拾肆【8月10日・午後6時24分~午後7時42分】
早瀬警部から連絡がきてから、今まで特に何事もなく過ごしていた。
勿論僕や鹿波さんをはじめとする使用人たちは、部屋の掃除や備品の点検などをしていた。
この屋敷は元々榊山に登ってくる人の為に建てられた憩いの場で、鹿波さんが生きていた四十年前は、集落があった場所とされている。
家族其々の部屋と使用人各自の部屋、そして客室は四畳一間となっている。
鹿波さんの話だと、何時建てられたのかわからないらしいし、霧絵さんもそのことに関しては知らないらしい。
つまり、少なくとも四、三十年前の間に建てられたということか?
「ふぅ……」
浴室の掃除をしていた澪さんが溜息を吐く。
「あ、そこは僕がしておきますよ」
「にしても、水道代が馬鹿にならない屋敷ね」
澪さんはだだっ広い浴槽を見て言う。大凡二、三畳くらいはある広さだ。
「まぁ、冬歌お嬢様は楽しんでるけど……今は自粛してるけど、昔は浴槽で泳いでたのよ」
そういわれると想像出来てしまう。七畳もある浴室は掃除するのも一苦労で、住んでいる人間が多いとはいえ、やはり元々旅館として建てられていたんだなと実感してしまう。
だけど、どうして建っているのだろうか、その理由は前の主が知っているだろうけど、結局教えてもらえなかったらしい。
「そういえば、瀬川さんは如何して私達の事知ってたんですか? 奥様や春那お嬢様ならまだしも……」
そう訊かれ、僕は慌てる。鹿波さんと奥様以外は初対面だからだ。
「実は霧絵さんから来る前に色々聞いてたんですよ」
「例えばどんなの?」
「澪さんは料理が得意で、調理長をしても可笑しくないくらいの力量を持っていて、空手を得意とするとか、タロウ達のドックトレーナーでもある……」
「うんうん」
「繭さんは深夏さんの同級生で、朝が弱いから学校が近いこの屋敷に住み込みで働いている」
「うん正解」
「渡辺さんは奥様や旦那様とは大学時代からの知り合いで、旅館を切り盛りしていた」
そう云うと、澪さんは頷くと思ったが、「うーん。少し違うかな。少なくとも此処は旅館じゃないし……」
そう云われ、僕は首を傾げた。
「だってここはどっちかと云うと“休憩所”じゃない? そりゃ遠くから旅館経営の仕事で来た人が泊まるための客室はあるけど、山の標高はそんなに高くないから、大抵は日帰りなのよ」
つまりこんなに広くなくてもいいのではないかと云うのが、澪さんの率直な意見だった。
「それに渡辺さんはどちらかと云うと、何か裏があるって感じがするのよ」
「裏……ですか?」
「ええ。タロウ達は警察犬として育てているから、そう云うのが野生の感でわかるんでしょうね。初めて会う人には一回吠えるだけで、主人の知り合いだとわかると、後は全然吠えないのよ。寧ろクルルなんて懐くほどなんだから」
確かに僕も最初は吠えられたけど、タロウ達も記憶があったのか、此処に来た時一回も吠えられなかった。
タロウが吠えたのだって、冬歌ちゃんに対する嫉妬かららしいし……。
「でも、渡辺さんに対しては絶対に吠えるのよ。自分たちよりも前からいる人なのに」
「何か悪い事したんじゃないんですかね?」
「する前に噛み殺されてるわよ?」
確かにそんな事をしたら……と、僕は鹿波さんの左腕や右足に包帯がされていた事を思い出す。
そのことを尋ねると、訓練で怪我をしたらしい。
「あの時はさすがに吃驚したわ。まさか本気で抵抗してたらしいから」
「それでタロウが勝ったんですか?」
「ううん。鹿波さんが負けに近い引き分けじゃないかな? 若しタロウが本気で鹿波さんを殺そうと思えば、あんな“軽症”で済まないからね。腕が一本なくなっても可笑しくない」
そう聞かされゾッとする。奴らが如何してタロウ達まで殺していたのか。
それはタロウ達も危険だという事だ。
鹿波さんが強い事は僕が以前身を持って知っている。
けど、タロウ達が本気で抵抗していたら……?
