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最後の海 5

   5


 誠二は助手席に息子の朔太を乗せて車を走らせていた。

 海へ行く。

 朔太が生まれた翌朝のまだ夜明け前、一人、歓喜を爆発させたあのビーチだ。あれから七年が経った。赤くて皺々していた嬰児が、今やいっぱしの男児となり、いや、もしかしたらいっぱし以上の男児になり、フロントグラス越しに静かに街を見ている。成績はクラスでトップ、分別を弁えた子供。

 離婚が決まり、翌々日には妻と朔太は日本に帰る。帰国後はもう、妻の承諾なしでは朔太に会うことが出来なくなる。そういう約束をさせられた。念書まで取られた。それほどに妻との関係は冷たいものになっていたけれど、少なくとも表面上、朔太が自分を嫌うようにはならなかった。そこは妻に感謝しなくてはいけないのかもしれない。朔太はまだ七歳で、ワークホリックな父親と過ごす時間などほんの僅かで、いわば「母子家庭」だった。つまりは、夫が不在の家庭においても、妻は朔太に夫の悪口を吹き込みはしなかったということだろう。離婚に当たって、朔太は当然のように母親と行くことを望んだとはいえ、だ。

 ただ、朔太については、気になっていることがあった。もう随分前から、朔太ははしゃいで見せることがなくなった。しずかな目をした、しずかな子供。夫婦間の不和――家庭内で怒鳴り合うような場面こそ無かったけれど、会話もなく、それこそしずかな、冷たい形での不和――が影響したのかもしれない。そうでないのかもしれない。息子と過ごした時間の少ない誠二には分からない。

 離婚が決まっても朔太は変わらないように見える。妻はといえば、漸く、という安堵感と解放感に浸っているようだ。関係を築いていく時には、一段上がるごとに手触りがある。失われていく時に、そんなものはない。気がつくともう、戻り方が分からなくなっている。

 家族の中で、惜別と後悔の念を抱いているのは自分だけかもしれない。なぜ、早い段階からもっと妻と話そうとしなかったのか。朔太との時間を作らなかったのか。

 仕事が忙しかったせいだけじゃない。妻に対しては、逃げていたかもしれない。いや、逃げていたのだろう。朔太に対しては――、成長していく息子の変化に、ちゃんと追い付けていなかったような気がする。いつも自分はズレていた。たまに二人でいても、どこかチグハグで、どうしたらいいのか分からなかった。ズレは収束することなく、逆に大きくなっていった。

 ビーチの駐車場は空いていた。車を降りると、海からのひんやりとした風が刺さる。

 晩秋だった。泳いだり水遊びしたりできるような季節ではない。誠二が先に立ち、そこから半歩ほど遅れて朔太がついてくる。

 砂浜に降りると、踏む端から靴がわずかに沈み、足を取られるような感覚。波打ち際まで、散歩する近所の住人や、街から来た恋人たち、友人同士の姿が、疎らに散らばっている。西海岸らしい空の高さと青さ、波頭がチラチラと陽光を跳ね返して美しいけれど、夏とは異なる寂しさがある。いや、それは、見ている人間の心情を映しているだけかもしれない。

 背後の気配が遠のいた気がして振り返ると、やはり朔太との距離が少し開いていた。朔太の、砂が靴に入ることのないように用心深く足を進めている様子が見えた。誠二は、成人してからも随分の間、海となると靴を脱いで駆けだしていた。朔太は自分とは異なる人間なのだ。

 朔太が追い付くのを待ち、誠二は尋ねた。

「海はあんまり好きじゃないか?」

「うーん、砂が入るし、それに、海の水も潮風もベタベタするから」

「そうか」

「うん」

 それで朔太は、すまなそうに下を向いた。そんなことも知らないでいたのか、と誠二は自分に呆れた。それでも年に二回は家族で旅行をした。行先は妻と朔太が決め、いつまで経っても英語に馴染めない妻に代わり、誠二が宿などの手配をした。思い返してみれば、行先に海が入っていたことはなかった。

