九、 いつでも俺を頼れよ
役場は、オイル専門店から歩いて十五分ほどのところだった。
道中、私達は自己紹介した。
「ラリサ・アリアナ・シビリテルと申します」
「お嬢ちゃんがシビリテル公爵令嬢か」
「もう、ただのラリサでございます。世間知らずと言われればそうではありますが、どうぞその『お嬢ちゃん』ってのはやめていただけませんか。もうそんな年でもございませんし」
「いやいや、これからも親愛を込めてお嬢ちゃんと呼ばせてくれ」
親愛、なんて言われると、これ以上言えなくなってしまった。
「せめて『お嬢様』にしてくださいよ」
小柄なシーナは、首をぐんとそらして背が彼女の頭二つ分くらい高いダニーさんを見上げた。
「いーや、『お嬢ちゃん』は譲れねぇな、シーナ嬢ちゃん」
「私まで『嬢ちゃん』呼びだなんて……。私これでも、ラリサお嬢様より一つ年上なんですよ」
「一つ年下じゃなくて?」
「上、ですっ」
シーナとダニーさんは、すぐに仲良くなったようだ。二人して私とレオンの前を、楽し気に歩いている。ダニーさんの年は……私のお兄様よりは年上に見えるけれど、いくつなんだろう。
「ラリサお嬢様、素性がわからない者を同行させて、よろしかったのですか?」
レオンが声をひそめた。
「そんなこと言ったら、今この帝国で一番怪しいのは私よ?」
身分証もまだ作ってないしね。
ダニーさんは、王城の使いから私が性悪令嬢だってことも聞いたかな……。
「今からでも、断りましょうか。役場はそこいらの街の人に聞けば教えてもらえるでしょうし」
私の大きなため息に、レオンが私の顔色をうかがう。
「いいえ、このままついて行きましょう」
「ですが……」
「何かあっても、レオンが守ってくれるんでしょう?」
「それはもちろんです」
今日の私、言いたいこと全部話せてる。
そうこうしているうちに、役場に着いた。
中は人でごった返していた。ダニーさんいわく、春はいつもこうなんだそう。
「ダニエル様、今日はどうされたんですか?」
カウンターの奥から、ダニーさんを見るなり私のお父様くらいの男性が身を乗り出した。
「今日は俺の友人の案内でね」
「さようでございますか」
カウンター前に通され、私達はそれぞれリホンで使っていた身分証カードを取り出した。
男性が、カードを見た瞬間に凍ったように固まる。
そして、叫んだ。
「リ、リホン王国の方なのですか!?」
役場中にいる人という人が、こっちに視線を向けた。
「ママ、リホン王国って?」
どこかで小さな子どもの声がする。
「昨日読んだ絵本の宝島のことよ」
母親らしき人が、小声で答えるのを、周りの大人達が微笑みで見守る。
「えっ、あのきれいなお姉さん達、宝島のお姫様なの?」
「そう、かもしれないわね……」
絵本って、何のことだろう。リホン王国を舞台とした童話があるのかな。私はお姫様でも何でもないんだけど……。それにしても、この場にいる人の反応から見て、リホンって好意的に思われてるの?