それに澪さんだって強い。空手黒帯の実力は持っているし、どちらかと云うと邪魔者はこの二つだと思う。
蛇口から大量の水が流れ出ていき、それが浴槽を満たしていく。
「えっと、三十分くらいで一杯になりますから、止めといてくださいね」
そう云うと、澪さんは浴室から出た。と思ったが、ふと立ち止まり、こちらを振り向く。
「あ、今日は腕によりをかけた夕食になってますから」
何とも楽しげな表情でそう伝え、浴室を出ていった。
――それから五分が経った時だった。脱衣所の方から二つくらいの声が聞こえだし、すりガラスを一瞥すると、
「冬歌! まだ瀬川さんがいるかもしれないのよ?」
「大丈夫だって! 掃除中のお札貼ってなかったから」
声からして、秋音ちゃんと冬歌ちゃんみたいだ。
冬歌ちゃんは僕が入っている事に不信感を覚えていないらしい。 逆に秋音ちゃんはまだ僕が入っている事に感付いている。
今入ってきたから、すぐ出れば怪しまれないし、嫌われる事はないだろう。
そもそも浴室の掃除で女風呂に入ってるのだから、直ぐに出れば大丈夫……と扉の取っ手を掴み、開けようとした時だった。
布が擦れ、床に秋音ちゃんのズボンが落ちる音と僕が開けた音が重なった。
目の前にはズボンを脱ぎ、ショーツをさらした姿の秋音ちゃんと、カッターシャツのボタンを外し、薄着になっていた冬歌ちゃんの姿があった。
一瞬時間が止まったと思ったが、
「やぁああああああああああああああああああああああああああっ!!」
当然のことながら、秋音ちゃんは悲鳴を挙げた。
「わっ! とっ! うわ!」
秋音ちゃんは興奮のあまり、辺りにあるものを撒き散らす。
そしてその中の一つが僕の頭に当たり、グラッと意識が遠のく。
「ちょ、ちょっと如何かしたんですか?」
騒ぎを聞き付け、脱衣所に入ってきた繭さんが辺りを見渡す。
「あうぅ~~っ」
秋音ちゃんは踞み込み、ジッと僕を睨みつける。
「瀬川さん? 堂々と覗きは駄目だと思いますよ」
「ちょ、それじゃ隠れて覗くのは良いって云ってませんか?」
「というか、澪さんが戻ってきたのがついさっきですから、まだ湯船にお湯は張られてませんよ」
少なくとも繭さんは澪さんに会っているはずだから、僕が悪いわけではないと思っているらしい。
と、僕の横を小さな影が通り過ぎていき、まだ入れられて間もない浴槽に入っていく。
それが冬歌ちゃんだという事は瞬時にわかった。
ヒョコッと顔を出し、トローンとした表情で湯船に入っている。
何時の間に脱ぎ終えたのだろうか、と云うよりも……
「よ、よくこの状況で脱ぎ終えてましたよね?」
秋音ちゃんがそう云う。
一応タオルを巻いてショーツが見えないようにしている。
「ほ、本当だね……」
僕は空回りな返答しか出来ないでいた。
「まぁ、今まで男性は渡辺さんだけでしたし、そもそもそんなに羞恥心がある子じゃないですから、余り気にしないんじゃないですかね?」
秋音ちゃんが見下ろすように云う。
「好い加減出て行ってくれませんか? 後は私がしておきますから」
完全に嫌われてたなと思いながら、僕は脱衣所を出た。
さっき物を当てられた所為で、頭がズキズキする。まぁ、大した事はないし、直ぐに出て行かなかった僕が悪い。
「それにしても可笑しいですね」
脱衣所から出てきた繭さんがそう云う。
「何でですか?」
「いや、ここに“清掃中”っていう看板を掛けられる様になってるんですよ」
確かに掃除をする前に澪さんがそれをドアに掛けていた。
だけど辺りを見渡してもその張り紙が見当たらない。つまり秋音ちゃんと冬歌ちゃんは掃除が終わったと思い入ってきた。
「それに看板は湯船が張るまで掛ける様になってるんですよ。中には熱いのが苦手な人もいますからね」
そう云いながら、繭さんは辺りを探す。
浴槽からは冬歌ちゃんの楽しそうな声が聞こえる。
「気になります?」
「何云ってるんですか!」
僕が慌てて反論すると、それが余計可笑しかったのだろう。繭さんはクスクスと笑う。
それから十分ほど辺りを探したが、結局“清掃中”の張り紙は見付からなかった。
広間では夕食の準備で忙しく、元々用意されていた正樹への歓迎会が開かれようとしていた。
テーブルの上には色取り取りの料理が並べられ、それら全てが澪によるお手製である。
正直見たことのない料理が並べられていて、高が四十年と思っても、その間、文化等の変化がある事を実感してしまう。
「あ、鹿波さん! 瀧に行って、水を汲んできてくれませんか?」
風呂場から戻ってきた繭にそう云われ、私は厨の窓から外を見やる。外はすっかり真っ暗だった。
