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最後の海 4

   4


 その夏、誠二はほとんど毎日のように、老人ホームからSTARGAZERに通った。日が暮れていき星が瞬き始めてからも少しの間、バルコニー席でビールを飲む。自分にとって最後の夏になると分かっていた。

 店はいつも空いていた。他に客は、いてもせいぜい数組というところで、経営が心配になったが、ジェシーは「お金の問題ではないの」と笑った。これは何度も彼女と話すうちに分かってきたことだが、彼女は地元のカレッジを卒業後、スタンフォードに進んでそこで同級生たちといわゆる「ガレージベンチャー」を起業、その会社を巨大IT企業に売り抜けて日本円にして十億単位の資金を得ていた。

 そこからは、世界中、彼女が縁を得た各地で地元のクラフトビール・メーカーと組み、趣味の店を出しているのだという。

「どうして日本ではこの場所に進出したの?」

 ビールを飲みながら誠二が尋ねると、

「安河内さんのこと、ご存知ですよね」

 とジェシーが聞いてきた。

「安河内って、……あの頃、T社の駐在員だった安河内さん?」

「ええ、そうです」

「知ってるけど、彼、随分前にアメリカの企業に転職したんだよね」

「安河内さん、アメリカでいくつか転職して、最後はG社の役員にまでなったんですよ」


 当時、仕事や生き方に対する安河内の感覚は、誠二を含む他のほとんどの駐在員とは少し違っていた。誠二たちは、勤務先の看板、日本という国の看板を背負ったつもりになり、目の前のミッションを完遂することにがむしゃらであったような気がする。それに対して、安河内は良くも悪くも一歩引いて世界を見ていた。そういう態度に、誠二は苛ついたことが何度もあった。それは安河内が勤めていたT社内でも同様であったに違いない。つまりは、当時の日本の会社文化の中では、安河内は生き辛かったのではないか。今振り返れば、そう思う。

 そして、一歩引いていたからこそ、日本のIT企業が斜陽となっていく潮目を、安河内はかなり早くから察知していた。あれは、一九九四、いや九五年のことだっただろうか。誠二は既にサンフランシスコから異動してシンガポール駐在の頃で、でもサンフランシスコでもシンガポールでもなく、世界のどこかの空港で、偶然、安河内と再会したのだ。

「藤川さん、ぼく、転職しました」

 受け取った名刺には、どこにも日本語は書いていなかった。

「今の会社はね、ぼくのいたT社に比べたらほんのちっちゃな会社なんですけど、ぼくにとっては水が合うっていうのかな」

 誠二が、良かったじゃないですか、と半ば本気、半ば社交辞令的に相槌を打つと、安河内は幾分声を落として、

「藤川さん。藤川さんにはシリコンバレーでとてもよくして頂いたから……」

 そう前置きし、IT業界の現状や見通しについて語り始めた。パソコンの出現と台頭、メインフレーム・コンピュータ関連需要の相対的後退、日本企業とライバル国企業との技術の特性や収益構造、日米半導体摩擦の評価と行方……。それはつまりは、端的に言えば、日本企業はこのままではダメになっていくということだった。半分は、既に誠二自身が感じていたことが、筋道立てられ整理されて、展開された。残りの半分は、誠二には見えていない角度からの分析だった。誠二は聞きながら、ああそうだ、この男は目立つような振る舞いはしないけれど、いつも人に先んじて要所を押さえていた。優秀だと感心して見ていた。個人主義で和せず、変人だけれど、いや変人だからこそ、目のついている位置が、頭の上、二メートルあたりで、遠くが見えている、そんな印象を受けていた。だから、今のこの話もその通りなのだろう。誠二には、そう思った記憶がある。

「藤川さん、大きなお世話かもしれないけれど、あなたもこの先どうするかを、広く考えられた方がいいかもしれません。あなたなら、アメリカの企業でも引く手あまただと思います」

 それは安河内なりの親切心からの言葉だと分かった。でも、もちろん、誠二には勤め先を変える、ましてや海外企業に変えるという選択肢は、まったく無かった。

 別れ際に安河内は言った。

「そういえば、藤川さん、まだ王冠、集めてるんですか? たしか、お子さんへのお土産でしたよね」

 安河内は、誠二が離婚したことも、その後、もうずっと朔太と会っていないことも知らないのだ。

「ええ、まあ」

 立ち話で、楽しくもない経緯を話す気にならず、誠二は言葉を濁した。

「いいですよね、そういうの。ぼくは結婚したことないし、妻も子もいないから」

「いや、いたらいたで、それなりに苦労もありますから」

「まあ、そうかもしれませんね。ぼくはね、代わりに甥っ子かな。甥もね、コンピュータ系が好きみたいで、日本に戻る機会があるとよく話をします。シリコンバレーでベンチャーやりたいみたいなこと言ってますよ」

 それを聞いて、なんだ俺よりもある意味、恵まれているじゃないかと、誠二は思ったものだった――。


「実はね」

 ジェシーは海の方を見たままで言った。

「安河内さん、一昨年に亡くなったんです」

 海の彼方には、これまで出会い、先にこの世界から出て行ってしまった人たちが気儘にたたずんでいる、ジェシーはその人たちに視線を向けている。誠二には、そんな感じがした。やがて遅からず、自分もまたそこに加わる。

