拾伍【8月10日・午後8時25分】
舞と渚を乗せた車は、榊山を下りてから、ただ静寂だけが漂っていた。
そんな中、舞の持っている携帯電話が鳴り響いたが、今は運転中で出る事が出来ない。
目の前にあるコンビニの駐車場に車を停め、漸く携帯を出た。
液晶を見ると、舞が以前所属していた捜査一課の課長からである。
舞は相手を見るや、溜息を吐いた。
「……はい」
「あー、植木警視。ちょっと耳に挟んだんですけど、貴女岐阜県警が所有している四年前の捜査資料勝手に取り寄せたみたいですね」
「はい。あれ? 課長に連絡はしたはずですけど?」
「いいえ、こっちに連絡は来てないですよ。それに電話にはすぐ出るようにと云っているでしょ! こっちは刻一刻を争うんですよ」
机に座って、ただ単に命令してるだけの木偶の棒が何を……と頭の中で悪態をつく。
「すみません。何せ運転中でしたから」
「運転中? 貴女今何処を走ってるんですか?」
「えっと…… 今****のコンビニにある駐車場にいます。それとも、課長は私が携帯による余所見運転で事故を起こしてもよかったと?」
「そんな事は云ってません」
課長の甲高い声が耳元で耳鳴りとなって返ってきた。
「それに私もう定時で今日のお役目は終わりだと思いますけど」
そう云われ、課長は確認を取る。
確かに舞はこの捜査に参加しているわけではない。
舞の仕事は主に本部調査及び、所轄の管理職と、こういうところは警視である役得だろう。
因みに長野県警は中規模県警とされている。
「ところでどうして、課長が私の携帯に?」
「今さっき本部長から連絡があって、植木警視を至急呼び出してくれと連絡があってね」
「それなら、直接本部長から連絡が来るはずですけど?」
「君が言ってるのは二年前に辞任した本部長でしょ? 未だに本部長に携帯番号教えてないそうじゃないか?」
「すみません。何せこの携帯、つい最近買い換えたばかりで……ってか、どうして私の番号を課長が知ってるんですか?」
「そんなの君と仲がいい刑事に聞けば早い話だろう?」
まぁそうだろうな……と舞は小さく溜息を吐く。
「それで少なくとも本部長から伝言は貰ってるんですよね?」
「いや、君の番号を知りたいとだけね」
だったら“そこら辺の警官を捕まえて聞き出せば早い話だ。何を回りくどい事を”と舞は頭の中で呟いた。
「とにかく、貴女が何をしたが知りませんけど、私は責任取れませんからね」
「わかりました。本部長には此方から追って連絡しておきます」
そう伝えると電話は切れた。
「う…… えき…… け…… いし……」
後部座席の窓を少し開け、渚が声を掛ける。
「余り顔を出さないで下さい」
舞はそう云うと車に乗り、渚は言われた通り、窓を閉め直した。
舞は携帯を弄り、電話を掛ける。
「此方舞……あ、早百合?」
「舞? あ、植木警視……」
電話先の声が一度呼び捨てをするが、すぐに言い直した。
「いいわよ。別に改まらなくたって、あんたとは警察学校からの付き合いなんだから」
「そうね。で、何か用なの?」
「ちょっとさぁ、本部長に繋げてくれないかな?」
「いいけど、今本部長いないのよ?」
「はぁ? あの木偶の棒から、本部長が私に用があるって連絡受けて、今掛け直してんのよ? 電話が掛かってきてから、それこそ二十分も経ってないのに、その張本人が不在ってどういう事?」
「わからないわよ! それに本部長、今日は昼間からいないのよ」
「……どういう事?」
刹那、舞の背中に悪寒を感じた。
「昼間外食から帰ってきてから上の空で……」
突然電話の先から小さく電話の呼び出し音が聞こえだした。
「……舞、ちょっとさぁ、阿寺渓谷ってわかる?」
「えっと、あそこでしょ? 水面がまるでエメラルドグリーンみたいな感じの……そこがどうかした?」
