第49話「失うことの恐怖」
クロードは翌朝も屋敷にいた。
普段なら影のように消えてしまうのに。壁の向こうへ、天井の暗がりへ、気配ごと溶けるようにいなくなるのに。今朝のクロードは食堂の隅に座って、冷めた紅茶を前に動かない。
糸の張力が昨日より弱い。まだ繋がってはいる。身体の各所に結ばれた糸が微かに脈打っているのを感じる。けれど操ろうとはしてこない。
私は自分の足で歩いて、彼の向かいに座った。椅子を引く動作に抵抗はなかった。
「昨夜の続きを聞かせてください」
クロードの紫の瞳が持ち上がる。目の下に薄い隈ができている。人形師は眠っていないのだろう。銀色の髪が乱れていて——整えることすら忘れている。
「続きなどない」
「あります」
テーブルの上に置かれた自分の両手を見る。手首に巻きついた糸が、朝の光の中でぼんやりと発光していた。
「母の代わりに私を人形にした。永遠に壊れないように。永遠に失わないように。——でもそれは、私のためではなかった」
「当然だ。お前のためなどと言えるほど、俺は厚かましくない」
「では誰のためですか」
クロードが紅茶の杯に目を落とす。液面は琥珀色で、そこに映る彼の顔は歪んでいた。
「怖かったのだ」
聞き間違いかと思うほど小さな声だった。
「お前の母が死んだ夜——手の中に何もなくなった。糸が全て垂れ下がって、どこにも繋がっていなくて、俺の手だけが宙に浮いていた」
右手を持ち上げる。クロードの五本の指は細くて長い。人形を操るために生まれたような手。その指先から糸が伸びている。私へ向かって。けれど今は力がなく、重力に従って垂れている。
「人形師は糸で繋がっていなければ何者でもない。人形がいなければ、俺はただの——」
言葉を探している。見つからないようだった。
「手放したら壊れる。お前の母がそうだったように。俺の手を離れた瞬間に壊れる。だから手放せない。手放してはならない」
テーブルの向こうで、クロードの肩が微かに震えていた。恐怖。支配者の仮面の下にあったのは、底知れない恐怖だった。
失うことの。
手放した先に何も残らないことの。
「壊れませんよ」
自分の声に驚く。穏やかだった。怒りでも、恨みでもなく。
クロードの目がこちらを見る。
「壊れても、自分で立ちます」
紅茶の表面が揺れた。テーブルに伝わる振動。クロードの手が震えている。
「立てるものか」
声が裏返っている。
「お前は知らないのだ。糸がなくなった身体がどうなるか。支えを全て失った人形が——どれほどあっけなく崩れるか」
「知っています」
前世の記憶が呼応する。完成した球体関節人形からゴム紐を抜いた時の、あの瞬間。各パーツがばらばらと崩れ、テーブルの上に散らばる。頭が転がり、腕が落ち、脚が離れ——人の形を保てなくなる。
「人形はばらばらになります。ゴム紐がなければ」
クロードの表情が強張る。
「でも」
テーブルの上に置いた自分の手を、ゆっくりと握り締める。指が掌に食い込む痛み。確かに私の痛み。
「私は人形ではありません。骨があり、筋肉があり、腱がある。糸がなくても関節は外れない。立てなくなっても、這って進める。這えなくても、息をしている限り——私は壊れない」
クロードの瞳が見開かれている。紫の虹彩の中に、私の顔が映っていた。
「お前の母は」
「母は母です。私は私です」
遮った。意識してそうした。
「母が壊れたのは器の負荷のせいです。あなたが手放したからではない。あなたが握り続けたから——逃げ場を失って、壊れたのです」
紅茶の杯が、かたりと鳴った。クロードの指が杯に当たった音。無意識の動きだったのだろう。人形師の手が——操る側の手が、制御を失っている。
長い沈黙の後、クロードは杯を押しやって立ち上がった。椅子が床を擦る音が食堂に響く。
「……七つの結節点を、解くつもりか」
背を向けたまま、問いかける。
「はい」
「壊れるぞ」
「壊れません」
クロードの背中が、朝の光の中で一瞬だけ揺れた。振り返りそうになって、やめて——そのまま食堂を出ていく。
残された紅茶は、もうすっかり冷え切っていた。指先で杯に触れると、陶器の冷たさが皮膚を通して骨まで届く。




