「……君なら、耐えられると思って」
「君なら、耐えられると思って」
彼の口から零れ落ちた言葉は、冷え切った朝の空気に白く濁って消えた。
その瞬間、私の中で何かが、ぷつりと音を立てて千切れた。
婚約者の滝口蓮と付き合って3年。彼はいつも、私の強さを都合のいい盾にしていた。
母親からの過度な干渉、妹がやらかした借金の肩代わり、デートのドタキャン。トラブルのたび、蓮は私の手を握り、情けない眉を下げてこう言ったのだ。
『真由はしっかりしているから。君なら耐えられるよ』
カフェのテラス席。目の前のアールグレイはすでに冷めきり、独特の渋い香りが鼻腔を突く。スプーンがカップに当たる、カチンという乾いた音がやけに大きく響いた。
「どうして黙ってるの? 今回も母さんは悪気がないんだ。ただ、結婚式のドレスは地味なものにしてほしいってだけで……」
蓮の声が、ひどく遠くで聞こえる。
視界に映るのは、彼の高級そうなウールコートと、身勝手な安心感に満ちた瞳だけ。
私の心臓は怒りと悲しみで早鐘のように打っていた。指先は氷のように冷たく、膝を握りしめる爪が布地越しに皮膚を強く圧迫している。痛い。でも、それ以上に胸の奥が、焼け付くように熱かった。
「蓮」
低く、掠れた声が出た。
「え? なに?」
「私、もう無理。耐えられない」
蓮は一瞬、きょとんとした顔をした。それから、へらりと笑った。
「またまた。真由、冗談はやめてよ。君はそんなにヤワじゃないだろ?」
その笑顔を見た瞬間、彼への愛情すべてが砂の城のように崩れ去るのが分かった。胃の奥から、酸っぱい嫌悪感がこみ上げてくる。
「冗談じゃないわ。私は生身の人間よ。痛いし、傷つくの。それをあなたが『君なら耐えられる』って呪いで縛り付けて、自分の身勝手から目を背けてきただけ」
「真由、落ち着いて、声が大きいよ……!」
蓮が慌てて周囲を見回す。その、どこまでも自分本位な保身が、私を完全に冷めさせた。
「婚約は破棄します。これ以上あなたといたら、私は私の心を取り戻せなくなる」
ガタタと椅子を引く音がテラスに響く。
蓮は目を見開き、凍りついたように私を見上げていた。
席を立ち、一歩を踏み出す。背中に届く「真由! 待ってくれ!」という声を、私は完全に無視した。
店を出ると、冷たい冬の風が私の頬を強く叩いた。でも、不思議と寒さは感じない。肺いっぱいに吸い込んだ冷気が、泥のような澱みを洗い流してくれるようで、ひどく心地よかった。
私の涙は、1滴もこぼれなかった。




