第四話:偽りの真実と、女神の涙。――愛する人がいるのなら、私は身を引くべきでした
幸せな時間というものは、なぜこうも脆く、手の中からこぼれ落ちてしまうのだろうか。
あのお茶会から数日後。ギルベルト様は隣国境に現れた強力な魔物討伐のため、急遽、精鋭騎士団を率いて王都を離れることになった。
「三日。……いえ、不眠不休で二日で終わらせて戻ります。私が離れている間、どうか健やかでいてください」
出立の朝。彼は鎧姿のまま私をきつく抱きしめ、まるで自分自身の魂の一部を置いていくかのように、私の額に切ないほどの口付けを残して旅立っていった。
彼がいなくなった途端、離宮は驚くほど静かで、ひどく広々として、少しだけ……いや、とても寂しく感じられた。
(私、いつの間にか……あの方と一緒にいるのが、すっかり当たり前になっていたんだわ)
自分がどれほど彼に惹かれているか、その輪郭をはっきりと自覚して、胸の奥がくすぐったいような、少しだけ浮足立った気持ちになっていた午後のことだった。
離宮の庭で一人、彼が贈ってくれた最新の農具を手に、花壇の手入れをしていた私に、背後から鋭い声が投げかけられた。
「――あら。王女殿下ともあろうお方が、相変わらず泥遊びに精を出していらっしゃること」
振り返ると、そこには見事な縦ロールの髪を揺らし、扇を片手に傲慢な笑みを浮かべる令嬢が立っていた。高位貴族の娘であり、王宮の行事手伝いとして頻繁に出入りしているマリアンヌ様だ。
「マリアンヌ様。……何かご用かしら?」
「ええ。あまりに殿下がお可哀想で、真実を告げに参りましたの。……あの完璧なギルベルト様が、なぜ貴女のような方に、そこまで献身的に尽くしていらっしゃるのかを」
真実。
その冷たい響きに、私の胸がドクンと嫌な音を立てた。
「彼は責任感の塊ですもの。不可抗力の事故であっても、王女殿下の唇を奪ってしまったとなれば、愛していなくとも『一生を懸けて贖う』とお決めになるのは、清廉な騎士として当然の振る舞いですわ。……たとえ、他に真に愛し合う婚約者がいたとしても」
「……えっ? 真に、愛し合う……?」
「ええ。私とギルベルト様は、家同士で将来を誓い合っていたのです。あの忌まわしい夜会の事故さえなければ、今頃私たちは正式に結ばれていたはず。……彼は今、愛する人を捨て、己の騎士道と王家への忠誠を守るために、心を殺して貴女に傅いているのですよ」
(嘘……。でも、あの方は確かにあの時『責任をとる』と最初に言ったわ)
血の気が引いていく私を見て、マリアンヌ様は追い打ちをかけるように歪な笑みを深めた。
「彼が馬車五台分も運ばせたというドレスも、宝石も。……あれは全て、本来なら私に贈るはずだったもの。彼は貴女に贈り物をするたびに、私を思い出して胸を痛めていらっしゃる。ユーフェミア殿下、貴女は『責任』という呪われた鎖で、国の英雄の心を殺しているのだと……どうかご自覚なさいませ」
マリアンヌ様が扇を翻して立ち去った後も、私は冷たい石畳の上に立ち尽くしていた。
頭の中を、彼が温室で見せてくれたあの『天使のような笑顔』がよぎる。
(あの笑顔も……私に「大好きだ」と言ってくれたあの声も。全部、私を傷つけないための『完璧な演技』だったの……?)
私の胸の中で、最悪の辻褄が合ってしまった。
一晩で馬車五台分もの品物を用意できた理由。それは、彼が心から愛する女性のために、何年も前から少しずつ買い集めていたものだったからだ。
あんなに優秀で優しい彼が、自分の人生を犠牲にして、責任感ゆえに愛のない結婚をしようとしている。私を喜ばせるために、無理をして美辞麗句を並べて、心の中では血の涙を流しているのだとしたら。
(……駄目だわ。そんなの、あんまりだわ)
彼を、自由にしてあげなきゃ。
私がここにいて、彼からの施しを受け入れ続けていたら、彼は一生、自分自身に嘘をつき続けなければならない。私の存在そのものが、愛する人を苦しめる檻になってしまう。
カラン、と。
私は震える手から、泥に汚れたシャベルを落とした。
視界が、ポロポロと溢れ出す涙で歪んでいく。
(ギルベルト様……。ごめんなさい。私、貴方のことが大好きだから。……だから、もう貴方を縛りたくないの)
身を切られるような絶望と、彼への深すぎる愛情。
私は、彼がいないこの二日の間に、すべてを終わらせる決意を固めた。
本当の愛する人の元へ、彼を返すために。




