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最後の海 2

   2


 窓から遠くにみえる海。そこまで行ってみようと思い立ったのは、主治医と相談して、もうつらい延命治療は止めましょうと決めた翌日のことだった。いよいよ、カウントダウンが始まる。

 治療の効果が表れなくなってきていたので、決断する日が近づいているのは分かってはいた。それでも医師との面談を終えて病院から戻るタクシーに乗ってもまだ、心拍数は下がらなかった。頭の中が、うっすらと膜がかかって鈍く痺れたような感じになっていた。

 もはや、やっておかなくてはならないことなど、何一つ無い。この日にそうなるようにして暮らしを整えてきた。それなのに。ああ、何だか痺れるなあ、……痺れる。

 誠二は丘の上、ホームの車寄せでタクシーを降り、遠く海へと視線を向けた。その瞬間に、気付いたのだ。ここの海にまだ行っていない。毎日にように眺めて暮らしていて、それが良くてここに移ってきたのに、漁船のエンジン音まで聞こえるようになったのに、どうして今まで思いつかなかったのか。

 それで誠二は、その日、診察室を出てから初めて、少し笑った。

 部屋に帰るとスマホの地図で調べ、ホームの職員にも聞き、どうやら窓から望めるあの海は砂浜などのないただの海岸線で、海に降りていくことは出来ないようだと分かった。それでも行ってみたいと思った。

 翌日は雨だった。翌々日も雨。その次は曇りだったけれど、誠二は晴れの日を待った。診察から六日後、ようやく晴れた。それも、一面の青に滲み一つない、何年かに一度、みたいな快晴だった。ホームの行事が長引いて少し遅くなってしまったけれど、その日、ホームの窓から海を、空を見るたび、今日行こうとの思いが募っていた。

 午後、誠二はタクシーを呼んで、海を目指した。ホームを出ると、頭上には、相変わらず雲の破片すらない、いまだ勢いのある青空が広がっていた。

 ちょっとした探検みたいな気持ちもあった。車が丘を降りていく時には、誠二は年甲斐もなく心躍る自分が嬉しかった。窓を開けて乗り出しそうになるくらい。

 しかし、タクシーが走り出してからは、期待が高まる暇もなかった。タクシーは数分で目指した海岸の辺りに着いてしまったのだ。それはそうだ、ホームから見えるあの距離であれば、車ならこんなものだ。

 タクシーは速度を落とし、自転車くらいのスピードで走ってくれている。見ればたしかに素っ気ない海岸線で、ガードレールの向こうがすぐに海だった。こんな速度で走行していては、後続車に迷惑だ。歩道もなく散策するには危険だし、路側帯も狭い。タクシーを停めて時間を過ごすこともまた難しいだろう。

「どうしますか? 停めますか?」

 と運転手は言ってくれたが、車から降りてみられないのであれば仕方がない。短時間、停めて貰ってもかえって味気ない。

 なるほど、現実はこんなものだ。

 誠二の少年のような期待は既に萎れていた。

 いやいや、と誠二は思う。現実が期待や希望を裏切るわけじゃない。人が現実を無視して勝手に盛り上がる。それで、現実を目の当たりにして、勝手に萎れる。失望には慣れているはずなのに。そんなこと、分かっていても良さそうなものなのに。いい大人なんだから。いや、「いい老人」か。

 誠二は笑ってしまった。

「もうしばらく、このまま走ってください。それで戻りましょう」

 運転手にそう告げた。

 ホームの部屋から目途を付けていた場所はすぐに通り過ぎる。そのまま数分走った。変な贅沢を言わなければ、初夏の遅めの午後、海岸沿いを車で走るのは随分と気持ちの良いものではあったのだ。

 時刻はそろそろ四時に近づこうとしていた。道路が少し海から離れ、運転手に、どこかでUターンして貰うように頼もう、そう思い始めた時だった。

 数百メートル先、海側にネオンサインが見えた。

 BEER BAR STARGAZER

 その名に胸を衝かれた。日が高いからだろう、ネオンはまだ点灯していない。

「あの」

 誠二はタクシーが通り過ぎてしまう前に、慌てて言った。

「そこの、ビアバーで停めてください」

 タクシーは頭から駐車場に突っ込む。車内から店を見ると、営業しているようだ。両側を雑木林に囲まれた木造の建物はそれほど大きくはなく、また新しいものでもなかった。でも、白と青、ツートーンの塗装はどこも剥げておらず、塗り方も丁寧で、窓ガラスは美しく磨かれ、店の周りの清掃も行き届いている。日々、誠実なメンテナンスを受けていることが一目で分かる。

「ちょっと、飲んでいくことにします」

「電話で呼んでもらえば、迎えに来ますよ」

「そうですね、そうしましょう」

 誠二は運転手から名刺を貰い、タクシーを降りた。途端、ここからは見えない海の、濃厚な息吹を感じる。おそらく、建物の向こう側が海に面しているのだろう。

 誠二は強い既視感に捕らわれていた。BEER BAR STARGAZERは、サンフランシスコ勤務時代、よく立ち寄ったビアバーと同じ名前で、建物の雰囲気もとてもよく似ていた。いや、似て感じた。そもそもあの時の、三十年近く前のビアバーのことなど、明確に覚えているはずがないのだから。

