第31話「心理戦の夜」
夜が深まるほど、糸の気配は濃くなる。
窓は閉め切ってあるのに、カーテンの裾がかすかに揺れていた。風ではない。空気そのものが震えている——クロードが近くにいる証拠。
右手の薬指がぴくりと跳ねた。
来た。
皮膚の下を這うような微細な振動。前世で人形の関節にゴム紐を通した時の感触を知っているからこそ分かる——外側から加えられた力だ。
私は右手を左手で押さえつけ、歯を噛み締める。舌の奥に血の味が広がる。薬指に続いて中指が震え出す。夜のうちに身体を奪おうとしている。
けれど今夜、私は眠らない。
「やあ、起きていたのかい」
声は壁の向こうから——いいえ、もっと近い。糸を伝って骨の奥に直接響く声。
「起きています。もう知っていますから」
返事をすると、糸の振動が一瞬止まる。操り人形が操り手に言葉を返すことは、想定されていない。
右肩がぐん、と引き上げられる。指先のような繊細さではなく、肩関節ごと持ち上げようとする力任せの牽引。
「素直に眠ってくれれば、痛みはないのだけれど」
「痛くても構いません」
左手の爪が右手の甲に食い込む。前世の知識が頭の中で回る。球体関節人形の操作は支点を制する者が全体を制する。肩を取られたら腕が動く。逆に言えば——支点さえ守れば末端は自由になる。
全身の力を肩に集中させ、引き上げられた肩を押し下げる。筋肉ではない。もっと深い場所——魂の関節とでも呼ぶべき場所で、糸の力に抗う。
「……ほう。抵抗できるようになったのかい」
「これは私の身体です」
「そうだね。君の身体だ。俺が十七年かけて調律した、最高の楽器でもある」
糸の振動が変質する。力任せから精密な操作へ。指先から手首、手首から肘と順番に引かれていく。「自分で動いている」と錯覚させる操り方。
「クロード。なぜ今夜なのですか。私が糸の構造を調べていることを、知っていますね」
長い沈黙。やがて乾いた笑いが糸を伝って届く。
「調べればいいさ。結節点も、魂の接続構造も。——でもね、お嬢さん」
肩の糸が、ふっと緩む。
「知ることと断つことは別だよ。知識では糸は切れない。お前にその覚悟があるかどうか——今夜はそれを確かめに来ただけだ」
声が遠ざかり、糸の振動が消える。部屋に静寂が戻る。
掌を開くと、左手の爪が作った三日月形の傷から細い血が滲んでいる。
覚悟があるかと問われた。この痛みは紛れもなく私のもの。操られた痛みではない。自分で選んだ痛み。
——ある。覚悟なら、とうに。
窓の外で何かが軋む音がした。朝まで、まだ遠い。