「ほかのところに行けばよかったかな」

 誠二ががっかりしたのが分かったのだろう、朔太は微笑んで見せ、とりなすように言った。

「でも、海の青い色は好きだよ。だから海に入らないで、少し離れて見るのは好き、かな」

「うん、そうか。じゃ、遊歩道まで戻ろうか」

 それで二人、舗装された遊歩道に向かって砂浜を斜めに戻る。今度は朔太のペースに合わせてゆっくりと。朔太が話し掛けてくる。

「青は全部好きだけど、でも海って、いろんな青があるよね、父さんはどんな青が好き?」

 誠二はそれでこれまでに見てきた海の青を思い起こしてみた。

 瀬戸内、カリフォルニア、シンガポールやタイでも時間があると海を見に行った。南海のリゾートのようにとんでもなく美しいビーチもあるけれど、そういう特別な場所でもない限り、結局は場所というよりは、時間と天候によってこそ色は大きく変わるように思える。そして、自分が好きな海の青は。

「夜明けの前後の、海や空の青だな」

「夜明け前は真っ暗?」

「真っ暗だよ。そこから、太陽が昇ってくると、だんだんに色が出てくる。ここでは海は西向きだから、太陽はこっち、街の方から昇る。東の空からまずじわじわと明るくなってきて、それが西の空や海にも滲むように投影されて、やがて太陽が海を照らす。その時間は、薄明、薄い明るさって書くんだけど、美しいだけじゃなくて神聖な感じがする。色もだよ。神聖な青だ」

 思い出していたのは、朔太が生まれた翌朝の薄明。思わず力が入っていた。朔太はやや気圧されるような表情を一瞬見せ、でもすぐにそれを消し、

「僕もいつか、見てみたいな」

 どこまで本心か分からない、そんな感想を漏らした。離婚前なのに、離婚して久しぶりに会った父子のように、ぎこちない。自分のせいだ。全部、自分のせいだ。そしてもう、取り戻せない。妻は帰国してしまったら、誠二と朔太の面会を簡単には承諾しないだろう、そういう予感があった。

「見せてやればよかったな」

「仕方ないよ、仕事してたんだし」

「でも」

「でもも何も、だってもう仕方ないじゃない」

 朔太は少しだけ強い眼差しを誠二に向け、同じく少しだけ強い口調でそう言った。

 そうだ、もちろん、朔太は怒っているのだ。だって、朔太には何の落ち度もない。そして彼に出来ることと言ったら、「仕方ない」と言うだけなのだ。

「ごめん」

 謝る誠二に朔太は、

「いいよ。いいんだ、もう」

 宥めるように微笑んだ。

 遊歩道まで戻り、そこをしばらく海沿いに歩いた。会話が途切れる。空いたベンチがあり、二人、腰かける。少し離れて、遊歩道の海側にアイスクリーム・カートが見えた。

「アイス、食べるか?」

「そうだね」

「何がいい?」

「じゃあ、チョコにする」

「わかった。ここで待ってろ」

 それで誠二はカートに小走りで向かう。

 アイスクリーム屋をやっているのは、大学生くらいの白人女性だ。どこかで見覚えがある。

「何にしますか?」

 彼女の海と同じブルーグリーンの瞳を見て、それで誠二は思い出した。

「ジェシーか!」

 ビアバーSTARGAZERで再会したジェシー、その若い頃の姿だ。名を言われて彼女は慈しむように微笑んだ。

 それはジェシーでいて、ジェシーではなかった。

 ジェシーは出会ってすぐの頃の妻になり、それから、もうとうに遺影無しでは思い出すことも出来なくなっていたはずの誠二の母の、まだ若い母の、誠二に向ける微笑みになった。

 振り返ると、ベンチで朔太が頷いていた。

 誠二を許すように微笑み、頷いていた。

 誠二の目から涙が一粒、二粒、零れた。

 朔太は許してくれるのか。

 妻も。

 看取ることのなかった母も。

 父も、兄も、みんな……。

 そうだなあ、と誠二は思った。

 勝手かもしれないけれど、やっぱり自分は、ずっとずっと、許して欲しかったのだ。

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