十一、 ちょっと遅れるぐらい、大丈夫ですよ
そして、とうとう社交界デビューの日がやってきた。
行先は、チリス子爵家の夜会。
チリス子爵家には、ベリー領は繊維工業の技術者を毎年派遣しているらしく、その縁で招待されたとのこと。ラリサお嬢様は、その技術者が属するマッケンジー商会の奥様、ステラ様と懇意にしていることもあり、ダニーに代わって挨拶に行くことになったのだ。
「楽しんできてくれ」
と、昨夜の晩餐の席でダニーは言った。
「今からドキドキしております」
お嬢様は、そう笑顔で答えていた。
「レオンも、な」
何が、「レオンも」だ。
楽しめ、じゃないだろ。
敵情視察をしてこい、だろ。
お嬢様と俺が出席する夜会は子爵家だから、上級貴族は来ないだろう。皇族も来ることは万が一つにもない。けれど、皇帝の側近の側近あたりなら顔を見せる可能性もある。
何にしろ、俺はラリサお嬢様のエスコートだけをするつもりだ。
ダニーの計画に乗る気は、ダニーには悪いがやはりない。
今日は用があるとかで、ダニーは午前中から出かけている。
先に準備が整った俺は、タウンハウスの玄関で一人、ラリサお嬢様を待った。
お嬢様が、階段をゆっくりと降りてきた。シーナさんと侍女達もいっしょだ。
「今日は護衛としているわけじゃないから、『お嬢様』はやめてね」
久々に見た、めいっぱい着飾ったラリサお嬢様。
いや、ラリサ様。
群青色のドレスが、ラリサ様の魅力を今日は妖艶に見せている。
「それでは……ラリサ様、まいりましょうか」
手をひいて、馬車に乗る。
こんなに美しいなんて、心配な未来しか見えないんだが。
シーナさんの腕がいいのも、考え物だ。
「ラリサ様、今日もとてもおきれいです」
もっと気の利いた言葉を言いたかったのに、これしか出てこないのが辛い。
俺も、緊張しているのかもしれない。
「ありがとう……」
ラリサ様も緊張しているんだろう。
心なしか、そわそわしているように見える。
俺達は、馬車の窓から外を眺めた。
帝都の夜は、青白い街灯が光って幻想的だった。
子爵邸なんかに着かなければいいのに。
いっそこのまま、ラリサ様と二人、夜にまぎれてしまいたい。そう思った。
けれど、そんなことになるはずもなく、間もなく子爵邸に到着した。
またゆっくりと手を引き、馬車を降りる。
子爵邸は、想像以上に大きく、お嬢様もそう思ったのか息をのんでいた。正面玄関までの広い庭園には、赤や黄色のランプが灯り、邸宅が輝いて見える。
さて、そろそろ会場へ向かおう。
そう思った瞬間だった。
引いていたお嬢様の手が、止まる。
「ラリサ様?」
俺の腕にあるお嬢様の指先が震えていた。
顔をのぞきこむと、ラリサお嬢様はそれを隠すように何度もまばたきをした。
これは、非常事態だ。
さっと辺りを見わたす。
随分と時間に余裕をもって出発したこともあり、周りに他の招待客はいなかった。
また、お嬢様に視線を戻す。
こんなお嬢様、初めてだ。
今にも泣きそうだ。
何が、どうして、こうなった。
ラリサお嬢様の目から、涙がつたった。
この世で最も静かな雷のように思えた。
ラリサお嬢様が、涙している。
お嬢様が、泣いている。
「ラリサ様、こちらへ」
ラリサお嬢様の手をそっと腕からはずし、自分の手で握る。
……やっぱり震えていた。
「レオン?」
とりあえず、この場から移動しようと、庭に入る。
中は迷路のように入り組んでいた。
お嬢様の顔色は、病気のそれではない。
ということは、心的なことだろう。
名無しを呼ぶのは、まだ早計だ。
いくつかの角を曲がると、そこに長椅子を見つけた。
「少し、座りましょうか」
こんな時こそ、俺が落ち着かなければ。
「でも、パーティーに行かなくちゃ」
「ちょっと遅れるぐらい、大丈夫ですよ」
こういう時、騎士でよかったと思う。
マントを脱ぎ、長椅子にかける。
「余裕をもって出発しましたから、まだまだ時間はございますよ」
おずおずと、その上に腰掛けるラリサお嬢様。
俺もその横に座り、手袋をはずした。
触れても、いいだろうか。
