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玖【8月10日・午後12時56分】


 翠玉エメラルドのような輝きを放ち、太陽がカンカンと照りだしているにも拘らず、榊山の山道を歩く人々に清涼を味あわせている。

 正樹の額の汗は暑さからと云うよりも、山を登る疲れによるものだったが、心地いい涼しさがあり、首元のボタンは閉じられていた。

 風景を楽しみながら、一歩、また一歩と、運命とともに、歩みを進めていく正樹の目の前に、ふとスーツ姿の男性が現れ、会釈をした。


「おや、この山をお登りで?」

「あ、いえ、実はこの先の耶麻神邸に用がありまして」

「ほう。それでは、貴方が霧絵さんの言っていた新しい使用人ですか?」


 男の言動に正樹は首を傾げる。

 そして、本能的に警戒心を強めてしまう。


「そんな恐い顔しないでください。私と彼女は小さい時からの知り合いでね、本当に小さい時から……」


 男性は小さく微笑む。

 容姿はかなり歳のいった老人なのだが、山から下りてきたとは到底思えなかった。

 正樹は老人の顔を見ながらも、ただ一点が気になっていた。


「どこか、休むところがあるんですか?」

「いえ……。まぁ、私は長年この山を愛好していてね。よく山登りに来るんですよ。だからどこできつくなるとか、そう云うのがわかるんですよ」


男は笑いながら答えると、「それでは私はこれで……。そうそう、霧絵さんによろしく云っておいてください」


 老人はそう云うと、ゆっくりと歩み始め、山を下っていく。

 そのうしろすがたを見ながら、正樹はまだ額に汗が一滴も垂れてない事に疑問を持っていた。

 老人が降りてきた道は楽な道ではない。たとえ木立が影となり、汗を引かせていたとしても、自分同様の汗が出ていても可笑しくなかった。

 それに、老人の手にタオルなどの汗を拭うものは持っていなかった。

 その不可解な現象に、正樹は首を傾げながら、山を登り始めた。



 耶麻神邸の中は至って普通のはずだった。

 霧絵は自室で起きてはいるが、上半身を起こし、下半身は布団の中。目の前に小さなテーブルを出し、その上に昼食が置かれている。


「母さん、そろそろ瀬川さん来るよ?」

部屋に入ってきた春那がそう云うと、「そう、それじゃお迎えの準備をしなきゃね……」


 立ち上がり、着物の入った桐箪笥から黒の生地に揚葉蝶が描かれた布を取り出し、それを羽織る。


「確か、前に誰かの結婚式の時もそれ着てたよね?」

「これはね、大聖さんがくれたものなの」


 また惚気話だ……と、春那は溜息を吐く。


「で、それも意味があるんでしょ?」

「確か、揚葉蝶は闇を照らすからって意味みたいよ」


 全く持って意味がわからないが、まぁ真っ暗なところに綺麗なものがあるのは、おもむきがあっていいのかもしれない。


「それじゃ、私は仕事があるから……。澪さん、瀬川さんが来たら呼んでください」


 廊下の掃除をしていた澪にそう云うと、“了解”した風に頷いた。

 それから霧絵の着替えは終え、身嗜みを整えている時だった。

 庭の方で、タロウ達が騒ぎ出していた。



 耶麻神邸の前には小さな祠がある。

 それは大聖が知り合いの神主を呼んで、小さなお稲荷さんを祭っているに他ならないのだが、大聖はそれを金鹿之神子が祭られていると姉妹達や使用人達に話している。

 勿論本当の事を知っているのは霧絵だけであった。


 そもそもお稲荷さんは“商売繁盛”の神様として有名なので、耶麻神旅館の事を考えるとあながち間違ってはいない。

 それがどういうわけかさびれているし、奇妙なお札で封をされている。

 それはこの祠に“カミサマ”が祭られていると考えたある使用人がやった事なのだが、その二日後にそれを発した使用人が亡くなっていた。

 それを恐がり、誰も扱おうとはしないが、本当の事を知っている霧絵だけは毎朝、体力作りの運動から戻る度にこの祠に手を合わせていた。

