな……」
本当は拒否した方がいいのだけど、この子達に悪い事をしてしまう。
でも、どうしてお母さんに冷たくしてしまったのだろう。
それは多分お母さんを心配させないようにするためだったのかもしれない……。
身を起こし、小さな鍋が乗せられたお盆を足に乗せ、一口食べる。
何故か想像していた味は、しょっぱいというより、むしろ甘く感じた……。
「ねぇ、これ何入れてるの?」
私がそう尋ねると、「えっとね? りんご!」
冬歌がそう答えると私は驚きながら咳をする。
「吃驚するでしょ? でも、お腹に優しいんだって……」
澪さんは色んな料理が作れる。
勿論、勉強しているからだけど……。
「ねぇ、春那お姉ちゃん……」
「ん? どうしたの……冬歌……」
「なんか怖い夢見てたの?」
その言葉に私は驚く。
「私…… 泣いてたの?」
「うん。凄く悲しそうな寝顔だったよ」
私は指で目を擦ると、少し濡れた感触がしたので、本当に泣いていたのだと実感する。
「あのね、怖い夢見た時は、楽しいことを想像するんだよ」
「冬歌、それはあんただけでしょ?」
深夏にそう云われ、冬歌は頬を膨らませる。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「うん。大丈夫……ごめんね三人とも」
「何云ってんの? 私たち“家族”でしょ。家族を心配しない人なんていないわよ……」
どうしてかな……深夏は当たり前の事を云っただけ……
――ううん。私たちだからこそ違和感があった。
私たちは血が繋がっていない。云ってしまえば赤の他人。
赤の他人なのに……こんなに暖かい……支えられてるって……こういうのを云うのかな……
ねぇ……修平さん……私……もう一度だけ……人を信じていいですか?
「それじゃ! 今日は静かに大人しくしてようね」
秋音が冬歌にそう云う。
「ねぇ? ゴーガーも見ちゃ駄目なの?」
冬歌が楽しみにしている番組を見ていいのかを尋ねる。
「今日は仕方ないわね」
深夏の言葉を聞くや、冬歌はしょぼんとする。
「いいわよ。見ても…… でも、余り大きな声出さないでね」
そう私が云うと、冬歌は満面な笑みを浮かべる。
「いいの?」
秋音にそう云われ、私は頷いた。
「あの子が楽しみにしてるんだもの。それを奪う権利はないでしょ?」
「そうね。秋音も冬歌と同じくらいの時もあれくらいはしゃいでたし」
「もう! 昔の事でしょ? そりゃ凄く大好きで見てたけど」
「深夏? 貴女も人の事が言えないわよ?」
そう云うと、深夏は慌てた表情で私を睨む。
「澪さんにお礼を云っておいて、有難うって」
そう伝言を頼んだが……「それは自分で云ってね。私たちはただ姉さんと話したかっただけだから。お粥を持ってきたのも、その切っ掛けがほしかっただけ。それじゃね。お大事に」
深夏がそう云うと、部屋を出て行く。
つられて秋音と冬歌も部屋を出て行った。
お粥を口に運ぶ度に、最初は慣れなかった甘味も、今では気にならないほどだった。
ふと、部屋の中に誰かがいる気配がしたけど、お腹が一杯になった所為か、気付いた時には眠りについていた。