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最後の海 1

   1


 ドドドドド――。

 ドドドドドドドドド――。

 聞き覚えのある音が聞こえてくる。誠二は睡眠の浅瀬にいる。

 漁船のエンジン音だ。

 聞きながら誠二は、「ああ、夢だろう」と思った。海の見える老人ホームに入所してからおよそ半年。昨夜も、自室の窓から真夜中の遠い海を眺め、記憶と戯れていた。そのせいで、子供の頃に聞いた瀬戸内の漁船の音が夢に出てきているのだ……。

 誠二が生まれ育ったのは、広島県の外れの小さな港町だった。子供の頃、夜明け前に目を覚ますと、漁船の出ていくエンジン音が海の獣のいびきのように響いてきた。窓を開ければ、海の表情の一つ一つがいつでも間近に感じられた。四季それぞれの季節の中で、目の前の海では、漁船が出ていってしばらくするとやがて夜が明けて陽が昇り、午後には陽光は黄色く熟してきて、ついには茜色に染まり、そうして夜が再び訪れる。その全ての表情を、誠二は友としてきた。今また、当時の記憶と夢の中で再会している――。

 だが、いつまで経っても音は止まなかった。

 意識がはっきりと覚醒してきたが、それでも止まない。目を開けても音は聞こえてきた。それは確かに、誠二がかつて毎日のように聞き馴染んでいた、低く少しつんのめるように続く、漁船が出港していく時のエンジン音なのだ。

 そんなバカなことがあるか。

 老人ホームから海までは遠く、漁船のエンジン音が届くわけがない。それに、この海に漁船が通ることも無かったはずだ。

 誠二はベッドから降りて、窓を開けた。

 途端、潮風が吹き込んでくる。まるですぐ目の前が海のようだ。

 まだ、陽の兆しはない。

 季節は春で、時刻は午前四時。

 闇の向こう、無骨な逞しさを孕んだエンジン音が、瀬戸内の生家にいた時のようにすぐ近くで聞こえる。この灯台のようなホームの空気を震わす。

 何が起きているんだ?

 誠二は目を凝らして、遠い海を見極めようとした。でもそこはただ黒く、空との境界すらはっきりとは見分けることが出来なかった。

 漁船の音は消えない。

 誠二は海からの風に吹かれながら、ひらすら闇を見つめ続けた。

 闇の向こうには、過去があるのだろうか?

 七十年以上前の、瀬戸内の小さな港があるのだろうか。

 誠二は思わず、窓の外に手を伸ばしていた。指先が虚空を彷徨う。

 ここからでは届かない。全く届かない。

 ホームに来て以来、毎日、海を感じて暮らしてきた。そうしたここでの暮らしに十分に満足してきた。そのつもりだった。

 でも、誠二は気づいてしまった。

 結局は、自分の望む海は、これまでの人生において時に励ましとなり、時に慰めとなりしてきた数々の海は、もう過去となり、いや過去そのものであり、遠い。いま見えている海は南房総の二十一世紀の海でしかない。全然違う。別物だ。ここでいくら手を伸ばしても叫んでも嘆いても、もちろん、過去のそれぞれの海に本当に何かが届くことなどないし、自分が何かを与えられることもない。そんな望みはない。あるのは、ただの年寄りの追想と感傷。

 なんと当たり前のことだろう。

 それなのに、依然として漁船のエンジン音が聞こえてくる。まるで時を遡り、生家に戻ったようだ。振り返れば畳の上に父と母と兄が蒲団を並べて眠っている。日が昇ったら家族で質素な食卓を囲み、近所の同級生と連れだって小学校へと向かう――。

 行き過ぎた感傷が招いた幻聴だ。

 分かっているのに、涙が零れていた。

 これは何の涙だと言うのだろう。

 後悔、だろうか。

 もう後悔のフェーズはとっくに完了したものと思っていた。最後に涙したのがいつのことだったのか、まるで覚えていない。何十年も前のことだろう。

 やがて、東の空の下の方が、判別がつくかつかないかくらい、気のせいなのかと思うくらいに、白み始める。

 それと同時に、漁船の音が心なしか、小さくなっていく。

 ようやく……。

 やがて、空も海も明るさを増していく。エンジン音はさらに小さくなり、かそけきものとなり、ついには風の音に紛れて溶けて――、消えて行った。

 朝が来たのだ。


 去年の初め、住んでいた千葉市の定期健康診断で異常がみつかった。精密検査の結果、根本的な治癒は難しく、投薬の効果が出なければ自分は、数年内にも最期を迎えることになるのだと分かった。当面は、入院せずに家でも過ごせはする。しかし、薬や治療の影響で強い倦怠感などが予想され、現状の一人暮らしは次第に厳しくなるだろうと言われた。さらに末期になれば、疼痛管理や点滴も必要になるため、入院せざるを得なくなる。

