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青い王冠のある部屋で電話が鳴るまで 2

   1


 母によると、僕が青にこだわり始めたのは、日本に「帰国」した七歳の頃かららしい。

 僕はアメリカの西海岸S市で生まれ、そこの日本人社会の中で育ち、七歳で日本に「帰国」した。僕自身のその辺の記憶は曖昧で、でも七歳頃までの記憶なんて、誰でもだいたいはそんなものじゃないかと思う。それに、今ではもう、当時のことを確かめる術はない。母は十年近く前に認知症を発症して今は施設に入っており、僕が訪れてももはや息子だと認識することはない。

 いずれにせよ青が好きになった僕は、子供の頃からずっと、部屋の中、衣類、持ち物、何でも青にしたがった。カーテン、シーツ、毛布、勉強机の引き出しの取っ手の色、シャープペンシルにペンケース、Tシャツ、ジャケット、スニーカー、マグカップに歯ブラシの柄。大人になってからはネクタイ、ビジネスバッグ、パソコンにスマホ。

 そして、青い王冠が一つ。飲み物の瓶の王冠だ。流れ星が描いてある、シンプルだけれど美しいデザイン。おそらくはビールの王冠だろうと思う。僕には、小さい頃に王冠を集めていた時期があった。まだアメリカにいた時のことだ。

 僕の持つ様々な「青」は、もちろんベッタリ同じタイプの青ではない。僕が特に好んだのは紺系だ。紺と言ってもバリエーションは無数にある。緑がかったもの、灰色がかったもの、黒みの感じられるもの、やや紫が含まれているもの。僕の部屋はいつでも紺系を中心とした青に満たされていた。


 そうして青に囲まれながら、僕は高校生になった。僕はコンピュータ・オタクの理系で、そのうえ何かと対人反応に感情が足りないようで、だから毎日を概ね地味に暮らしていた。けれど、それなりには同じタイプのオタク友だちみたいなのも出来て、夜、その友だちとズルズルと街を歩いたりするようになった。

 高二の、たしかあれは晩夏、夏休みのぎりぎり終盤のことだったと思う。夜通しゲーセンで時間を潰し、それで夜明け前、渋谷の街を歩いていた。友だちと別れた後で、僕の周りには誰もいなかった。自分の吐息が聞こえるほどに静かだった。でも、巨大な街という生き物が眠っている気配は感じていた。見上げれば空はまだ真夜中の暗さ。街灯やネオンサインは灯されているのだけれど、それでもしっかりと夜で。

 僕は、一人でずっと何かを考えながら歩いていた。何を? もう思い出せない。その程度のことだったのだけれど、その時はそれなりに真剣で。だから、なかなか気付かなかった。街は、微妙に色を変え始めていた。

 僕は周囲を見回し、それから天を仰いだ。

 ほんの少し前までは、天上の星より鮮やかな地上ビル群の人工光を従えて、夜空はほぼ黒一色に見えていた。それがいま、地面の下に潜む太陽の明るさがゆっくりと滲み出し始め、空はほのかな光を得て、色彩を変えていくのだ。空の裾の方から黒が薄れ、灰色、紺色、たくさんの色がグラデーションになって混じる。

 変化は、分からないくらいに僅かずつで始まり。でも確実に。

 青へと向かって。

 やがてそこにかすかに茜が差してくる。そうなるともう、朝であることに気づいた、というように変化は加速して。

 ついには叫び出すように激しく、朝が進む。

 変容は一瞬ごとで、瞬きする前後でももう同じではない。いつだって僕の回りには何十もの様々な青があるのだけれど、その時見上げた薄明の空は、僕の見知っていた色彩のあらゆる繊細さを遥かに凌駕していた。

 これだ、と思った。僕が求めていた青は、この夜明けの、薄明の移ろう青なのだ。

 そして僕は思ってしまった。

 もっと見たい。

 こんなふうな青のバリエーションに包まれてみたい。

 場所によって、天気によって、季節によっても色彩は変わるだろう。

 そのすべてを体験してみたい。


 僕はその日から、薄明の青を求めて、あちこちを彷徨うことになった。と言っても、流浪の旅に出たというわけではない。なにしろ僕はかなり真面目な高校二年生だったのだ。僕の中で外すことの出来る「羽目」とは、徹夜のゲーセンが精一杯。

 だから二学期になればきちんと学校に行き、塾にも通った。当時母は、後に僕の義父となる男との交際を深めており、僕は毎週末、その男と行儀よく食事をした。男は妻と死別した五十過ぎの男で、誰でも名前を知っている大会社の部長職にあり、僕を一人の大人と認めて相対してくれた。かなり意地悪く見てもケチの付けようがないタイプといえた。それでも母親が男の呼び名を「望月さん」から「敬明さん」に変えた時には、どうしても軽い吐き気を覚えてしまった。望月氏にも母にも落ち度はない。そして僕にも。

 だから僕は母とその男から早く離れようと、進学先を地方の大学に決めた。いくつかの大学の学科詳細や寮の状況などを調べ、候補を絞り込んだ。過去問集を買い、塾のコースを選び、受験勉強に並行して一人暮らしのあれこれを想像した。

 その上で、薄明の青を求め続けた。

 手始めは都心のあちこち。新宿はほぼ渋谷と同じ色。上野も大差なし。少し郊外にも出てみた。これは!と思ったのはお台場だ。

 そうか、海か、と思った。

 でも、満足はしなかった。ビル群ではなく森に囲まれ、自然の砂浜の拡がる海に行って、薄明の青を体中で感じてみたい……。

 そこで、受験の本番となった。

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