「葬儀は亡くなるまで住んでおられたアメリカ、S市で行われて、わたしも参列しました。そこでお会いした安河内さんのご友人がファンドで不動産投資を担当していて、日本にも不動産会社にルートを多くお持ちとのことでしたので、それじゃあと、お願いしておいたんです、安河内さんもよく通われたビアバーを日本にも出したいからって」

「縁ですね」

「はい、ご縁です。日本語の『縁』という言葉、わたしは好きです。縁って、直接見えていないところまで含めて、誰かが生きていたっていう、生きているっていう、証のような気がするんです。それでほら、繋がるでしょ、こうやって」

 二人でしばらく海と空を眺める。やがてジェシーは軽く会釈し、店に入っていく。

 誠二は一人、バルコニー席に残され、また海の先の方へと目を遣る。老人となった安河内の姿かたちを誠二は知らない。思い浮かぶのは五十前後の彼、髪はスダレ状になりつつあったけれどまだ黒々している男の姿だ。


 帰りがけ、テーブルにある王冠、STARGAZERの王冠を手に取る。来る度、一つだけ、王冠が置かれている。それを誠二は必ず持って帰る。今となってはもう、王冠を渡す相手もいないのだけれど。

 いろいろと後悔をした時期もあった。でももうすべて、去ってしまった。何もかもが去ってしまった。後悔すらも去った。ただすべての結果として自分がここにこうしている、それだけのことだ。たしかに時々は、過去を懐かしむことはある。STARGAZERの頃を思い出すこともある。でもそれは、それだけのことだ。

 ――それでも誠二は王冠を手に取る。ポケットに入れて、部屋に持ち帰る。自分は、何かの縁を遺せたのだろうか。遺すのだろうか。


 四十三年前のあの日、オフィスに電話がかかってきて、誠二は、無事、子供が産まれたことを知った。分刻みで追われている仕事があって、オフィスから離れられなかった。ようやく病院に駆け付けたのはもう面会時間がとうに終わった夜十時過ぎで、誠二は夜間窓口の担当者を必死で拝み倒して、中に入れてもらった。

 赤ん坊は新生児室で眠っていた。明かりは落とされていて暗く、それにこんな時間では触れることも抱くことも出来なかった。赤ん坊は聖なる光に包まれているように見えた。不完全で未熟な自分に与えられた奇跡、恩寵であると思った。今までに経験したことのない喜びが、奥底からとめどなく湧いてきて止まらない。

 誠二はいわゆる葬式仏教くらいで信心など無かったけれど、無性に祈りたかった。世界中の神に感謝したかった。もうどうしていいのか分からず、看護師に退出を促されるまで、ただただそこに立ち尽くしていた。

 妻の病室にも立ち寄ったけれど、出産で疲れたのだろう、昏々と眠っていた。誠二は少しの間、妻をじっと見つめ、見守り、感謝の言葉を書いたメモをベッドサイドに残した。

 一人自宅に帰っても、深夜になっても、興奮して全然眠れなかった。この気持ちをどうしたらよいのか、扱いが分からなかった。

 海だ、と誠二は思った。

 自分はいつだって海と共にいた。海に行こう。海で、感謝をして、そして祈ろう。

 誠二は明け方前に、ガレージから車を出した。ほとんど人も車もいない、午前五時の街を中古で買っただいぶ年季の入ったトヨタが走りぬけ――、やがて海に出た。

 誠二は窓を全開にした。季節はまだ四月だったけれど、風の冷たさもまた心地よいのだ。それすら、恩寵のように思えた。

 パーキングに車を停め、鍵をしめるのももどかしくビーチへ駆け出す。夜明け前、海はまだ眠っている。それでも太陽の兆しが街の向こう側から滲み出し始めていて、それが少しずつ、でも加速しながら、空に色をつけて行く。海に色をつけて行く。それは刻々と移ろう、美しい青のグラデーションだった。

 誠二は砂浜を走り抜け、勢いそのままに海に突っ込んでいった。

 膝上まで海に入り、さすがに水は冷たく凍えるようで、でもそれは、自分が海と一体となり、世界と一体となり、新しく生まれてきた自分の息子のために道を拓いてやるという、神聖な行のように思えた。

 自分は子供の頃からずっと海が好きだった。海のそばで生まれて育ち、大人になり世界中を移動してまわるようになっても、それでもいつも海を感じてきた。海と生きてきた。

 それなのに、今ほど、自分が海と一つになったと感じたことは無かった。誠二は天を仰ぎ、ありがとう、ありがとうと何度も叫んだ――。


 あれから誠二の上を四十年以上の歳月が過ぎたけれど、もうあんな時間は二度と訪れなかった。自分はあの時、あの一瞬だけ、海と、大好きな海と、本当に一体になれた。海と、世界と、共鳴出来た。それは人生の中で、たった一瞬だけ。八十余年の歳月の中での数分間。

 ビアバーから老人ホームへの帰り、タクシーの後部座席で闇に帰っていく海を眺めながら、誠二は王冠を握りしめる。

 一日が終わっていく。空からの光は、月と小さな星たちを残して消えていき、夜が訪れる。それでも自分は、あの朝を思い出すことが出来る。

 王冠は、朔太と自分とを繋げていた王冠は、あの日、夜明けの海での喜びを、あの一瞬を思い出させてくれる。

 希望と奇跡に満ちた一瞬を。

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