拾【8月10日・午後1時18分】
「澪さん、澪さん!」
玄関の方で秋音が澪を呼びかける声が聞こえ、パタパタと廊下の方が慌しくなった。
「いらっしゃいませ。耶麻神邸へ」
澪がそう云うと、丁度近くにいた私を見遣る。
どうやら私も隣で挨拶しろと云うことだろう。
「お待ちしておりました。私こちらで働かせてもらっている……」
「お久しぶりです、澪さん……」
正樹がそう云うと、澪はポカンとする。勿論云った本人もだ。
「え? 私は貴方とは初対面のはずですが……。何処かでお会いしましたか?」
澪が確認するように訊ねると、正樹は申し訳なさそうに断りを入れる。
「そう云えば、私も冬歌と一緒で…… さっき門の所で……」
秋音は言葉を止め、俯く。
「タロウとクルルの声が聞こえましたけど、珍しいですね。あの子達が初対面の人間に吠えもしないなんて……」
澪が丁度玄関の前で遊んでいる冬歌とクルルを見遣る。
「あの、澪さん? 此処で話すのもあれですから、瀬川さんに広間に案内されては? 春那お嬢様には私から申しますから」
「そうですね。それでは瀬川さん。こちらへ……」
澪は上履き入れからスリッパを一組出すと、正樹の前に差し出した。
「鹿波さん、すみませんけど、バックを部屋の方に……」
秋音が抱えていたバックを私に差し出し、
「瀬川さん? お部屋の場所ですが……」
「わかっています。瀧が見える部屋でしたね?」
正樹は当たり前のように言うので、「秋音お嬢様、何か申したのですか?」
と、澪が確認するが、秋音は首を横に振る。
勿論、春那と霧絵が事前に部屋のことを云っている訳ではない。
何回も同じ場所だったから、記憶消去の影響を受けなかったのだろう。
基本的に私と霧絵以外は記憶を継続していない。
だけど今までしてきた事は継続してきている。
深夏と冬歌の人参嫌いを克服しているし、秋音の顧問は大川以外の人間になっており、さらには大きなイジメはないらしい。
ここ最近は全員の渡辺に対しての警戒心は強くなっているし、早朝に鶏小屋へ卵を取りに行くさい、必ず渡辺一人にはしていなかった。
その事に関しては渡辺も不審には思っているらしいが、作業が捗るので余り気にはしてないようだ。
正樹の部屋にバックを置き、そのまま春那の部屋に申し出を入れる。
部屋から出てきた春那はソワソワしていて、余り私の話を聞いていないようだった。
私と一言二言話すと、どこかぎこちない足取りで広間の方へと歩んでいき、私はその後姿を一瞥し、霧絵の部屋に入った。
窓が開いているのか、涼しい風が入ってきた。
霧絵は窓縁に座り、タロウを撫でている。
「冬歌、お母さん鹿波さんと大事な話があるから、広間に行って、瀬川さんを見てきなさい」
そう云うと、冬歌は素直に云う事を聞く。
数分もしないで玄関が開く音が聞こえ、ドタバタと慌しい音が廊下から聞こえた。
「不思議なこともあるわね。さっき玄関で見たけど、澪の事や部屋の場所を知ってた」
「冬歌もどうして抱き付いたんだろうって不思議がってましたよ」
つまり正樹に今までの記憶があるのかと云うと、そうでもない。
“記憶”というのは、本人が最初から認識していているから“記憶”。
デジャブとか意識していない記憶は、勿論本人は覚えている訳ではない。
だからわからないけど何故か知っていると云うことになる。
勿論意識しないで聞いていたりすれば、それも記憶として脳に植えつけられる。
「もしかしたら、“カミサマ”がした事なのかもしれませんね」
「……え?」
「大聖さんが“カミサマ”は鹿波さんと同じくらいだと申してました。それはこの榊山で犠牲になった少女は、裏切られても“カミサマ”となって、この山を守り続けていた事。だけど私は心のどこかで“カミサマ”に対して疑っていたのかもしれません」
霧絵はどんよりとなっていく空を見ながら言った。
「でも、それは人に対しても一緒です。渡辺さんの監視をするのも、信じているからこそです。でもどこかで疑っているんでしょうね……」
霧絵は決して人を疑うことを知らない訳ではない。
色んな人間を見ているからこそ、善悪の根本的なことがわからない。
いい人間だと思っていれば、悪い人間であったり、その逆もありえる。
自分の見てきた人間全部がそう云うわけではないのだが、表裏一体である人間を信じているからこそだろう。
この榊山を守っている“カミサマ”も人を信じているからこそ、一人になっても、神秘的な力でこの山を守ってきていた。
本来、山とは神聖なる場所にある。
昔の山道は整理されていなかったし、今でも修行という理由であえて険しいままにしている山もある。
