2030/8/15 悠真(2)
今日、職場で慣れない席に座らされたときでさえ、ここまで落ち着かない気持ちにはならなかった。
彼女の部屋の椅子に座っている今の方が──
「一ノ瀬さん、一応。洗面所はあちらなので、ご自由にどうぞ」
氷を入れたステンレスタンブラーを手にした結月さんが、ランチョンマットを敷きながら言った。
「あ、はい、じゃあ……手を洗わせてもらおうかな。」
立ち上がったものの、結月さんに一応聞いておくことにした。
「お邪魔してから何ですが……結月さん、恋人とか、ご主人とか……大丈夫?」
彼女の動きが一瞬、止まった。
数秒の静止のあと、笑みを取り戻し、返事が返ってきた。
「あっ、はい、大丈夫です。私、2030年に来たって分かった瞬間、真っ先に確認しました。もし家庭があったらどうしようかって」
「分かる。俺も真っ先に確認した」
「……いなくて、正直ホッとしました。でも、31歳で恋人もいないっぽくて、ホッとしていいのかって思ったり」
同感とうなずいた。そうか、今はその人とは付き合っていないのか。
やがてテーブルに並んだのは、電車に乗る前に調達したテイクアウト。
「一ノ瀬さん、ケールサラダ?なかなかのヘルシー志向ですね」
「いや、急に33歳ともなると控え目にならざるを得ない」
「そうでしたね、私も31……今日だけ好きなもので」
彼女のトレーは肉とデザートで埋め尽くされていて、思わず笑ってしまう。意外な一面さえ好まし……やばい、今、俺は何を?
俺は自分に言い聞かせる。タイムリープした者同士、良き理解者としてやっていく。
恋愛関係とかでなく。同じ轍は踏まない。それでいい。
そう、思っているのに──
彼女との食事は移動中同様に楽しかった。
彼女はKAIのファンだと言った。
「今朝一度だけ見たジュエリーのCMは、KAIである必然を感じる美しいCMだった」と彼女は目を輝かせて俺に言った。
そんな風に感じてくれる人がいたなら制作者冥利に尽きるというものだ。
めちゃくちゃ嬉しかった。
「CMって商品以上にCMそのものが話題になることもあるし、誰にでも忘れられないCMがあったりしますよね。すごいですね、一ノ瀬さんはそういう世界にいるんですね」
出会って短い時間で彼女から出る言葉は何度も俺の心をゆさぶった。
これは危険だと、心の奥で警告音が鳴っている。
俺は、彼女にもっと、俺を知って欲しいと思ってる。
俺はどのCMを作ったとか友人にも言わないし、パーティや飲み会で会った女の子には絶対に言わない。
芸能人に会えるのかと、その一点にしか興味を寄せられないことにうんざりしているから。
でも彼女になら──
おいおい、せこい手を使うもんだと思う。アプローチしないという決意はどうした?と自ら突っ込んでも何の制御力にもならなかった。
「実は、俺がKAIのあのCMを手掛けたんだ。今日、2025年の今日だけど、オンエア初日でさ。街の人の反応が知りたくて9時からあそこで見てたんだよね」
と話すと結月さんは手からポロリと箸を落とした。
それから彼女の目から涙が一つ溢れた。
「ええぇ、なん……何で涙?ごめん、何か嫌な思いさせた?!」
「あれ、いや、違うんです、良かったと思って。2025年ではあのCMが生きているんですよね」
俺は彼女がポツポツ話すのを聞いて、あっさりと何かが崩れた気がした。
「あんなに素敵なCMを作った人がいるなら、幻じゃないんだと思って」
あぁ、俺は同じ轍を踏むのか?
よき理解者でいるとか、多分無理だろうという予感がした。
ここに向かう道中、電車を降りてから、歩きながら結月さんは言った。
「2025年ではまだリリース前だったんですが、私、LYNXっていう未来予測AIの開発に関わっていて。うちに来てもらうの申し訳ないんですけど、その未来予測のデータをちょっと一ノ瀬さんに見て頂きたくて」と結月さんは言った。
LYNXという言葉に胸がざわつくのは三神から聞いた失恋話のせいだろう。
「LYNXって従来のAIの予測とは何が違うのか聞いても?」
「もちろんです、AIって最適解を出すのは得意なんです。例えば、本当に例え話ですよ?
私の前に二人の男性がいて、どっちも性格も容姿もドンピシャで、好みの男性二人にプロポーズされとします。片方は年収1億、片方は年収100万です。」
「1億を取られたら俺なら諦めるよ」
冗談めかすと結月さんは俺の腕を軽くバシっと叩いた。
つい、という感じの反応だった。
「たとえ話ですってば!で、AIにどちらがいいか相談したら、AIはおそらく年収1億の人をいい条件の結婚相手として選ぶと思います」
「そう思う、正解」
もう、と彼女が笑う。
「でも人って目に見える条件では割り切れないときがありますよね。年収100万でも長い付き合いがあったり、自分がいないとこの人はって思ったり。数字や条件だけでは割り切れないのが人間、非合理の選択をするときもあるのが人間だと思うんです。私はそれを感情のゆらぎと呼んでるんですが、それをAIに与えました。」
「与えました、結月さんが?」
三神が言ったLYNX開発のブレイクスルーっていうのはこのことだ。
実は社内報の対談を読んでその部分は知っていたけど、とっさに初めて知ったふりをした。
見た目からは想像もしなかった偉業を成し遂げた人。
それだけの才能があふれているからこそ、俺は交差点で見かけるたびに目を引かれたのかもしれない。
「それ自体はLYNXのピースの一つに過ぎないので大したことじゃないんですよ」と言ったけど、AIが人の心の弱さを修得したなら大きな革命だろうと思う。
「未来を予測するっていうのは予知ってこと?」
結月さん曰く──
1億個の数の足し算があったとして、答えは最初から“存在”している。でも、人が計算するには時間がかかる。式が存在した時から答えも存在している。人の未来もそう。それを瞬時に教えてくれるのがLYNX。しかも、その数の一つ一つが自分の感情とか自分に関係のある人や仕事、災害や環境だとしたら、計算の途中で変わってしまうことがある。
こうですと一つを提示するなら予知だけど、LYNXはそうじゃない。その揺らぎごと予測し、幅を持たせて未来を提示するのだと言った。
彼女の作ったLYNXがかつて俺の失恋を予測してその通りになった。
今ならどうなんだろう。
これは体の記憶なのか、体の芯からスッと冷たくなる感じがした。
怖くて試してみたいという気持ちにはとてもなれなかった。