と思った時には、もうお嬢様の涙をそっとぬぐっていた。
「お嬢様、よろしければぼくの肩に寄りかかってください」
涙をふいた手でラリサお嬢様の手を握り直し、そっとつぶやく。
もっと気の利いた物言いを考えることは考えたが、何も出てこない。ただただ、ラリサお嬢様を見ていると心配で胸が押しつぶされそうになる。
「じゃあ、ちょっとだけ……」
少し、遠慮されているんだろう。
お嬢様の頭は、俺の肩にそっと触れる程度だった。
ラリサお嬢様に、何があったのだろうか。
目をつぶったまま、お嬢様は何も言わない。
馬車の中では、何もなかったはずだ。
お嬢様がこんなに泣くなんて、知っている限りでは初めてだ。
考えられるのは、やはり……王太子に社交界デビューであったはずの日に婚約破棄されたことだろう。あの場も、きっと今日のように華やかな場所だったはずだ。
これまで何度となく感じた怒りが、また蘇ってきた。
国外追放になってから、半年経つ。
もう半年、と思っていた。
けれど、ラリサお嬢様にとっては「まだ半年」だったのだ。
聞いてさしあげたい。
いや、聞きたい。
ラリサお嬢様の心の内を。
けれど、聞いたらよけいにその傷をえぐりかねない気もした。
「ラリサお嬢様……」
気が付くと、その名をつぶやいていた。
お嬢様の手がピクリと動く。
そして、ゆっくりと体を起こした。
「落ち着かれましたか?」
俺の問いに、小さくうなずく。
「えぇ、ありがとう」
聡明なお嬢様のことだ。きっと王太子とのこと以外にも、いろいろと考えている。リホンでの辛いことを払拭するかのように、この半年、お嬢様は熱心にお仕事をされていたのも知っている。そして、何やら俺のわからないことで悩んでらっしゃることも。
「ラリサお嬢様、ここ数か月、何か思い悩んでいらっしゃったでしょう?」
月のきれいな、夜だった。
月影が、お嬢様の黒髪に美しいベールをかける。
お嬢様は、俺の言葉にハッとしたような表情を浮かべ、そしてうつむいた。
「社交デビュー、パートナーの僕が言うのはおかしいかもしれませんが、必ずうまくいきますよ」
うまくいきすぎて、人気者にならないかの方が心配なくらいだ。これから、もっと多忙になることは目に見えている。
「そう、かしら……」
なんとか笑おうとするラリサお嬢様。
口をキュっと結び、まだ泣くのを我慢している。
こんな時、抱きしめられたらいいのに。
抱きしめられる立場だったらいいのに。
触れたい。
触れて、その震えを止めてさしあげたい。
「ラリサ……様、お体に触れてよろしいですか?」
どうして俺は、こうして予防線を張ることばかりしてしまうのだろう。
嫌われたくない。
そればかりが頭に浮かぶ。
でも、自分のこの熱い気持ちをぶつけたい。
抑えられない。
抑えきれない。
「え、えぇ」
もう手を握っているのに、とでも言いたそうな顔で、ラリサ様がうなずく。
そっとラリサ様の肩に触れ、顔をそのやさしいラベンダー色の瞳に近付ける。
このままこの形良いふっくらした唇にキスできたら、どんなにいいだろう。
きっと、この世の全てを手に入れたような、そんな気分になる。
けれど、まだできない。
いや、まだ、しない。
ひとりよがりのキスは、後から虚しくなるだけだ。
それに、ラリサ様をこんな形で驚かせたくない。
俺が彼女にキスする時は、彼女もキスしたいと思ってくれた時だ。
今じゃない。
けれど、このくらいなら、許されるだろうか。
そっと、そっとラリサ様の額に口づける。
温かく、そしてとてもいい香りがした。
どのくらいこうしていただろうか。
おそらく数秒なのに、永遠にも感じた。
と、思うのに、離すと唇に名残惜しさがまとわりついた。
ラリサお嬢様と、目が合う。
急に、恥ずかしくなってきた。
ラリサお嬢様といると、いろんな感情が俺の中で大渋滞して大変だ。
口づけなら、頬でも手の甲でもよかったのに、どうして額にしたのだろう。
あぁ、そうか。
「幼い頃、母がよくしてくれたおまじないです」
嘘ではなかったが、完全なるごまかしだった。




