8話 塩害
「胡散臭ぇとは思ったんだけどな。素直に契約書面を作るもんだから信用しちまった。そんでホイホイ案内して密林の地図を作っちまった。人生最大のミスだ」
知らねえってのは罪だな、とゲルベルトは自嘲した。
「ただの書面は口約束と変わんねえってことだ」
ローズは眉を潜めた。
「どういうこと? 書面なら履行義務はあるはずよ。立会人がいなくても花押があれば効力あるもの」
「手元に書面があればな」
「……盗まれたの?」
「それで済めばまだ良かった。甘かったよ、俺はな」
ゆっくりと椅子の背にもたれ、天井を見上げるゲルベルト。
◆
「これは……何だ?……いったい何が……」
夜の密林に突如響き渡った轟音。ベットから転がり出たゲルベルトは見た。
集落が炎に包まれている。燃える木々で周囲は昼間のように明るく、阿鼻叫喚の嵐が場を支配していた。
「森が……燃えている……?」
この地域が開発されずに残っているのは、単に自然の要塞として有用だからではない。
湿地帯であるこの密林に生える水分に富んだ草木を燃やしたり、大木を切り倒すのが非常に困難を極めるからだ。
それがいとも容易く燃え盛っている。
「どうして……」
集落全体を舐めとらんと燃え盛る火炎。次々に吹き飛ばされる家々。逃げ惑う人々。
悲鳴が聞こえる。炎に飲まれ、火だるまになる住民。なす術なく崩れ落ちるその姿にゲルベルトは呆然としていた。
「頭! 指示を!」
下の階層から怒鳴り声が聞こえる。その声に我に返ったゲルベルトは矢継ぎ早に指示を出した。俺が動揺してる場合じゃない、と声を張り上げる。
「無事な奴は地上に降りろ! 男は女子供の避難を手伝え! 荷物は捨てろ! とにかく生き残れ!」
「動けない者はどうしますか⁉」
「そんなもん動けるやつが……」
再度、ドゴォン!という爆音。大木がゆっくりと倒れて来る。下には、足を怪我した子供をおぶる男。
「気をつけろ! 倒れるぞ!!!」
気付いた男が走り出す。ミシミシと音を立て、大木が彼らに迫る。
ズゴオオォォン、という地響きと土煙が上がった。
間一髪逃れた男と子供。助け起こされ、走って逃げていく。
危機一髪の生還を目にしたゲルベルトは覚悟を決めた。
「……傷病者は見捨てて構わない。自分が逃げろ。これは族長命令だ」
「「!」」
ゲルベルトの指示を仰いでいた男衆が驚き、何か言いかけ……それを飲み込み、口を閉ざした。
「「はっ!!」」
彼らもまた、覚悟を決めたように唇を引き結ぶと、火のない方向へと走り出した。
ゲルベルトもまた家族を逃がした。
しかし自分は最後まで残り、可能な限り家を回って逃げ遅れを可能な限り逃がそうとした。
最後に見つけた、火にあぶられた腕の痛みになく赤子を拾い上げ、自分もその場を後にしようとした瞬間。
見つけた。見つけてしまった。
木々の奥。帝国軍の人間がその手に持った杖と、何やら砲台を束ねたようなものをこちらに据えているのを。
その中にルイス・フォン・アウフシュナイダーの姿があるのも見逃さなかった。
刹那、青白い魔法陣が砲口を彩る。紅蓮の炎弾がゲルベルトの家へと一直線に向かい――粉微塵にした。
契約書の焼却と、反乱分子の鎮圧。
ゲルベルトは頭の片隅で、どこか他人事のように帝国軍の動機を分析していた。
同時に最初の書面の内容を思い出す。
『当地域を帝国軍前線拠点とするため、早々に退去されたし』
「奴ら、最初っからこれが目的でッ!!!」
ゲルベルトはちがでるほど唇を嚙みしめ、その場を走り去った。
◆
「とまあ、こんな感じで追い出されたわけだ。俺はな、奴らの思惑に乗って踊り続けたピエロよ。最初に判断をミスってなけりゃ、帝国軍に擦りよっときゃ、あの日襲撃に備えて準備しときゃ……後悔は尽きねえ」
ローズとエルナは絶句していた。
ゲルベルトは続ける。その後も決して楽ではなかったと。
ろくに武器も食料もなく森へと追いやられ、魔獣と魔族の襲撃で人の数が減ったこと。
未だ残る帝国の国境門での門前払い。書面の約束が履行されることはなかったこと。
泣く泣くもともと集落があった場所に戻ってみれば、全て焼け落ち、辺り一面炭になった木と泥だけだったこと。
「極めつけに今だ。どうして三年たった今も植物が全く育たないと思う?」
ゲルベルトは眦をさげ、今にも泣きそうな顔を伏せた。声が怨嗟で震えていた。
「奴ら、地下水源をダメにしやがった。海沿いの岩盤を爆破したんだ……地下水源は、それに育まれていた俺たちの土地は、もう戻らない」
言葉を絞り出し、うなだれたゲルベルト。
そのまましばらく時が経った。おもむろにローズが立ち上がる。
「私に任せなさい」
ゲルベルトの隣へ行き、膝をついて手を握った。貴族式の、最大級の礼。
「貴族の失態は貴族が片付ける。もうこれ以上、あなたたちを苦しめないと誓うわ」
ローズはまっすぐゲルベルトを見た。彼の目には憎悪と疑いに満ちている。だがかすかに期待の光があるように見えた。
「約束よ。あなたたちがもう一度、心から笑って生活できるようにこの土地を変えてみせる。全く同じ生活には戻せないかもしれないかもしれない。だから」
ローズは少し、握る手に力を込めた。
「私に一度でいい、チャンスをちょうだい。必ず、あなたたちの人生にもっと多く、もっと豊かなチャンスを提供する……だから協力してくれないかしら? 私一人では無理よ、あなたたちの力が必ず必要になる」
ゲルベルトは薄く笑う。手に力がこもり、血管が浮き出る。
「……それを信じられる根拠がどこにある? また裏切られて捨てられない根拠がどこにある」
「そうね、じゃあ貴族としての契約じゃなくて、あくまであなたたちと流民の対等な契約ならどうかしら?」
ローズは立ちあがり、腰に差した剣を抜いた。エルナがどこからともなく紙を取り出し、机に置く。中央には四角形の簡易的な魔法陣が黒いインクで記されていた。
「何を……」
「知ってる? 流民には治癒効果のある聖魔法を使える人が多いの」
「……聞いたことはある」
「実はちゃんと理由があるのよ。流民はどこに行ってもなかなか信用してもらえないの。だからね」
ローズはエルナの用意した紙の上に手を置いた。
そして一切の躊躇なく、その上から剣を、ザクリと突き刺した。