「ちょっと、もう暗いわよ?」
手伝っていながらも、ウインナー等を抓み食いしている深夏がそう云う。
「大丈夫ですよ。少し水を汲んできて欲しいだけですから……って! 何回云えばその悪癖は直るんですか?」
繭に注意されながらも、聞く耳持たずと云った感じで、深夏はもう一つと摘もうとしたが……
「あっつ!」
突然深夏が悲鳴を挙げ、飛び上がった。
手の甲に息を拭き掛けながら、キッと何時の間にか近くに来ていた澪を睨んだ。――が、どちらかと云うと澪のほうが怖い。
「ちょっと、澪さん! 今、目茶苦茶熱かったんだけど?」
「当たり前ですよ。今さっきまで油物してる時に使ってた菜箸で当てたんですから」
私と繭は深夏の火傷した痕を見る。
深夏の手の甲には小さく水脹れが出来てる。
「大丈夫ですよ。火傷治しの塗り薬塗ればいいんですし、そもそも、抓み食いしてたお嬢様が悪いんです」
「でもこれはねぇ……」
「何時までもその悪癖が直らないのが……」
澪が愚痴々《ぐちぐち》と深夏に説教をする。
「澪さん? 油物してるんじゃないんですか?」
確かに言われて見れば、今さっきって自分の口で言っていた。
「あ、忘れてた」
いや、忘れじゃ駄目だろ!と心の中でツッコミを入れる。
「それじゃ、すみませんけどお願いしますね。あ、量はバケツ一杯分で……」
繭はそう私に伝えると、澪の手伝いに戻った。
玄関を出て、厨房の裏手に回るとポツンとバケツが置かれている。
それを手に取り、門を潜ると、目の前には“カミサマ”が祭られている祠があった。
勿論実際祭られているのはお稲荷様で、私でもなければ“カミサマ”でもない。
その祠の前に信者と云わんばかりに熱心にお祈りをしている霧絵がいた。
見ていて苛々する。実際神様は何もしない。
大抵は自然現象と人間によるものだというのに、それを神様がした事にするのは幻想だと、生きていた頃、お婆ちゃんからよく聞かされた。
「鹿波さん…… どうかしたんですか?」
お祈りをしながらも、私が後ろにいることに気付いたのか、霧絵が声をかけてきた。
「神様は何もしないわよ?」
「わかっています。でも、お願いを聞いてもらうのはいけないでしょうか?」
「お願い事?」
霧絵はスッと立ち上がり、私の方を見遣ると……
「今度こそ…… いいえ! 何回でも願います! 私はあの子たちに幸せになって欲しい! これから先、私も大聖さんもいない世界で! それでも幸せに…… いいえ! あの子達は耶麻神と云う柵、呪縛から解かれないといけないんです! ずっとこのような残酷な悪夢が続くのなら! 私は何回でも願います! それが私の願った事! ずっと…… ずっと前から…… 思い続けていた事……」
それは恐らく、私や正樹がここに来るよりも前の願い。
今までずっと願っていたこと……
「ごめんなさい…… 私は神様じゃないから……」
「いいえ、これは私の勝手なお願いです。鹿波さんが謝る事じゃないですよ」
気拙い雰囲気は本当に苦手だ。
そもそもこの話はどちらが悪いという訳ではない。
ふと、横のほうが妙に明るくなる。
途端車のクラクションが鳴った。
私と霧絵は其方へと見遣った。
白い車の上には小さなパトランプが着けられている。
でも、此処に誰かが来るとは……確か早瀬警部が勝手に行ってもいいとは云ってたけど……。
そう考えている内に車は私たちの目の前に停まり、ドアが開いた。
「こんばんわ…… 霧絵さん」
降りてきたのは……植木警視だった。制服と云うよりも、完全にラフな服装だ。
「こんばんわ、舞さん」
霧絵は深々と頭を下げる。
「あの舞さん…… やはり早瀬警部は来られないんですね」
「早瀬警部は大聖さんが残してくれたデータを参考に、長野県警長及び、旅館関係者の裏金調査に乗り出しています。その最高責任者として此処に来ました……」
「そうですか……」
「一応云っておきますが、霧絵さんや春那さんが関与しているとは毛頭思ってませんので安心してください」
勿論疑いはあったのかもしれないが、この二人がそんなことをするとは思っていないのだろう。
そんな疑いを持った表情をしている私に気がついた植木警視が、
「あ、因みに云っておきますけど、大聖さんはパソコンどころか機械を扱うのが苦手なんですよ」
つまり自分に不利な部分を書き換えたりする事は出来ないという事だ。となると、その裏帳簿をデータに置き換えた人間がいるという事。
そのことを尋ねると植木警視は「それをしたのは四年前早瀬警部と組んでいた“西岡礼二”という、今は確か警部補になってる人です」
植木警視は頻りに後部座席を見遣る。
