八、 きれいな夜空ね
「ラリサお嬢様?」
「しっ、静かに。みんな起きちゃう」
ラリサお嬢様に導かれるまま、俺は部屋の外に出た。
どんどん歩みを進めるお嬢様。
「どちらに行かれるんですか?」
「屋上よ」
にっこり笑ったラリサお嬢様の頬は、少しだけ赤かった。
「屋上?」
屋上に、何があるというのだろう。
「ちょっとだけ、急いで」
こんな時間だ。どういうおつもりだろう。
つれられるまま、俺はこの宿の最上階まで階段で上った。
それから、お嬢様は意気揚々とはしごを登ろうとし、ギョっとした。
「お待ちください、ラリサお嬢様」
慌てて、呼び留める。
「どうしたの?」
数段登った先で、お嬢様がくるりと振り向く。
「そのお召し物ですと、あの……」
ラリサお嬢様は、ドレスを着ているのだ。このまま登ると、裾は足首まであるとはいえ、中が見えかねない。主に、俺に。
「あ、そうね……」
お酒を召されていたからだろうか。それとも、子どもの頃に木登りをしていた感覚だったのだろうか。
なんにしろ、今は非常によくない。
「このドレスじゃ、裾を踏んづけて危ないわね」
いや、そうじゃございません。いえ、そうでもありますが。
「ぼくが先に登ります。それからお嬢様を引き上げますよ」
フッと、笑いがこみ上げた。この言葉は、子どもの時もよく言った気がする。シビリテル公爵領の領邸の庭には、大きな大木があるのだ。ちょうど、ブリンス帝国の名無しのアジトの入り口のような。
「じゃ、そうしてもらえるかしら」
一段一段、ゆっくりと、あの頃は淑女のドレスなんて着ていなかったラリサお嬢様が降りてきた。
俺はさほど長くないはしごをサッと登り、階下に向かって手を伸ばす。
「離さないでね」
「もちろんです」
腕につかまるラリサお嬢様を、難なく引き上げる。子どもの頃は、できなかったことの一つだ。
「ありがとう、レオン」
「礼には及びませんよ」
屋上は、薄暗かった。
けれど、それが心地よかった。
おそらく今の俺の頬は、少しばかり赤いから。
日中はあんなに暑かったのに、夜風が気持ちよかった。
「見て。星がきれい」
「星を、ご覧になりたかったのですか?」
「それもあるけど……」
ラリサお嬢様が、そっと俺の手に何かを握らせる。
「これは……」
「日が変わる前に、誕生日のうちに、渡したかったの」
白い、ハンカチだった。
俺の名前のイニシャルの刺繍がいれてある。うすぐらくても、すぐに気付いた。
「プレゼントなら、今日はたくさんいただきましたのに……」
ありがとうを言うつもりが、こんな言葉が出てしまった。
「私が刺繍は苦手なの、知ってるでしょ? がんばったんだけど、やっぱり今回もうまくいかなくてね。このハンカチは、渡すつもりはなかったの。だから最初に贈ったプレゼントは、これの替わりなのよ」
胸が、キュっと痛い。
「それでは、どうしてこのハンカチを、今、くださったんですか?」
声が、震える。
怖いのに、聞いてしまった。
リホン王国では、刺繡入りのハンカチは、家族や恋人に贈るものなのだ。刺繍の出来が悪いからと、お嬢様が王太子や家族に一度もハンカチを贈ったことがないとどこからか聞いた時には、お嬢様の不器用さをより愛おしく思ったものだった。
「レオンだったら、笑ってくれると思って」
「えっ?」
「それに、暗い所で渡したら、私の刺繍の出来もごまかせそうでしょ」
そんなことだろうとは、どこかで思っていた。
「日が昇りましたら、じっくり拝見します」
でも、これでこの世でラリサお嬢様からハンカチを贈られた唯一の男になれたわけだ。
「レオンの、意地悪!」
頬をふくらませるラリサお嬢様に向かい、ゆっくりと膝をつく。
「ラリサお嬢様、ありがとうございます」
目の前に、ラリサお嬢様の右手が差し出される。
俺はその手の甲に、そっと口づけた。
「レオン、お誕生日、おめでとう」
そっと目を上げると、お嬢様と目が合った。
夜空のどんな星よりも、美しかった。
