四、 まだ社交界デビューもしていない子どもですよ
殿下とリリー様の仲がよろしいことは、知っていた。
お二方はどちらも聡明で、殿下のご学友としては私よりもずっと適任だった。
「ラリサ様、よろしいのですか?」
私の視界によく現れる令嬢の一人が、こう心配してくれたこともあったけれど、私にはできない専門的な学問の話のお相手をリリー様がしてくださることに、呑気な私は感謝していたほどだ。少しばかり羨ましくは思ったけれど、ただそれだけ。
男爵令嬢とはいえ、基本的なマナーや所作、知識は心得ているリリー様は、落ち着きがあってかわいらしく、新しい婚約者として申し分ないだろう。きっとおしゃべりも上手で、殿下につまらなそうな笑顔をさせることもないんだろうな。
婚約者として、私はあなたのために無口を装っていたのに。
ほんとは私、おしゃべり大好きなのに。侍女のシーナとは一晩中だって話していられるほどに。
もっと殿下の前で、考え抜いた言葉でなく、心にポンと浮かんだ気持ちそのままを口にしたかった。そうして、伝えたかった。
好きです、って。
でも今、「好きでした」って過去形の言葉でさえ、言う気にはならない。
ふと、シシャール伯爵夫人の言っていた「ギャップ」という言葉が脳裏をかすめる。
普段は落ち着いているリリー様が、私の嫌がらせに気をもむ姿が、殿下にはいじらしく思ったんだろうか。
さようなら、オスカー殿下。
これからもお健やかに、リリー様とお過ごしください。
こうして私は、卒業記念パーティーを早々に退場し、翌日には公爵家を出ることになった。
やはり婚約破棄は、殿下が念入りに計画して実行されたものだったんだと、家族でとる最後の朝食の席で私は知る。
お父様には大きな案件をいくつも扱わせることで、私と殿下の婚約をよく思っていなかった一派から目をそらすように仕向け、婚約破棄に必要な諸々の会議や書面を秘密裏に進めていた。ドレスの色も、あえてリリー様とかぶらせることで私に恥をかかせるようにし、最後には入手には幾重の審査が必要と言われている外国への客船のチケットの手配までされていた。もちろんそのチケットは国外追放される私の名前入りで、今朝、公爵邸に届いた。
おまけに今日の朝刊には、でかでかと、
〈シビリテル公爵令嬢、卒業記念パーティーで婚約破棄宣言される〉
とあり、いくら何でも早すぎて乾いた笑いが込み上げた。
「ここまで王家に尽くしてきたラリサに、こんな仕打ちはない」
一夜明けても、お父様の怒りは収まるはずもなく、紳士の鏡とまで称されるお人なのに、フォークでテーブルを打ち付けた。
正直、意外だった。冷たくされたことも突き放されたこともなかったけれど、お父様は私に関心がないと思っていたからだ。
「せめて、国外追放だけはどうにかなりませんの」
お母様も、昨日からずっと目を赤くしている。
「まだ社交界デビューもしていない子どもですよ」
ほんとは昨日がそのデビューと言える日だったんだけど。
「お家が潰されないだけ、よかったですよ」
お兄様は私よりも濃いアメジスト色の瞳をつぶり、大きなため息をついた。そして、いつものペースで朝食を口に運ぶ。
お兄様はともかく、愛されて育ったんだな、と改めて思った。家族が囲むテーブルを見守る使用人達の中には、涙ぐんでくれる人もいる。せめて、生涯自宅謹慎になればよかったのにね。
でも、そんなこと言えない。
国王陛下がうなずいたことは、この国では黒いものでも赤い。
「私、帝国に行ってみたかったんです。ほら、外国旅行って、なかなかできないでしょう? 私はもうリホンの地は踏めないでしょうけれど、お父様もお母様も、いつかいらしてくださいね」
お兄様の言うとおり、私だけが公爵家を出るだけで事が収まったのは幸いだった。だから、もうこれ以上、両親に迷惑をかけたくない。涙は、絶対に見せられない。
お父様、お母様、ごめんなさい。
不出来な娘で、ごめんなさい。
私がもう少し学問ができて、せめて裏口入学なんて使わなくてもいいくらい優秀だったら。私がもう少し落ち着きがあって、品格を損なわない話し方ができたら。私がもっとオスカー殿下を楽しませたり、共にいる将来を想像させるような令嬢になれていたら。
……こんなことには、ならなかったかもしれない。
国外追放なのだから、どこへ行ってもいいんだけれど、とりあえず海を挟んだ隣国であるブリンス帝国を私は選んだ。
この国は、言語はちがうものの、文化はリホン王国とそんなに変わらないと妃教育で習ったからだ。片道数か月はかかるというジハンク王国にも興味はあったけれど、リホン王国とは文化も習慣も全く違う国に行くのはまたの機会にすることにした。
