9話 隷印の契り
「ッツ……」
「は……⁉」
痛みに顔を歪めるローズ。だが、剣は刺したまま抜かなかった。かなりの量の血が流れ出し、紙を紅に染め上げた。
ゲルベルトは理解が追い付かない、と言うように目を丸くしている。
「何してる!? そんな、覚悟だけ見せられても困るぞ⁉」
「ちゃんと意味あるから。エルナ、お願い」
エルナは軽く頷き、体の正面に杖を据えて目を閉じた。
「土の界。外にありし内の質実。虚質の川。廻りて留む」
魔法陣が青白く光り始める。ローズの血が浮き上がり、紙の上で円を描いて回転する。
「ゲルベルト! 剣を掴んで!」
言われるがまま、慌てて剣のグリップを無造作に握るゲルベルト。
「――質実は川と成る。異なる宙、我が理を受け入れ契約を成せ」
円状に動いていた血が突如三本の細い柱となり、剣の周囲を螺旋を描いて昇り始めた。そのままゲルベルトの腕へと巻き付くようにくるくると回り始める。
「そのまま引き抜いて!」
ローズの一喝。わけのわからぬまま一思いに引き抜いたゲルベルトは、信じられないというように自分の右腕を見た。
先ほどまで紅い柱が巻き付いていた右肘までが白く光っていた。その光はだんだんと強くなり、ひと際明るく輝いたその瞬間、パアッと光の粒子となって消えた。後には元のままのゲルベルトの右腕、右手に握られた剣、そしてだくだくと血を流し続けるローズの手が残った。
「よかった……特に何事もなく……終わったわね……」
青白い顔でローズはぽつりと呟くと、そのままふらりと後ろに倒れこんだ。
「うわあああああ有事でしかねえ! どうして目の前で! 自殺なんてするんだ! 目を覚ませえええええ!!」
ゲルベルトは急いでローズのそばへと駆け寄り、その横顔を引っ叩いてゆすった。
ローズは枯草で作られた簡易ベッドで介抱されていた。
「いやぁーまいったまいった。思ったより血が出過ぎちゃったわね」
貧血で真っ白な顔で、コヒュー、コヒューと肩で息をしながら、今にも死にそうな笑顔で呟いた。
「『血が出すぎちゃった』じゃねえよ! 目の前で血ぃ吹いて倒れられるこっちの身にもなれクソ女ぁ!」
怒鳴り散らかすゲルベルト。その一方、エルナはものすごい冷たい目でローズのことを見ていた。
ローズはなるべくそちらに視線をやらないようにしつつ、ゲルベルトに尋ねる。
「ちょっと確認したいことがあるから協力してちょうだい」
「何だよ」
「『行使』って言って」
「? 『行使』」
「ふぐぅ……」
「どうしてまた倒れこむんだ意味が分かんねえ」
ピクピク、と手を震わせながらサムズアップするローズ。
「契約は……無事に成立してるわ……」
そう言ってローズは意識を手放した。
「うおああああ死んだ⁉ 今度こそ死んだかこいつ⁉」
「こんなんで本当にやっていけるんでしょうか……」
エルナは全てがどうでもよくなったとでも言うように肩を落とした。
「というか、さっきのは何だったんだよ? 何かよくわからないまま終わっちまったが」
「ああ、あれは『隷印の契り』です」
「隷印の契り?」
「はい。私たち流民が対等な取引の証明として行う魔法契約の一種で、一団のリーダーと取引相手の間で結ぶものです。契約を『行使』することで体の動きを三割程度に制限できるんですよ。もともとは逃亡しないという意思表示のために行っていたのだとか」
見た目も派手ですしね、とつぶやくエルナ。
「なんでわざわざ……。俺たちを何かに利用する気なのか?」
「まさか。あの人のことです、本当に貴族の尻拭いをするつもりなんでしょう。その上で『与えられるチャンスは全て与える』くらいは思ってると思いますよ」
ゲルベルトはエルナを睨んだ。
「だからってここまでやる必要ねえだろ」
「なら、いきなり来た貴族のガキをあなたは信用できるのですか?」
「………………いや」
「そういうことです。生き抜くためには協力しなければならない。それを元流民の我々は痛いほどわかっていますから」
貧血一つで多少なりとも信用してもらえるなら安いと踏んだ。そういう人なのだとエルナは言う。
「この人は一度貴族の身分を捨てた人です。それでも、『すべての人間に生きる機会を与えられるように』と言ってわざわざ舞い戻っていった」
ゲルベルトはまだ信用ならない、と言うように鼻で笑った。
「ずいぶんと気高い貴族サマだな」
「いえ。全く気高くはありませんよ」
「は?」
「あの人はあの人の私利私欲で動いている。そのうち本人から聞くこともあるでしょう。だからこそ――あの人ほど信用のおける人間はそうそういません。この八年、一番近くで見てきた私が断言しましょう」
だからこそ、とエルナは言葉をつなぐ。その目は真摯にゲルベルトに据えられていた。
「あなたたちも彼女を信用してあげてください。近い将来、最も心強い味方となります」
ゲルベルトは腕を組んで唸った。
「……正直なところ、戦力が増えるだけでもありがたい話だ」
目をつむり、呟いた。
「それ以外は、俺が見て考えてやるよ」
「ええ、そうしていただけると助かります」
穏やかな合意が行われた。ふっと空気が緩む。
「うぅーーん、おぉ、たいりょうのごはん……」
ローズは寝言を言った。
「……『行使』」
「いぎゃあああああああ⁉⁉」