それからラリサお嬢様と、屋上に並んで座り、しばらく過ごした。
ブリンス帝国に来てから、こんな風に二人だけでいるのはほとんどなかったので、そわそわしてならなかった。けれど、それを悟られないようにと必死だった。
「レオンのお母様は、どんな方だったの?」
これまで一度も聞かれなかったことを聞かれたってのもある。きっと今までは、あえて聞かないでいてくれたんだろう。
「そうですね……。別れたのはとても幼い時でしたから、実はあまり覚えていないのです」
「あ、ごめんなさい……」
「お気になさらないでください。顔や姿はほとんどもうおぼろげですが、声だけは、今も記憶に残っておりますよ」
「声が……」
気を遣わせてしまっただろうか。
話題を変えなければ。
「学園からぼく宛に書いてくださった手紙、読む度にお嬢様のお声を思い出しておりましたよ」
「長文で読むのが大変だったって、言いたいの?」
「いえ、とてもありがたく、嬉しく読ませていただいておりましたよ」
冗談でなく本心なのに、ラリサお嬢様は俺にからかわれたと思われたようだ。
「本当ですよ」
毎月送ってくださる手紙に、何度励まされたか、ラリサお嬢様は知らない。そして、王太子についての内容だと、どんなに胸がしめつけられたかも。
俺を魂の核から揺さぶるのは、いつだってラリサお嬢様なんだ。
「そういうことにしておいてあげるわ」
先ほどの、エイブリヒ殿下の言動を思い出す。
寝所でラリサお嬢様に子守唄を歌ってほしい、というあれだ。
本人も「冗談ではない」と言っていたが、そうなのだろう。つまり、ラリサお嬢様を身内にしたい、ということだ。
愛人や短期間の恋人にしたいならば、大勢がいる場であんな風に発言することはないはずだ。
あれは、外堀から埋めようという魂胆なのだろうか。それとも、ラリサお嬢様の弟分である俺への牽制か。
何にしろ、うかうかしていられないとは、このことだ。
「きれいな夜空ね」
ラリサお嬢様は、エイブリヒ殿下のことをどう思ってらっしゃるのだろう。
領主のダニーのことは?
そして、俺のことは?
ブリンス帝国に来てから、少しずつではあるが自分なりに愛情を表現しているつもりだ。けれど、それはお嬢様にとっては騎士としての挨拶や、弟しての気遣いだと勘違いされてしまう。さっきのように本心を話したところで、からかってもないのに軽口だと思われてしまう。
どうしたらいいんだ。
恋愛なんて、したことがない。
いや、真っ只中なんだけれど。
「そうですね」
まずは、異性として意識してもらわなければ。
こんな時、ダニーだったら肩でも抱くんだろうか。
ほんの少し、腕を広げてみる。
でも、できない。
ラリサお嬢様に、どれだけお慕いしているか自分の全てをもって伝えたいという気持ちは嘘ではないが、今のこの関係が崩れてしまうことが恐ろしかった。
それに、ずっとラリサおお嬢様だけを見てきた俺には、わかる。
お嬢様は、エイブ殿下のことも、ダニーのことも、そして俺のことも、恋愛的な意味では想っていない。
基本的に人の美点を探すばかりで、人を嫌うなんてことはないラリサお嬢様だから、ある程度の好意は誰に対してでもあるだろう。その中でも俺は、家族やシーナさんと同じくらいは愛情をいただいている自覚もある。
お嬢様はまだ、失恋の傷が癒えていないのだ。
八年も想い、添い遂げるために努力してきた年月を考えれば、まだたったの数か月だ。恋愛をする余裕が出てこないのも当然だ。
これ以上、ラリサお嬢様には傷付いてほしくない。
また誰かを一生懸命に愛せるくらい元気になるまで、俺の傍でゆっくりと休んでほしい。
それを、俺が邪魔してはならない。
「そろそろ、戻りましょうか」
立ち上がり、ラリサお嬢様に手を差し出す。
「えー、もう?」
そんなかわいいこと、上目遣いで言わないでください。
朝までここに、いたくなるじゃないですか。
けれど、俺のジャケットをしいているとはいえ、冷たい床にいつまでもお嬢様を座らせておくわけにもいかない。