勿論登ろうとしている人もそれなりに覚悟して登っているだろうし、巫山戯て登ろうものなら、神様に叱咤を食らわされる。
「後は早瀬警部が来るか……」
出切れば来ないでほしい物なのだが、それは事件が起きない場合である。どうも事件が起きそうでならない。
「早瀬警部には別の用件で調べてもらっています」
「別の用件?」
「渚さんが生きているかどうかです……。数ヶ月前にテロップで放送して以来、全く報道では流れていない。――可笑しいと思いませんか?」
確かにテロップは事件を早く報せる為にある。
人の死は自他によって違ってはくるが、耶麻神旅館に関係のある人間が死んだと云うのに、報道番組では全くといっていいほど云われていない。
「確かに可笑しいわね?」
「それに渚さんは、私と同級生みたいなものですから、年齢が合わないのも可笑しいんです」
「同姓同名……って訳ではないのよね?」
「報道があって以来、渚さんとは音信不通になっています。それに、もし祖父がした事がこれまでの自殺連鎖に関係しているとしたら、渚さんは関与していたことになるんです」
「鮫島渚が、あの小倉っていう政治家の娘だったから……」
そう云うと霧絵は少しばかり驚いたが、私が知っていても可笑しくないと思ったのだろう。
「もし渚さんが祖父のことを怨んでいたとしたら、それを理由に私に近付いてきていたと云う事も考えられます。ですが、祖父はその時既に死んでるんです」
「ちょっと待って、それじゃ、霧絵と大聖の結婚を反対していた乱世は何者なの?」
「“あれ”も祖父です。いいえ私にとっては“祖父”のようなものとしかいえません。あの人が何者なのか、そもそも、耶麻神乱世は四十年前に既に死んでいるんです」
「それに違和感を持ったのは何時からなの?」
「大人になっていくに連れ、祖父の年齢に違和感を感じてからです」
「――どういう意味?」
「人間は必ず老います。それにより、体力が落ちる事だってある。ですが、“祖父”と思われし“人間”は、私が小さい頃からを考えると、既に九十は軽く超えていたことになるんです」
そうなると、それ相応の容姿になる。勿論それに関して違和感を持っているのは霧絵だけではなかっただろう。
耶麻神乱世がここら一帯を牛耳っていたのは事実だし、そのお蔭で大聖と霧絵は旅館の経営を許されている。
勿論最初は霧絵の父が経営していた旅館を手伝っていたが、乱世と思われる人物がそれを許さなければ、恐らく耶麻神旅館は寂れていたと思う。
大聖にあって、霧絵の父親になかったもの。
それは多分“人徳”と“仁徳”だったんだと思う。
“人徳”は“その人が持っている徳”を差し、“仁徳”は“他をいつくしみ愛する徳”を意味する。
大聖が誰からも信頼されていたのは“人徳”があったからだし、点々と旅館が作れたのも、云ってしまえば大聖がその場所場所に対しての思いがあったからこそ、それによる“仁徳”が生まれた。
それがなかったら、優に万を超える社員数にはならなかっただろうし、お金を貸していた銀行も最初は貸さなかっただろう。
それが霧絵の父にはなかった。
旅館も大聖が失敗することを予想し、与えたのだから。
それが蓋を開けてみれば、なんとやら……。
結果がこれなのだから、哀れである。
結婚を申し立てたのは、大聖というよりも霧絵である。
彼女は頑固一徹な一面もあるし、“これ”と決めたら梃子でも動かない。
「それで乱世が四十年前に既に死んでいることを大和先生に聞いた」
「先生曰く、確かに四十年前には死んでいるそうです。でもそれを……」
霧絵が言いかけた時、襖が開く音がした。
「母さん、瀬川さんが来て……」
深夏が部屋の中を覗き込むように云う。
「深夏、襖を開ける時は、先ず指が入る程度に開け、次に半分だけ開き、間を置いてから体が入る分を開きなさい。いきなりは吃驚するわよ?」
霧絵は別に怒っているいるわけではないが、親しき仲にも礼儀ありだろう。私もおばあちゃんからそれで怒られた事が何回もあった。
「ごめんなさい。でも母さんが遅いからみんな心配してるわよ?」
「わかったわ……。それと深夏、シャツから見えてるブラの紐だけど、人前では隠しなさいよ」
そう云われ、深夏は慌てて整え直す。
それを見ながら、霧絵は溜息を吐くと、「深夏、瀬川さんを見てどうだった?」
「どうって別にこれといって――まぁ、始めて会った気がしないのよね?」
そう云うと、深夏は広間の方へと戻っていく。
私と霧絵はそれを聞いて、矢張り何かしら記憶があるのだろうかと互いの顔を見合していた。