「今非通知設定の携帯番号から渓谷で撲殺死体が見付かったって……」
「でも、確か其処って駐在所なかった?」
「それが……今その警官もいないのよ。それにいたとしても、いるだけの人だからね。それで近くの署から捜査員を何人か送ったから……」
舞は異常なほどの寒気を感じる。
「うん。それでさぁ早百合、本部長が戻ったら、連絡もらえるよういっといてくれる?」
「えっと、本部長の携帯番号教えようか?」
「ううん、いいわ」
その言葉に早百合は首を傾げる。
「それじゃ、帰ってきたらお願いね……」
舞はそう云うと電話を切って、一つ溜息を吐いた。
そして、ハンドルを思いっきり叩いた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああ!」
確認すればいい。
すぐに現場に行って確認すればいい。
だけどそれが出来ない。
自分はあくまで管理職であって、現場に赴くことは殆どない
だからこそ……すぐに確認を取れば済む話……
それでも、警察官の血が彼女に教えていた。
――恐らく本部長は殺された……
舞は急いで早瀬警部の携帯に連絡した。
数秒もしないうちに電話は取られた。
「はい、此方早瀬。舞ちゃんどうしました?」
「早瀬警部? 今何処にいるんですか?」
「えっと、落ち着いて下さい。今、**にいますよ」
「それじゃ其処から阿寺渓谷まで直行してくれませんか?」
「ちょっと、どうかしたんですか?」
「今、早百合と電話してる時に其処で撲殺による死体が発見されたという連絡が入ったんです。それに村の駐在もいないそうなんです」
「あの物腰低い優しい爺さんですか?」
「はい。本当は私も行きたいですけど、でも……」
舞は涙を堪えていた。
本当は自分も其処に行って、現場を確認したい。
「舞ちゃん。貴女が電話をしていた時に報告の電話が掛かってきたんですね?」
「え? あ、はい……」
「早百合ちゃんは“非通知の携帯”から掛かってきた……と、云ったんですよね」
「あ……」
早瀬警部の言葉に舞は唖然とする。
その事を誰が連絡した? 少なくとも一一〇番とは考え難い。
それだったらすぐ近くの署から警官が行く。
「警部! すぐに行って下さい! それから、渚さんはこのまま私の近くに置いておきます」
「わかりました。それじゃ、此方は急行しますね。着いたらまた連絡します」
そう云うと、二人は同時に電話を切った。
後部座席に座っている渚が声を掛けようとしたが、それが出来なかった。
「それじゃ、次は足伸ばして下さい」
そう澪に云われ、私は従う。慣れた手付きで包帯を解いていく。
「うわ、改めて見るとグロいわね?」
近くで見ていた深夏がそう云う。
右足にはくっきりとタロウがつけた歯形がある。
改めて、タロウが手加減をしていたことを実感する。
本気で私を殺そうと思っていたのなら、肉片は食い千切られても可笑しくないからだ。
広間には澪と深夏、そして霧絵と私。で、渡辺は自室。
冬歌と秋音、そして春那は冬歌の部屋で遊んでいて、正樹はお風呂に入っている。
「あっ! いっ! いつ!」
澪が傷薬を塗る度に染みて、私は小さな悲鳴を上げる。
「鹿波さん? そんな大袈裟な……」
勿論怪我自体も酷いのだが、それよりも私は慣れていない。
怪我したら、傷を洗えば、あとは勝手に治ると教えられてたからだった。
だからこういう傷薬が染み込むのに慣れていない。
「はい。後は安静にしておいてください。それと今日は身体を拭くくらいでお願いしますね」
「わかりました」
……と話をしていると、屋敷の黒電話が鳴り響いた。
繭が取りに行こうと立ち上がったが、電話は直ぐに切れた。
その瞬間悪戯電話だろうと、繭は此方を見遣ったが、「母さん? 早瀬警部から電話」
廊下の奥から秋音の声が聞こえる。
呼ばれた霧絵は立ち上がり、廊下に出た。
