六、 お疲れでございますね
船のあちこちから、漁師達の大声が聞こえる。ブリンス語だ。
これからはブリンス語で、私にとっては外国語でずっと暮らしていくのか。幸いにも語学だけはそれなりに得意で、何か国語かわけなく話せるから、どこへ行っても意思の疎通はできるけれど。それでも、母国語をシーナとレオンとしか話せないのって、想像するだけでけっこう辛いものね。
「貴族も平民も、リホン語を話せるリホン王国の国民はみな、高貴な存在なのです」
シシャール伯爵夫人がこう誇らしげに話していたのを思い出す。何を根拠に言っていたのやら。聞いた時には二桁になっていないような年齢だったこともあり、ただ純粋に「そうなんだ」と思ったけれど、妃教育を進め、歴史や世界情勢を学ぶうちに考えは変わっていった。
ダイヤモンドやルビー、エメラルドなどの宝石、そして金や銀の鉱山、そして近海には油田があり、リホン王国は別名「宝島」と呼ばれている。「謎めいた宝島」とも。
海から見ると、こんな風景だったのね。
宝島なんておとぎ話に出てくるようなキラキラしたものじゃなく、ただの島ね。
さようなら、リホン王国。
私が漁船で国を離れたって、あの王城の使いは王家に伝えるんだろうか。……こんなみじめを通り越して逆におもしろい話、言わないはずはない。今日の夕刊あたりに、
〈シビリテル公爵令嬢、漁船でブリンス帝国へ〉
とかの見出しで載るのかな。
こんな旅立ちの日にふさわしいのかどうかはわからないけれど、いい天気だった。
カモメなんて、久しぶりに見る。白い綿雲だって。
「お嬢様、これ、ここから投げちゃいましょうよ」
波がおさまり、船の揺れがましになった。シーナはそう言って、ポケットから小箱を取り出した。
ハッとして顔を上げる。
これは、私の寮の部屋の机にいつも置いていたもの。
「それ、持ってきてたのね」
「はい、誰かに処分されるなんて、そんなもったいないこと、譲れませんから」
卒業記念パーティーの会場へ向かう数分前にも開いたこの小箱。
開くと、一本も失われることなく、ラベンダー色のリボンがそこにあった。
オスカー殿下が誕生日の度にくださったチョコレートの箱にかかっていたリボンだ。
チョコレートだって、毎日少しずつ大切に食べたけれど、それでも数日もすればすぐになくなってしまった。だからいただいた物で残った物はこのリボンだけだった。
一本を、手に取り、海風に手をかざす。
チョコレートなんてお父様がいくらでも買ってくださるものだったけど、殿下にプレゼントとしていただくものは格別においしかったな。
「ラリサお嬢様、がんばってくださいっ」
シーナはこの八年間、小箱にリボンをしまう瞬間をずっと見守ってくれていた。誰よりも私の殿下への思いを知ってくれている。
パッと、リボンを離す。
春の暖かい陽気に乗って、リボンはヒラヒラと飛んでいった。
また一本、手に取る。
殿下への気持ちを乗せて、それを手放す。
漁師の皆さんは休憩に入ったようで、座り込んで汗をふいている。そして、チラチラとこっちを見ては互いに顔を見合わせ、首をかしげている。
「お嬢ちゃん」
漁師の一人が、私を呼ぶ。たしか、あの人は船長だっけ。ふわふわとしたダークブラウンの長髪を一つに結わえ、無精ひげをたくわえているのに、どこか品を感じる人だった。あれ、今の、リホン語だった。
「海に何投げてんだ。ゴミか?」
やっぱり、リホン語。
ゴミ、か。
もうこれ、ゴミなんだね。
「宝物だったんです!」
私はそう叫んで、またリボンを一本、海に投げた。
望めば何だって手に入る公爵令嬢の宝物が、八本のリボンだったなんてね。これも、王城の使いの者に言っておけばよかった。
リボンはいつの間にか、最後の一本になっていた。
「ラリサお嬢様?」
ずっとだまって見ていてくれたレオンが私の顔を覗き込む。
「これだけ……」
「これだけ?」
「これだけは、まだ持っておくわ」