「ラリサお嬢様、お姫様ですって。素直で正直な子ですねー」
シーナはそう言って、私の袖をつまんだ。なんでそんなにうれしそうなのよ。
ダニーさんが咳ばらいを一つした。
「リホン王国から、移住を希望だ。身分証を三人分、至急作ってほしい」
「失礼いたしました。かしこまりました」
私達の三枚の身分証を、男性は高価な宝物を見るかのように触れた。実際、金箔で縁どられているのだからそれなりの価値もあるのだけれど。
「私、リホン人を見るの、初めてだわ」
「あの子が言っていたのもうなずけるな。見るからに高貴だ」
「あの青年も、すてきね」
ひそひそと、あちこちから声が聞こえる。
「悪かったな」
ダニーさんは何も悪くないのに、こう言って頭をかいている。
「お詫びに今夜は一杯、おごらせてくれ」
「そこまでしていただく必要はございません」
レオンはまだダニーさんを警戒しているようだ。そんな彼を見て、またダニーさんはフッと笑った。
「髪色を変えたのは、いい選択だ」
その瞬間、レオンの金色の瞳が一瞬で黒くなった。そんなに指摘されるのが嫌だったのかな。けれど、次の瞬間には、
「昨日のままでしたら、目立ちすぎますからね」
こう言って静かな笑みを返していた。
身分証は、普通なら作るのに三日はかかるそうだ。けれど、ダニーさんの頼みということで優先してくれ、わずか三十分で仕上げてもらった。
ダニーさんに案内されたのは、酒場だった。「ハラヘリドリ」という店名だそう。
「ラリサお嬢様にこんな場所、ふさわしくありません……」
いかにも大衆酒場、というところだ。シーナは不服そうな顔をしながらも、身分証で便宜をはかってくれたダニーさんに文句を言えるはずもなく、私にこう漏らすだけだった。
「いいじゃない。ダニーさんに連れてきてもらわなきゃ、なかなかこういう店に来られないでしょ」
国外追放という、リホン王国では歴史的にもほとんど例がない体験を私はしているのだ。おじさん達が大声で笑い合っているような大衆酒場なんて、大したことはない。
リホンではお酒は十八歳からだけど、ブリンス帝国では十六歳からなので、ここではレオンも飲める。たぶん、ちゃんと飲むのは初めてなんじゃないかな。
「飲み過ぎないでね」
レオンは私が釘をさしたからか、最初の乾杯の時に一口ふくむだけだった。
この酒場を一番楽しんだのはシーナだった。
運ばれてきたエールをグイグイと飲み、誰かが奏でだした音楽に踊りだしたのだ。
「さ、ラリサお嬢様もっ」
そう言って、私の手を引く。
思えばシーナは学園にいる時もずっと私の侍女としていたから、休暇はもちろん息抜きだってさせてあげられなかった。
「お嬢さん達、楽しそうだなっ」
「オレ達も入れてくれっ」
こうしてシーナが踊りだしたせいで、酒場がダンス会場のようになってしまった。
「やっぱりお嬢ちゃん達と来て正解だったな」
踊りつかれてテーブルに戻ると、ダニーさんが豪快に笑う。見ると、いつの間にかレオンまで隣のテーブルのおじさんに駆り出されていた。周りがみんな飲んでいる中、ぎこちなく踊る姿が、なんだかかわいい。
「こちらこそです」
私も少し酔っているのか、頭の中がふんわりする。
シーナはまだいろんな人達と踊っている。私と学園の寮であれだけ練習したものね。女性の給仕さんと踊る時は、自然と男役ができていて、笑ってしまった。
「それで、ほんとのところ何があったんだ?」
ダニーさんの真剣なまなざしに、酔いは瞬時にどこかへ行ってしまった。
「ほんとのところ、と言いますと?」
「性悪令嬢が国外逃亡するって、リホンの役人は言ってたが」
国外逃亡?
国外追放なんですが?
「船に乗ってる時から見てたが、俺にはお嬢ちゃんがそんな風には思えなくてな。おそらく騙されたんだろうって推測したんだが、そうだろ?」
騙された。
その言葉が、ぴったりね。
「その通りです。私はただ、失恋しただけです」
失恋なんて、辞書でしか見たことがなかった言葉、初めて使ったわ。
「船で何やら投げながら、泣いてたもんな」
オスカー殿下にもらったラベンダー色のリボンのことだ。
「泣いてません」
「いや、泣いてた」
「泣いてませんったら」
「そう見えたんだよ」
そして、急にズイッと私に顔を近付けた。
「もったいねぇなぁ。こんなにきれいな瞳のお姫様、世界中どこを探してもいねぇだろうに」
私のお父様もお兄様も、瞳は深い紫色、つまりアメジストそのものだった。私の目はうすいラベンダー色で、お母様はやさしい色だと言ってシビリテル領の公爵家の庭を一面ラベンダーで埋め尽くしてまで励ましてくださったけれど、リホン王国において瞳が宝石でなくただの「花の色」であることは、きれいだと褒められるような特徴ではなかった。
「ダニーさん、飲みすぎですよ」
ゆっくりと、顔を離す。
国がちがえば、見え方も変わるということは本では習っていたけれど、それに救われる日が来るなんて。
ダニーさんはそのままテーブルに伏せ、こっちを上目遣いで見た。
目をそらそうにも、それを許してくれないほど鋭く、熱い視線。
顔がほてってきた。私も飲み過ぎたかも。
「ブリンス帝国にようこそ、ラリサ様」
目頭まで、熱くなってきた。やっとのことで、目をそらす。
「ありがとうございます、ダニーさん」
「いつでも俺を頼れよ」
ダニーさんはこれだけ言うと、その場で寝入ってしまった。