 早めに介護施設に入った方が良い。遅れれば遅れるほど、探す力も失われる。誠二は、人生の最後を、もう一度、海と繋がれる場所で過ごそうと決めた。だから、関東近県で海の近い施設をピックアップして順番に回り始めた。瀬戸内の実家近くとの選択肢はもうなかった。親兄弟はとうに亡くなり、実家もない。同級生たちも半数以上は既に逝き、鬼籍に入っていないとしても、もはや身動きままならぬ老人だ。故郷の町の性格は既に漁村ではなく、電車で十五分ほどのところにある都市のための近郊住宅街へと変貌していた。

 探し始めてみれば、海沿いの施設といっても千差万別だった。どうせなら故郷の海を思わせるような自然を感じられる場所が良かった。となると、誠二の住んでいたマンションからはどの施設も距離があって、訪問してみるのに思いのほか時間がかかった。

 今いるホームは、誠二が見学した五軒目の物件だった。ホームは南房総の丘の頂に建っており、麓から見上げると灯台のように見えた。そういえば、瀬戸内の郷里の家からも、岬の突端に建つ小さな灯台が見えた。

 ――ああ、灯台だ。

 誠二はホームを一目見て、声に出して呟いていた。

 建物は新しくはなく、その割に入居金が高かったが、もうすっかり魅入られていた。

 ここにしようという思いは、建物に入ってからますます強まった。地図上では海まで数キロはあるはずだったけれど、空き部屋に通してもらって窓から海を望むと、意外なほど距離を感じさせない。不思議なマジックだった。

 誠二は窓を開けた。

 さすがに波の音は届かない。それでも海を感じることができた。郷里でも、海外の転勤先、――カリフォルニアでも、シンガポールでも、バンコクでも、誠二はいつも海を感じて、海と共に生きてきた。

 そしてここ、南房総でも。

 目を閉じれば、耳に郷里の漁船の響きが蘇る。

「ここにしよう」と、固く決めていた。

 その時は、それから半年余り後に、まさか本当に漁船のエンジン音を間近に聞くことになるとは思いもしなかった。


 夜明けのエンジン音を聞いてから、誠二はその体験を幾度となく反芻した。音、風、気配の記憶が自然と蘇って来てしまい、反芻せざるをえなかった。

「藤川さん、どうかしましたか? 体調、大丈夫ですか?」

 頻繁に思い出してボンヤリしていると、介護士が声を掛けてきた。その都度、誠二は適当な嘘をついて誤魔化さなくてはならず、一人苦笑した。

 あの朝の体験が何だったのか、現か幻か、幻と断じるのもどこか口惜しく、双方の間を揺れた。

 けれど考えるうち次第に、現だろうが幻だろうが、要は自分に来るべきものだから来ているのだ、という気がしてきた。その思いが強まってきた。受け入れるしかないのだ。人生には、ただ受け入れるしかないということが数多ある。自分は決して運命論者ではなかったけれど、その事実は体験して学んできた。

 認知症という恐れも頭を過ぎった。専門医への受診をとも思ったが、止めた。もし認知症だったとしても、現代医学では、せいぜい症状を抑えることしかできない。エンジン音の「幻聴」を抑えることなど望んではいなかった。

 数日もしないうちに、夜明け前に再び、エンジン音が聞こえてきた。

 誠二は今度はそれを、しずかに、やさしく、受け入れた。

 もう涙は零れなかった。

 それからはしばしば、夜明け前、部屋にエンジン音が届くようになった。

 季節が良くなると、誠二は窓を少し開けたままで眠るようにした。深夜、明かりを消し、ベッドに横たわって目を閉じていると、窓から風が流れ込んでくるのが感じられた。ホームの周辺には他に建物もなく、夜が更けると丘の麓の県道を走る車も途絶える。外の物音はせず、ただ、風の強い日にはカーテンが揺れるハタハタという音だけが聞こえた。

 そんな静けさの中で眠りに落ち、夜明け前になれば漁船のエンジン音が響いてきて目を覚ます。慣れてしまうとベッドに横たわったままのことも増えたけれど、それでも時にはベッドを降りて窓辺に立ち、誠二は夜が明けていくのをずっと眺めていた。

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