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青い王冠のある部屋で電話が鳴るまで 3

   3


 あの海辺の朝から、四半世紀が経とうとしている。

 僕は無事その大学に合格し、大学院まで行った。大学院ではちょっとした偶然に遭遇した。僕の青い王冠と同じものを持っている女子の院生がいたのだ。あの、流れ星が描いてある青いビールの王冠だ。彼女は日本人だけれど、アメリカで生まれ育って大学まで卒業していて、だから本人も周囲も、留学生みたいな感じでいたと思う。僕は七歳までを西海岸で過ごしていたから、純粋なドメスティックの同級生たちに比べると、いくらか通じるところはあった。いや、ずいぶんと通じるところがあった、と思う。少なくとも僕の方では。

 振り返ってみれば、僕の人生の中では院生の頃が、一番、感情らしきものを持っていた、感情を大事にしていた、あるいは感情に支配されていたと言ってもいいかもしれない。院を修了すると彼女はアメリカに帰って行った。その直前、僕たちは青い王冠を交換した。二人の手にそれぞれ一つだけ残されていた、幼少期の残滓。どこの何というビールの王冠なのかは、二人とも知らなかった。忘れてしまっていた。

 交換を言い出したのは彼女だ。やはり夜明け、薄明の砂浜でのことだった。

 と言うといかにも恋人の別れのシーンのようだけれど、残念ながら僕らは恋愛関係にあったわけではない。そういう気持ちが成り立ってくるためには、まだ、たくさんのピースが不足していた。彼女の中には、僕の触れることの出来ていない部分がたくさん残されたままだった。きっと彼女目線では、僕から見るよりも遥かに、二人の間には距離があっただろう。それでも僕らは間違いなく、良き友人ではあったのだ。

 あの日の海岸での夜明け――。

 実を言えば、その特別なはずの青の光景、薄明の記憶は、ぼんやりとしてしまっている。後景になっていたから。僕は彼女を見ていた。彼女の姿は、はっきり覚えている。オレンジがかった鮮やかな赤のレインシューズ。同じ色の大きなフープピアスは朝一番の光を反射して眩しかった。翳りのないその赤は彼女のトレードマークのようなもので、彼女の内面を表しているようで、――もちろん、彼女はそれだけじゃない。僕は届かなかった、赤の向こう側には。

 とにかく、僕と彼女は王冠を交換した。それは事実だ。だから彼女とのあの二年間のカケラのようなものは、いつも僕と共にあった。そのカケラはまた、彼女とも共にあったはずだ。きっと。

 その後、僕が飲み込まれていく怒涛のような社会人生活で、王冠とそれにまつわる記憶は、随分と慰めになった。

 まさに怒涛だった。日本経済の年表と重ね合わせてもらえると、業界にいなかった人にも雰囲気が多少は伝わるのではないかと思う。大学院を出て、僕は大手の電機電子メーカーに就職した。そう、世間を騒がせることになるあの会社だ。間もなくその会社は傾き、役員が逮捕され、指名解雇だ、リストラ部屋だ、で大騒ぎになる。社内が日に日にギスギスしてきて、周囲で鬱になる人も複数いた。心底嫌気がさした。

 僕は逃れるようにゲーム会社に転職した。当時、いわゆるソーシャル・ゲームを中心に、ゲーム業界は何度目かのブームをむかえていた。どこも人材不足だったから、転職は容易だった。問題は、そこからだ。ゲームベンチャーがワラワラと顔を出し、一発当てて上場したり、ヒットが続かず消えて行ったり……。つまりは、大手ならともかく、「雨後の筍」企業ではコンプラだとかそういった点で社内をキチンとするところにまで手が回っていない、いや、回す気もない会社がザラだったということだ。僕の会社もまさにブラック中のブラックで、僕は心身ともに死にかけた。マジで、生命の危機を幾度となく感じた。

 それでそこからも何とか逃げ出して、今の中堅ソフトウエア会社に転職。ようやく落ち着けるかと思えば、今度は二年もしないうちに会社が準大手に吸収合併されてしまった。人間関係にも業務遂行にも、これでもかと歪みが生まれた。

 さらには台湾からの「黒船」来襲だ。僕の勤める会社は今、日本に製造・研究開発拠点が進出予定の台湾電子大手L社関連の新規受注に「社運を賭けて」邁進している。米国のIT大手も進出に絡む大規模プロジェクトだ。それはつまり、古い顧客の保守・メンテナンスを担当する僕のチームからガンガン人が抜かれ、L社チームに移されるということでもある。日陰の部署で減り続ける人員をやり繰りし、仕事を回さなくてはならない。ただ忙しさだけが増す。部下は僕のことを、上にモノを言えずチームリーダー失格と、遠慮会釈なく突き上げる。でも僕に何が出来るというのだろう。

 まさに人生はどこまで行っても地獄めぐりだ。

 そのくせ、この四半世紀で体重が二割増えた。髪の毛は――、二割減った。今は築二〇年の何の特徴もないワンルーム賃貸マンションに独りで住んでいる。結婚もせず子供も作らず、げんなりはしてももはや怒りもせず、期待は抱かず、希望も持たず、ただ時間を潰していくように、相変わらず青に満たされた部屋で、青い王冠とともに、暮らしている。


 そして、ある晩夏の夜。

 帰宅したのは、夜の八時過ぎ。蒸し暑さの籠った部屋に風を通すこともなくエアコンのスイッチを入れる。キッチンで水を一杯飲み、ワイシャツとスーツのズボンを脱ぎ捨て、家具量販店で買った一万九千八百円のソファに寝転んだ。今日は客先を訪問したので、一日、窮屈な服に押し込められていた。やっと脱げた。併せて、会社のあれもこれも脱ぎ捨てた。全部脱ぎ捨てたら、何も無くなった。薄毛で小太りのアラフォー男という醜い肉塊がうずくまるだけ。

 でも、部屋は青かった。

 僕の住むマンションの唯一良いところは、借りているのが八階の部屋で、周囲に同じくらいの高さの建物がないことだ。だからカーテンを付ける必要もない。月明りが差し込んでくる。部屋の中いっぱいに広がる青たちが月光に照らされて映える。

 僕は目を閉じる。

 これまでに包まれてきたたくさんの薄明を思い起こす。

 目を開ける。

 ここにも薄明の青がある、かろうじて。

 所詮、薄明のイミテーションだ。それでも、僕にとっては、ささやかながらも救いなのだ、――たぶん。

 古くなったエアコンが、カラカラスカスカと調子の悪そうな音をたてる。

 疲れたな……。

 ぼんやりしていたところで、家の固定電話が鳴った。

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