持っておく、じゃない。ほんとは、捨てられなかった。
このリボンを、この気持ちを、全てゴミにする勇気がなかった。
涙目の私から、シーナは最後のリボンを受け取り、また小箱にしまった。
出発から半日後、ブリンス帝国のベリー港に着いた時には、もう日はとうに暮れていた。
けれど、港町は明るく、街灯がまばゆく光っていた。
「こんなに帝国が栄えていたなんて」
シーナもレオンも同時にうなずいた。
「お嬢ちゃん、人生いろいろあるが、がんばりなっ」
船長はちょっと癖のあるリホン語でそう言って、私をねぎらってくれた。
「ありがとうございます」
海水のシミだらけのドレスのすそを持ち上げ、妃教育で教わったとおりのお辞儀をして見せる。
「おいおい、俺にそんなかしこまってどうするんだ」
船長さんの言葉に、ハッとした。
そっか、私、これからかしこまらなくてもいいんだ。
言いたいことを好きな言い方で存分にしゃべっていいんだ。
これまでは、できるだけ声を出さなくてもいいように、お辞儀や視線の向け方に力を注いできたけれど、今日からは自分の気持ちは思うように表現できるんだ。
「そうね。心に留めておくわ」
そして、ニッコリ笑って見せる。これからは笑顔だって、微笑む程度に調整したりしなくてもいいんだよね。
「ラリサお嬢様、とりあえず宿をとってまいりますね」
荷物を船から降ろし終えると、シーナはそう言って街にかけていった。
「そこのベンチにでも座って待っていましょうか」
レオンはそう言って上着をぬぎ、ベンチに広げた。
「ありがとう」
「当然のことです」
婚約を破棄されて、いきなり公爵家に帰ってきた私。いっしょに帝国に来ることになり、レオンにとっても一夜にして運命が変わってしまった。なのに、彼は何一つ聞かない。
「これから、どうしよっか」
半日、立ち通しだったので、足がもう棒のようだった。
「ラリサお嬢様のお好きなことをなさったらよろしいかと」
「私の好きなこと、ね」
学園の勉強に妃教育、望んだことではあったけれど、好きかと言われればちがったもんね。
「失礼かもしれませんが、一つ申し上げても?」
レオンの瞳は、夜にこそ星のようで美しさが数段増す。
「何でも言ってみて」
「もっとお話なさってください」
「えっ?」
「子どもの頃は、たくさんおしゃべりしてくださったじゃないですか」
「そうだった……かしら」
そうだった。
公爵邸で生活していた頃は、毎日レオンと行動を共にして、庭を駆け回ったり、互いの顔を絵に描いたりして遊んでた。私はその間、ずっとおしゃべりするか歌うかで、寝る前には喉をからしたこともあったほどだ。
「ラリサお嬢様がどんなことでどうお感じになるか、またうかがいたく思います」
レオンは、あいかわらずやさしいな。
「じゃあ、思いっきり話すわ」
「楽しみにしております」
「何か失言していたら、こっそり教えてね」
「ラリサお嬢様に失言なんて、ございません」
私より一つ年下なのに、包み込むような笑顔ができるなんて、そんな笑い方、どこで習ったのよ。
「お嬢様、宿が見つかりましたぁ」
シーナが手をふりながら戻ってきた。
「帝国にも、いい宿があってよかったです」
急いでくれたんだろう。息が上がっている。
「ありがとう、シーナ」
「あれ、ラリサお嬢様、何かいいことございましたか?」
シーナには、いつだって何もかもお見通しみたいだ。
「秘密よ」
隣でレオンがクスッと笑う。
「私だけのけ者ですかー? 私、慣れないブリンス語でがんばってきましたのに」
そうだった。シーナはブリンス語はできるけれど、そんなに得意ではない。それは、シーナのブリンス語の先生である私が一番よく知っていた。
「また話すわよ」
そう言って立ち上がろうとしたけれど、腰がくだけてよろめいてしまった。
「お疲れでございますね」
レオンはこう一言つぶやき、軽々と私を抱き上げた。