拾漆【8月10日・午後10時18分】
「あの、瀬川さん…… 起きてますか?」
明日の準備を早々に終え、就寝しようとしていた僕の部屋に春那さんが訪ねにきた。
「あ、今開けますね」
そう答えながら、僕は襖を開ける。
「すみません。もうそろそろ寝る時間だったのに……」
「いえ、今日は色々ありましたから、興奮して眠れないんですよ」
春那さんは静かに会釈すると、部屋の隅っこに移動し、そこに座った。
「あ、ジュース持ってきたんですけど、飲みますか?」
春那さんの手には瓶ジュースとコップが二組。そして、栓抜きがあった。
「はい。丁度寝る前に水を飲もうと思ってましたから」
本当は早く寝ようと思ったのだが、せっかく持ってきてくれたのだから、甘んじてそれに答えた。
春那さんが僕のコップにジュースを注ぐ。
「改めて、今日は暑い中、耶麻神邸に来て下さって有難う御座います。それでどうですか? やっていけそうですか?」
「まだ来たばかりでなんですけど、皆さん優しそうな人ですし、やっていけるかなって」
そう伝えると、春那さんは自分のコップにジュースを注ぎながら、「皆さん本当に優しいんですよ。本当に……」
途端声のトーンが落ちる。
「四年前の事件…… 御存知ですか?」
そう聞かれ、僕は頷く。
「あの事件が公になった後、殆どの旅館に客が入らなくなったんです。それと役員達は私を社長から引き摺り下ろそうとしていました。勿論、そうなっても止むを得ない状況でしたので覚悟はしていました。また脅迫状と云った、手紙や電話が引っ切り無しにあって、その事を警察に話しましたが、受け入れてもらえませんでした。当然ですよね……。実際は違うとはいえ、人を殺した事には変わりないんですから。殺人を犯した人間の云う事なんて、誰も聞き入れてくれませんよね」
春那さんは俯きながら、言葉を続ける。
「旅館経営ってのはイメージ第一なんです。それを一度壊してしまうと、修正することは極端に難しいんです。どんなに頑張っても、業績は伸びない。それどころか左肩上がりなんです」
僕は余り会社経営には詳しくないが、確かにイメージも大事なのだろう。
「でも父さんや母さんが必死になって、離れていったグループの人たちに和解を申し込んでくれたんです。私が未熟だからですね……」
「それは違うと思います」
「違いませんよ。私は父さんみたいに仁徳はないし、母さんみたいな人を見極める力もありません。社長っていう役職だって、母さんが体が弱いから貰っただけで、本当は誰でもよかったんです」
その言葉に僕はキれた。
「それじゃ! どうして四年前の事件の時! 春那さんは社長を降任されなかったんですか? 僕だったら、そんな社長の下で働くのはイヤですよ」
そう怒鳴ると、春那さんは肩を窄める。
「でも、会社の人たちが貴女を降任させなかったのは、貴女に期待したからじゃないですか?」
「期待なんてしてませんよ。私に献言なんてないですし、殆ど役員の人たちが決めていますし……」
「でも、その最終決定をするのは霧絵さんですよね? だったら、社長降任の最終決定も霧絵さんにあったんじゃないんですか?」
「だったら、母さんのお蔭だって云うんですか?」
「それもあるかもしれませんけど! でも、貴女を信じてるから会社の人たちは貴女を降任させなかったんでしょ?」
春那さんは俯いたまま……
「私は今の今まで、一度も人を信じたことないんですよ。小さい時から、学校に行っても話してくれる友達はいなかった。親が“あの子は特別だから遊んじゃ駄目だって”…… そう云って…… 大きくなっていくにつれて、その言葉の意味がわかってきて…… 私は特別なんかじゃない! お父さんだって特別じゃない! お母さんだって! 特別ってなんですか? 私だって友達が欲しかったですし! 恋もしたかった! でも! それ以前に“耶麻神”の名前が私を苦しめるんですよ! みんな私がお金持ちだから! お金持ちの子供だからって……」
春那さんは僕の肩を掴み、泣き崩れた顔で僕を見詰める。
「私はそんなにお金は持ってませんし、会社の収益は税金やこの屋敷に掛かる光熱費とか水道代、食事代に使用人たちの給料。勿論会社で働いてくれる社員達の給料で消えています。実際そんなに金持ちじゃないんです」