「あ、来ました。電話変わりますね」
そう早瀬警部に伝えると、秋音は受話器を霧絵に渡した。
「もしもし、お電話変わりました」
「あ、霧絵さん。吃驚しました?」
「はい。吃驚しました」
そう伝えると早瀬警部は笑う。
「人が悪いですよ。それと舞さんには悪い事しましたね」
「どうかしたんですか?」
「警察は証拠がなければ何も出来ない……」
霧絵がそう云うと、早瀬警部はクスクスと笑った。
「確かにそうかもしれませんね。それがなければ、私たちは犯人を捜すことも、そして逮捕する事も出来ません」
「被害者としては直ぐに犯人を捕まえて欲しい……そしてどうして殺したのか、その理由が知りたい……四年前の事件だって、若しかしたら私たちにも責任があったのかもしれない。だったら人を殺すよりも、先ず何処が悪いのかを知る事が大事じゃないんですか?」
「警察も出来る限り捜索しています。でもね霧絵さん、素直に犯人が云うと思いますか」
冷たい言葉だったが、実際はそうではなかった。
早瀬警部が今年定年を迎える四十年間は自問の繰り返しだった。
そして答えは未だに見付からないし、恐らくこれからも見付からないだろう。
捜査一課に入ったのだって、若しかしたら運命だったのかもしれない。
自分の父親がいたその世界に、自分も足を踏み入れたのだから、それなりの覚悟をしていた。
勿論少なからず殺されることを覚悟していた。
早瀬文之助がそうであったように……その覚悟を息子が物心ついたときから語っていた。
「私は今年で引退です。でも最後に一つ花を咲かせたいですね。満開に咲く大きな花を。絶対見つけ出してみせますよ。ただ、場合によっては貴女達家族に迷惑をかけるかもしれませんけど」
霧絵は静かに微笑んだ。
そんなものは最初から感じていない。
自分たちのためにここまでしてくれている。
別に警察官としてではない。
大聖の……太田霧絵の知り合いだからという理由だけである。
たとえそれが自分のいる長野県警を敵に回そうとしても……
「早瀬警部、定年後は何か予定でも?」
「いえ、特に何も……」
「だったら……」
霧絵が言いかけると、耳元から電磁音がなる。
「あー、すみません。キャッチ入りました。相手は舞ちゃんです」
「そうですか。それじゃ舞さんにも宜しく云っておいてください」
「――わかりました」
そう云うと、早瀬警部は電話を切った。
「母さん、早瀬警部なんだって?」
部屋から出てきた春那が霧絵に尋ねる。
「春那…… ちょっとこっちに来て」
そう云うと、霧絵は春那を書斎に連れていく。
部屋の電気をつけると、本がギッシリ埋まっている。
「春那…… 落ち着いて聞いて……」
春那は何ことかと思ったが、母親の真剣な表情から、ただことではないと感じた。
「渚さんが見付かった」
「え? 何処にいるの?」
「それはいえない。それに大丈夫。渚さんは警察に保護されてるから」
霧絵は春那に渚が生きていることだけを伝えると、部屋の隅に移動した。
部屋を出なかったのは、出来る限り一人にしない事だった。
春那はジッと霧絵を見詰め、それが十分ほど続いたが、春那は重い腰を開け、部屋を出ようとすると、
「お母さんは渚さんに会ったんだよね?」
そう云われ、霧絵は頷いた。
「それじゃあの車に乗ってたって事かぁ。ちょっと入るタイミング間違えたなぁ……」
春那はずっと見ていたのだろう。門の前での会話を……
「ごめんなさい。直ぐに言えばよかったのに……」
「でも若し本当の事を云えば、私たちに危害が及ぶって思ったんでしょ?」
春那はゆっくりと深呼吸すると、「冷静に…… 冷静に……」
そう呟くと、大きく深呼吸した。
「そういえばお風呂入ってなかったね? ねぇ、たまにはさ、背中流してあげようか?」
春那の申し立てに霧絵は頷いた。それを見て春那は小さくはしゃいだ。