 ――そんな祠を一瞥し、正樹はゆっくりと門の前で深呼吸をすると、チャイムを押した。


「はい。どなたでしょうか?」


 声からして相手は小さな女の子だった。

 歳とは違う丁寧な口調なのだが、どこかあどけなさも入っていた。


「あの、今日からここで働かせていただきます。瀬川正樹と申しますが……」


 正樹がそう云うと、インターホンから“ガタン”と何かが落ちる様な音が聞こえた途端、ドーベルマンの泣き声が聞こえ出した。

 そして小さく玄関の戸が慌しく開いた音が聞こえると、そのすぐ後に小さな影が門を開け……。


「――わっ!」


 開いた時には影がもう一つ増えていた。

 突然抱き付かれ、バランスを崩した正樹はそのまま仰向けになる。

 自分に抱きついているのは、小さな女の子と中学生くらいのまだ幼さが残る少女が泣き崩れたような表情でジッと正樹を見ていた。


「お帰りなさい……」


 それは秋音と冬歌のどちらが言ったのかはわからないし、若しかしたら二人同時に言ったのかもしれない。

 その涙混じりの声は本当に待っていた様な、そんな感じだった。

 ただしそれは当の二人はおろか、正樹に至っても意味がわからないものだった。

 何故そんなことを言ったのか、呆然とする正樹の頬をクルルが舐め、漸く気が付いた。


「えっと…… どこかであった事があるのかな?」


 正樹がそう尋ねると、二人も驚いた表情を浮かべる。そして秋音は頬を赤らめ視線を合わせないようにするが、冬歌は笑みを浮かべ再び抱き付いていた。


「ほら、冬歌! 瀬川さんは今着たばかりで疲れてるんだから」


 秋音はそう云いながら、冬歌を正樹から離そうとする。


「やぁだぁ! もうちょっとだけギュッとする!」

 と、駄々をこねる冬歌は力強く正樹に抱き付く。


 本当は自分も同じ事をしたいのだが、歳相応の恥ずかしさもあってか、秋音は何とも云えない複雑な表情を浮かべていた。

 途端タロウが吠えると、冬歌はピクッと肩を窄め、手を離した。


「ほら、タロウが嫉妬してるんだ」


 秋音が笑いながらそう云うと、タロウは外方そっぽを向き、屋敷のほうへと入っていく。


「あ、タロウ待って……」


 冬歌が後を追うのを見守りながら、秋音は正樹のスポーツバックを手に取り、それを運んでいく。


「あっ……」

「改めてお待ちしておりました。どうぞこちらです」


 秋音に案内され、正樹は門を潜った。

 門から玄関へは置石が置かれている。元々は霧絵が礼服で外出する際汚れないようにするためなのだが、それをひょいひょいと冬歌が飛び遊んでいた。


「そういえば、門の前に小さな祠があったけど、あれはなんなの?」

「あれですか? あれは“カミサマ”が祭られているらしいです」


 秋音の返答に正樹は首を傾げた。

 勿論祠は神様が祭られているものだから間違ってはいないが。


「でもあの“カミサマ”はみんなが云うほど恐くないんです。ううんずっと前から知ってるような……。さっき私と冬歌が、瀬川さんがきたってわかった途端、いてもたってもいられなくなるような……」


 秋音は自分で何を云ってるのだろうかと思い、言葉を止めた。


「すみません。何か変な事云ってしまって」

「ううんいいよ。僕もここに来る時、みんなに早く逢いたいなって思ったからね……。僕も秋音ちゃんやみんなの事を何故か知ってるんだ」

「それは多分、タロウ達も一緒だと思います。だってタロウが一回も吠えませんでしたから……」


 秋音はそう云うとゆっくりと正樹の方を見直し、「これは多分私の言葉ではないかもしれませんが、“また逢えて嬉しいです”瀬川さん」

 と、笑顔を向けた。


 「ただいま……」


 その笑顔に答えるように、返事を返した。


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