僕は言い過ぎたことを後悔する。
「社長も結局会社に養ってもらってるだけなんです。会社というのは、社長だけで出切るものじゃないんです。社員がいて、会社を支援してくれる人達、そして商品を買ってくれる人などがいて始めて会社なんです。それを一つでも欠ければ“会社”じゃないんですよ……私は……その人たち全員を裏切ってしまった……」
崩れるように、春那さんはそう呟く。
「だったら今からでも遅くないでしょ? 裏切ったのなら償えばいい!」
「無理ですよ! さっきも言いましたよね? 壊れたものは簡単には直せないって! 信用ってのは壊れるともう戻らないんです」
「でもそれは春那さんが人を信じないからでしょ? いいですか? 人を信じないって云ってる人は、自分すら信じてないんです!」
僕は小さく宥めるように答えた。
「確かに壊れた人間関係ほど直すのが難しいものはないですよ。でも、四年前の事件を春那さんは悔やんでいるんですよね? それ以降、会社による慰安旅行は行われていない……」
そう云うと、春那さんは小さく頷いた。
「でも中にはそれを楽しみにしている人もいると思いますよ」
「嘘ですよ。だってあんな事件を起こしているのに」
「過去にあった事を何時までも気にしてたら、後の事なんて何も出来ませんよ!」
「瀬川さんにはわからないんですよ! どんなに苦しいのか!」
「わかりませんよ! 僕は貴女じゃない! 貴女の苦しみや考えがわかる訳がない!」
「結局誰も私の苦しみなんて知らないんですよ!」
「本当に知らないって云えるんですか? それじゃ今まで貴女のことを助けようとした大聖さんや霧絵さんに失礼じゃないんですか?」
僕は必死に彼女の苦しみを理解しようとしていた。
人の苦しみを理解することは本当に難しい。
何故なら実際自分がそうなった事がないから。
でも苦しみをわかってあげる事は出切るかもしれない。
「春那さんがそれじゃぁ、何時まで経っても恩返しする事は出来ないんじゃないんですか?」
僕がそう云うと、春那さんはキョトンとする。
「今までそんな状態なのに、ずっと春那さんを信じてくれている人達に、春那さんは何かしたんですか? 何もしてないんですよね? 本当に大事なのは信頼なんですよ。貴女は自分の力で信頼を得ていない。それでも会社の人たちや使用人の人たち。そして何より霧絵さんたちは貴女を信じている。信じてくれている! 貴女がどんなに人を信じなくても、多分皆さん貴女のことを信じてくれていると思います」
「勝手なこと言わないで下さい! 誰も私の事なんて信じてない!」
「それじゃ! 僕が信じますよ!」
「貴方が私の何を信じるって云うんですか?」
「人を信じるのに理由が要りますか? いらないと思いますよ」
春那さんはスッと立ち上がり、襖を開いた。
「私は貴方を過信していたのかもしれません」
「えっ……」
僕がその事を聞こうとしたが、彼女は襖を閉めてしまい、聞けずじまいだった。
勿論、後を追って、聞くこともできるが、それは火に油を注ぐと同じだろう。
部屋の窓を開け、空を見上げた。月が昇っていて、まるで僕を睨んでいるようだった。
その瞬間、水飛沫が顔に当たる。勿論雨は降っていない。
ふと目の前に、物悲しそうに僕を見詰める女の子がいた。
「どうしたの?」
僕は一瞬何を訊いてるんだ?と自分に問う。
こんな時間に……女の子が一人で来る訳がない。それどころか、身体はずぶ濡れなのにも関わらず、周りは濡れていない。
「君は…… 君は誰なの?」
僕の問いに彼女は答えない。いや答えようと口を動かしている。
「若しかして…… 君がこの山の“カミサマ”なの?」
そう云うと、彼女は少し躊躇いを見せたが、首を横に振った。
彼女…… いや、少女はジッと僕を見ていた。
何を云おうとしているのか、僕には理解出来なかった。
その事を感付いたのだろう。
少女は悲しそうな目をしながら、それでも僕に何かを云おうとしていた。
途端強い風が吹き、僕は目を瞑った。
その一瞬の間……少女は消えた。
身を乗り出し、辺りを見渡すが、あるのは月明かりだけで、遠くまでは見えなかった。