「元気でいてね。元気でいてさえくれれば、それでいいですから」
王城からの使いが来て、私は港への馬車に乗り込む。お母様は扉が閉まるその瞬間まで、ずっと手をつないでいてくれた。
「どれだけ時間がかかっても、必ず迎えにいく。それまで、どうか無事でいてくれ」
お父様は港まで送るとも言ってくださったけれど、王城の使いがここまでだと止めに入った。
「父上、どこで見送ってもお辛いのは変わりません」
こうお兄様がなだめてくださったので、お父様はなんとか溜飲を下げた。
そして、絞り出すような声で、
「シーナ、レオン、ラリサを頼んだぞ」
と、二人を見つめた。シーナは侍女で、レオンは護衛騎士。二人とも幼馴染で、気心知れた仲だ。
二人まで連れを付けていいという国王陛下の温情が、ありがたいけれど感謝なんてできる気にはなれなかった。
「お任せください」
シーナは両手に重いかばんをふんぬと持ち上げ、まじめな顔でそう言ったけれど、
「シーナが言っても説得力皆無だよな」
と、一応お見送りに門まで来てくださったお兄様はつぶやいていた。
「命に換えてもお守りします」
この五年、学園にいた時は長期休暇でしか会うことはなかった私の護衛騎士であるレオンも、大きくうなずく。
こうして今、太陽が高く登った頃、私は島流しにあっている。それも、漁船で。
島国から大陸へ行くんだから、島流しって表現はおかしいかな。
「ラリサお嬢様、しっかりなさってください」
こう耳元で声を上げるのは、私のかわいい弟のような存在であるレオン。
長いまつ毛に縁どられた形良い目が、今日も金色に光ってきれいだ。青みがかった白髪が、日の光に照らされて海よりもずっときれいに輝いている。
彼は、私が七歳の時に領地にあるうちの庭に迷い込んだところを保護したのが縁で、それからずっと傍においている。
身分差別はあるものの、公には貧困民がいないとされるリホン王国に、身寄りのない子は珍しい。
七歳の私は、ちょうど貴族の義務ってのを学んだところだった。
ノブレス・オブリージュ。「財力、権力、社会的地位があるものは、それに応じて果たさなければならない社会的責任と義務がある」というもの。
だから、ボロボロの薄着で震えてたレオンを邸宅の庭の隅で見つけた私は、すぐに屋敷に連れてきて、温かいお風呂に入れ、アイロンのきいた服を着せた。ご飯も消化の良いミルクがゆにし、体のあちこちにあった切り傷や擦り傷も、私自ら手当てした。
最初、レオンは自分の名前しか言えなかった。年齢は、指を使って意思疎通をはかり、私の一つ下だとわかった。
地図を見せて、どこから来たのか身振り手振りで聞いてみたところ、驚いたことに海の向こうのブリンス帝国を指さした。
「この子は、海を渡ってここへたどり着いたんだね」
お父様はかんたんにそう言っていたけれど、成長した今ならその過酷さがわかる。これについてレオンは口をかたく閉ざしていたけれど、きっと死ぬ思いでどこかの船に潜伏し、ブリンス帝国から逃れてきたんだ。
普段、私達は王都の公爵邸で暮らしているけれど、公爵家の領地は海の傍だ。レオンと出会った時は、ちょうど家族で休暇をかねて領地の公爵家に滞在中だった。
リホン王国は小さい島国なので、海辺に領地を持たない領主なんてほとんどないんだけどね。それでも、公爵家の領地に迷い込んだレオンは、幸運だったと思う。
ほんとならブリンス帝国に送り返すところだけれど、首をブンブンと振って拒否する彼の顔があまりにも悲壮感あふれたものだったので、公爵家で暮らせるようにお父様にお願いしたのだ。
「レオンは、公爵家に残ってもよかったのよ」
船酔いで今にも吐きそうになる口を押さえつつ、私はレオンの顔を覗き込む。だって、あんなに帰るのを嫌がってた、レオンの母国にこれから旅立つんだから。
「お兄様の側近になる道もあるだろうし」
私が学園に入ってからの五年は、護衛でも男性は女子寮にいるわけにもいかないので公爵家に残り、家のあらゆる手伝いをしていたレオン。お兄様はそんな彼を、弟のようにかわいがっていたと聞いている。
「セドリック様には本当によくしていただきましたが、僕はどんな時も、何があっても、もうラリサお嬢様から離れません」
レオンのまっすぐな視線。
レオンの幸せを考えると、やっぱり公爵家にいた方がいいとわかっていたけれど、うれしかった。
少し見ない間に、また背が伸びたんだね。それに、たくましくなった。もう少年はとうに卒業して、どう見ても凛々しい青年になった。
それにしても、どうして同じ人間なのに、レオンはこうも揺れてる船で酔わないのよ。