「誰かお連れの方がいらしゃるんですか?」
そう尋ねると植木警視は頷いた。
「本当は重要参考人として余り連れ回すのはいけないのですけど…… 御本人がどうしても一言云いたいと……」
そう云うと、うしろのドアを開いた。
目の前には身窄らしいほどに窶れているが、髪は整えている。
それが隣りにいる霧絵と同年齢だと誰が想像できただろうか……
「な、渚……さん……?」
直ぐに気付いたのは云うまでもなく霧絵だった。
「き…… りえ…… ちゃん……」
可細いとは云い難い、寧ろ喉をやられ、掠れた声しか出ていない。
霧絵はどうしてこのような事になったのか、植木警視に尋ねた。
「この旅館を無言で辞めた……いいえ辞めさせられた後、渚さんはどこか別の所で監禁されていたんです」
「監禁?」
「その中に今まで辞めさせられていた使用人の方や役員もいましたが……全員が精神薄弱となって、中にはその場で自殺した人もいました。別に逃げる事も出切る場所だったのですが……」
植木警視はその言葉を飲み込む。
……いや自分でもどう説明すればいいのかわからないのだろう。
「誰かが酷い殺され方をした」
私がそう云うと、植木警視は注意しないとわからないほど小さく頷いた。
「そのせいもあって、助かった数名は拉致監禁されてから発見されるまでの光景を決して話そうとしません」
話している内に思い出したのか、わなわなと肩を震わしていく。
「私たち警察があの場所を見つけた事だって! 奇跡みたいなものなんですよ! そしてその場所を見つけ被害者を確保しても、犯人の目星がつかなければ何の意味もない! 結局! 警察は証拠がないと何も出来ない! 何も動く事が出来ない!」
そう云い切った刹那、鞭で叩いたような音が聞こえると同時に、植木警視はボンネットに倒れこんでいた。
「証拠がない? 証拠がないから犯人は捕まえられない? そんなのは言い訳ですよ! 別に犯人をすぐに捕まえろなんて思ってません! 確かにすぐに捕まえたほうが安全かもしれませんけど! でも! それよりも先ず! 生き残ってくれた人がいてくれたことを喜ぶべきじゃないんですか!」
今まで……恐らく姉妹達にも……増してや夫である大聖にすら見せた事のない鬼のような形相で、霧絵は植木警視を睨んでいた。
「私は貴女を、警察を攻めはしません…… 四年前の事故とは違うんですから……」
植木警視はどういえばいいのかわからなかった。
勿論口を滑らした自分が悪い。
「すみません。でも私はそう思ってます。だからこそ! 大聖さんの残してくれたあのデータが最後の鍵なんです」
「そちらのほうは警察にお任せします。それと……」
霧絵はこのまま夕食に参加してもらおうかと思ったのだろうが、今植木警視が屋敷にいると、却って危ない感じもしていた。
もちろんいてくれた方が心強いのだけれど……
「わかりました。今日は報告と渚さんをつれてきただけですから……」
そう云うと、植木警視はうしろのドアを開き、鮫島渚を車に乗せる。
「渚さん…… 生きていてくれて…… 有難う……」
その声が聞こえたのか…… 鮫島渚は小さく微笑んだ…… ただそれは一瞬ですぐにカーテンは閉められた。
「すみません。何分、見付かるとやばいので……それでは失礼します」
そう云うと植木警視は車を動かし、屋敷の方に入っていく。
そしてすぐに戻ってきて、そのまま山を下っていった。
「よかった…… 本当によかった……」
霧絵は私を見ながら云う。
「何が?」
意外にも私が冷たい返答をした事で霧絵はキョトンとする。
「本当によかったって云えるのは、八月十三日に全員が生き残っていて、尚且つ犯人が捕まっていること! それが一番よかったになるんじゃない?」
私がそう伝えると、無言で霧絵は頷いた。
その表情はどこか暗かったのは、後々、その運命が脚本家によるものではなかったのだと、私は嫌になるくらい実感することになる。
「さてと……」
私はバケツの取っ手を持ち、精留の瀧へと進んでいく。
その間何事もなく水を汲み終え、戻ってきた時には既に宴会は始まっていた。
何故遅れたのか澪に尋ねられたが、霧絵が自分と少しばかり話していたと助け舟を出してくれた。
食事中、特に記す事はなかった。
もちろん姉妹達は黙々と大聖の死を悔やんでいたが、霧絵の一言により、それが大聖による失礼なことだと気付かされた。
そう、あの大聖がこんな真っ暗な空気を好む訳がない。
ならばいっそのこと、明るくいるほうが大聖は喜ぶだろう。
たとえ悲しみに染まった心を隠しているだけでも……
明るい空気の方が何倍もいい。