 ああ、またもや年寄りの感傷だなあと思いながら、店に近づく。タクシーからの印象よりも、ずっとしっかりとした造りの建物だった。窓の内側には、ビールだけではなく、たくさんの酒の瓶や器が並べられているのが見えた。道路側には厨房があるようだった。おそらく、客席は海側なのだろう。扉は一枚板。

 縦に長い真鍮の取っ手が、ひんやりと掌に馴染む。

 重い扉を開けると、店内はやや照明が抑えられていた。そして正面は、大きくバルコニー席へと開かれ、そこから視線は水平線まで一直線に繋がる。眼前には午後の海が、鮮やかにどこまでも広がっていた。

 誠二の記憶もそれでまた、パノラマのように展開し始める。

 ここはあの店と同じだ。瓜二つなのではない、あの店そのものだ。俺は数十年の歳月をタイムトリップしている――。

 誠二は思わず一度目を閉じ、――開いた。それでもこの店は消えてしまうことなどなく、また、前にしている光景が消えてしまうこともなかった。

 それに、もちろんタイムトリップなどしていなかった。誠二は自分で自分を確かめる。皺とシミだらけの両掌、重たい足腰、視界の中を舞う飛蚊症の黒い影、そして何より体中の強い倦怠感と不快感、死の影。自分は八十路の、不治の病に侵され死にかけた老人のままだ。

 誠二が店に入ったところで立ち止まっていると、

「お一人ですか?」

 店員に声を掛けられた。

 振り返ると、店員、いや、この店のオーナーなのかもしれないが、一人の女性が立っていた。彼女は、五〇歳前後、よく日に焼けているが、白人の顔立ちをしている。そして何より重要だったのは、店だけでなく彼女にも見覚えがあったということだ。

 でも、最近ではよくあることだが、――彼女とどこで会ったのか、思い出せなかった。

「バルコニー席がいいですよね」

 彼女の日本語のイントネーションには、ぎこちなさがあった。彼女の後をついていき、バルコニーに出る。初夏の遅い午後、四時過ぎ。この場所でビールを飲むには、一年で一番適したタイミングだろう。

 席に座り、メニューに目を落としていても、彼女とどこで会ったのかが気になる。だが、やはり思い出せない。それで、気のせいだろうかとも思い始めていたところで、

「前にも、おいで頂いてますか?」

 彼女が尋ねてきた。誠二ははっとして、視線を上げる。

「いえ、今日が初めてですけど」

「ああ、そうですか、すみません、お会いしたことがあるかと思って」

「実は、私もそうなんですよ」

 誠二はメニューを置いて、しっかりと彼女を見た。

 プラチナブランドの髪が風にはためいている。海と同じブルーグリーンの瞳は好奇心を湛えているように見える。以前はそばかすと呼ばれたであろうシミが、整った顔立ちに愛嬌を与えている。

「アメリカからですか?」

「ええ、サンフランシスコです」

 それで、もしやと思う。

「この店の名前、STARGAZERって、同じ名前の店が、サンフランシスコ近く、海沿いにあったでしょう?」

「お客様、あの店に行かれたことがあるんですか?」

 彼女の表情が、ライトを浴びたように輝く。

「もう三十年くらい前、仕事帰りに、よくあそこでビールを飲んだんです」

「わたしも、あの店によく行きました。思い出の店です。大好きでした! まだ、カレッジの学生でしたけど。ああ、何て言うことでしょう。三十年の時間と太平洋を隔てて、またこうしてご一緒するなんて」

 彼女は、ジェシーと名乗った。

 ジェシーは、ぜひ飲んでいただきたいビールがあるのです、と言った。

「お忘れかもしれませんが、あの店は、地元のクラフトビールが売りでした。もうあの店は随分前に無くなってしまったのですが、わたしは、ここで、あの味を再現できないかなと思いました。それで、地元の地ビールメーカーと相談して作っているんです、千葉のSTARGAZER。いま、お持ちしますね、そのビール」

 数分の後、ジェシーは、適温に冷えた瓶ビールとグラスを持ってきた。ラベルには、この店と同じ名称「STARGAZER」が、多分、かつて飲んでいた時と同じロゴ、つまりはシンプルかつスタイリッシュな書体で記されていた。


 その日は結局、空の青が夕暮れに向かって移ろい、星々が浮かび出るように姿を現してもなお、誠二はそこでずっとビールを飲んでいた。つまみは、軽いスナック類と星だけで、まさにSTARGAZER――星を見る人であることを堪能した。アメリカに駐在していた時、いつもそんなふうにして夜への数時間を過ごしていた。

 俺は、星を見上げて、何を考えていたのだろう。誠二は追想した。当時、俺の心を占めていたのは、どうしようもなく現実的な事柄たちで、九十九パーセントが仕事、家庭のことは一パーセントもない、そんな比率だったんじゃないだろうか。その結果、俺は家の変調に気づくのが遅れ、――いや、察してはいたのに気づかないふりをして、妻子を失うことになるのだ。

 帰りがけ、誠二は、テーブルの上にSTARGAZERの王冠が一つ置かれているのに気づいた。思わず手に取る。王冠は藍色がかったスカイブルーに塗られ、そこに流れ星が描かれていた。

 これは――!

 その時、誠二の記憶の片隅で眠っていた星もまた、瞬き始めた。

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