第五話:決意の夜逃げ。……さようならギルベルト様、本当の幸せを掴んでください
「どうすればいいんだろう……」
夜の深い静寂が満ちる離宮の自室で、私は一人、鏡の前に立ち尽くしていた。
マリアンヌ様の言葉が、まるで解けない呪文のように頭の中で何度も反芻される。
――『彼は今、愛する人を捨て、心を殺して貴女に傅いているのですよ』
部屋の隅に積まれた、山のような贈り物の箱。
もしあれらが本当に私のためではなく、別の愛する誰かのために、彼が何年も前から大切に用意していたものだったとしたら。私の好みを完璧に把握していたお茶会も、優しく触れるエスコートも、すべては高潔な騎士としての「自己犠牲」と「義務」だったのだとしたら。
(そうよね。あんなに素敵な人に、想い人がいないはずがないもの……)
ドレスのサイズが驚くほどぴったりだったことも、中身が私の好みばかりだったことも。今の私の歪んだ思考は、それらを「偶然の一致」や「優秀な騎士としての徹底したリサーチの結果」だと決めつけて、無残に切り捨ててしまう。
ギルベルト様が魔物討伐から戻ってくるまで、あと二日。
迷っている暇はない。私がこのままここにいれば、彼は一生、自分の心に嘘をつき、愛の仮面を被って生きていかなければならないのだ。
「……これだけは、置いていけないわ」
私はドレッサーの上に置かれた宝石箱の中から、震える指で一つのネックレスを手に取った。
部屋を埋め尽くすほどの宝飾品の中で、それだけは彼が直接、私の首にかけてくれたものだった。
『殿下の瞳と同じ色でよかった。大きい石でなくて申し訳ないのですが、たまたま宝石店で見つけたので買い求めたんですよ』
そう言って、少しだけ照れたように、はにかんで笑っていた彼。
他の豪奢な品々に比べれば控えめなその小さな宝石は、けれど、間違いなく「私の瞳の色」を見て選んでくれたものだと思いたかった。
私はそのネックレスをそっと首にかけ、服の下に隠すようにして胸元に抱いた。肌に触れた冷たい宝石の感触が、今はひどく刺さるように痛い。
机に向かい、震えるペン先を走らせる。
書かなければならない手紙は、二通だ。
一通はお父様へ。婚約破棄を認めてほしいという、出来の悪いわがままな娘としての、最後のお願い。
そしてもう一通は――たった数日で、どうしようもなく愛してしまった彼へ。
『ギルベルト様。あのような事故から、私なんかと婚約させてしまい、本当に申し訳ありませんでした。……私は身を引きます。どうかこれからは、貴方が心から想い寄せていらっしゃる、本当の大切な方とお幸せになってください』
――ポツリ、と。
白い便箋に、小さな染みが広がった。インクの文字が、わずかに滲んで歪む。
「あれ……? 私、泣いてる……?」
一粒落ちれば、あとは決壊したように止まらなかった。ポロポロと、雨だれのように涙が手紙を濡らしていく。
いつの間にか、私は自分が思っていた以上に、彼のことが好きになっていたのだ。
「優しくされて、好きになるなんて……私って本当に、現金で馬鹿な女だわ……っ」
脳裏によぎるのは、温室で彼が見せた、あの子供のような純粋な笑顔。
『大好きですよ』と囁いてくれた、甘い声。
思い出すだけで、胸が八つ裂きにされそうに痛む。
けれど、彼を「責任」という重い鎖から解き放てるのは、原因を作ってしまった私しかいない。
「……よし」
私は両手で涙を乱暴に拭うと、顔を上げた。
王女の豪奢なドレスを脱ぎ捨て、平民が着るような地味な色合いの外套を羽織る。最小限の路銀と荷物を詰めたカバンを肩にかけ、夜風が吹き込むバルコニーへと足を踏み出した。
「私がここに残っていては、皆が不幸になってしまうもの……! ギルベルト様、どうかお幸せに。……さようなら」
私はバルコニーの冷たい欄干に手をかけ、目を閉じて『緑の手』の魔力を指先に集中させた。
パァッ、と淡いエメラルドグリーンの光が夜の闇に灯る。
足元の庭園から伸びた太いツタが、まるで意志を持つようにバルコニーへと絡みつき、王宮の壁を静かに伝い降りる「緑の階段」を作り上げた。
こうして、すべてを誤解したままの私は、暗い夜の底へと逃亡を図ったのだった。




