三、 ひゃー、やっちゃった!
それにしても、窓から汚水なんて私、流してない……。
その時、シーナのニコニコ笑顔が頭をよぎった。
私は、もちろん窓からバケツなんかひっくり返さない。
でもシーナなら……シーナなら、やりかねない。
あの自他共に認める大雑把なシーナなら……。
後から聞いたところ、やっぱり彼女だった。
もちろんわざとではなく、洗面所に持っていくのが面倒くさかっただけとのこと。
「寮の洗面室、すぐにつまるんです。公爵家ではこんなこと、一度だってなかったのに、ほんと大変なんですからっ」
階下の窓辺の制服に泥水をぶちまけてしまったことも覚えていた。
「ひゃー、やっちゃった! と思って、慌てて下の階に謝りに行ったんですよ。でもその時にはお留守だったんです。それから何回もうかがったんですが、いつもいらっしゃらなかったので……」
とのこと。
確かに、リリー様をお見かけするのは図書館ばかりだったので、寮の部屋にはほとんどいなかったのかもしれない。
ちなみにリリー様は、制服が汚されたことがショックで、すぐさまオスカー殿下のところへ駆け込んだそう。もう少しゆっくり部屋を出てくれていれば、きちんと謝罪できたのに。と思っても、もう遅い。
「うちの者が、大変失礼いたしました……」
私自身がやったことではないとはいえ、侍女の責任は私にある。これまでこれに似た失態は何度かあったけれど、それは公爵家でのことだったから、もうシーナの悪い癖は直ったとばかり思ってた。
何度か侍女長に専属侍女を換えた方がいいと言ってもらったけれど、私の乳母の娘で、唯一の友人でもあるシーナが離れることは、体の一部をもぎとられるような気がしてとてもできなかったんだ。
「心のこもってない謝罪など、必要ない!」
今度はオスカー殿下の顔が真っ赤になった。
心がこもってないなんて、どうしてわかるんですか。じゃあ、どうすればいいんですか。今すぐ賠償金でも用意しろと言われたら、喜んでしますのに。
涙でにじんだ目を、まばたきで押さえる。
「深夜に騒音を発して、リリーの眠りを妨げたとも聞いている」
殿下の口から転がった「リリー」という呼び名に、胸がズキンと鳴った。さきまでは「リリー嬢」だったのに。いつもはそうリリー様を呼んでらっしゃるんですね。
それにしても、深夜に騒音?
眠りを妨げる?
さっきのやりとりで、今度は詳しく聞かなくてもわかった。
私、週に一度のダンス同好会で披露するために、夜な夜な自室で練習してたのよね。
入寮した時には下の階には誰もいないと聞いていたし、部屋はじゅうぶんにスペースがあったから、思う存分踊りまくったっけ。ダンスは好きだけれど、運動神経もよくない私には、ちょっとしたステップでも猛練習しないと体になじませることはできなかったから。
でも、シーナに男性役をお願いして、冗談を言い合いながら練習するのは楽しくって、一時期は毎晩踊っては日々のモヤモヤを発散してたの。
そりゃ、足音がうるさかったよね。
「それはご迷惑をおかけしました……」
一言、静かにしてって言いに来てくれたらよかったのに。眠れないからやめてって。そうしてくれれば、夜中にダンスなんてこと、絶対にしなかった。男爵令嬢の立場から言いにくいなら、オスカー殿下を通じてでもよかったのに……。
「思ってもないことを言うな」
オスカー殿下にこんなにも冷たい目で見られるなんて、想像もしたことがなかった。私は殿下には何もしていないのに。
「あげくの果てに、リリーを乗馬の事故に見せかけて怪我さえるよう、友人をあごで使ったという証言も出ている」
あ、あご?
まさか殿下の口から「あご」なんて言葉が飛び出すなんて思ってなくて、つい吹き出しそうになった。
じゃなくて、乗馬の事故?
それに私、そもそも友人なんていませんが。
どなたかがリリー様を貶めようとして、その罪を私になすりつけようとしたってことでいいのかな。
「それは身に覚えがございません……」
「はっ、白々しい」
オスカー殿下の横でプルプル震えているリリー様。どんな目にあったのかわからないけれど、乗馬での事故だなんて、一歩まちがえば命も危うい。きっととんでもなく怖い思いをされたんだろう。
「遅効性の毒草をリリーの愛馬に食べさせただろう」
そのせいで馬が突然暴れだし、リリー様は落馬しそうになったとのこと。
「近くに私がいたからよかったものの……」
乗馬なんて、オスカー殿下と婚約してから一度もご一緒したことはなかった。陽だまりの中をお二人が談笑しながら乗馬をなさる姿を想像して、胸が痛くなった。
私が去年の殿下のお誕生日にプレゼントした、乗馬ブーツははいてくださったんだろうか。ううん、リリー様との逢瀬に、いくら最高級の品でも使うわけないか。私だって、一応それなりにはできるのに、誘われたことは一度もない。
「それで、馬はどうなったのでしょうか?」
「馬の心配か? なんとか吐かせて今は経過観察中だ」
それは、リリー様はパーティーにいらっしゃるくらいはお元気だと、今この目で見ていますから。リリー様の愛馬だと聞いたから様子をうかがったのに、こんな風に返されるなんて。
「安心いたしました」
このパーティーに来て、今初めて、作り笑いではあるものの微笑みを浮かべられた。
「ラリサ嬢、貴女の罪は重い」
本当に、私は何もしていない。リリー様に危害を加えようなんて、思ったこともない。
「私が指示したという証拠がございません」
リリー様はおかわいそうだけれど、こんな大事、下手をすれば公爵家の傷になりかねない。否定すべきところは、きちんとしておかなければ。
「貴女がしていないという証拠も、ない」
オスカー殿下のするどい視線に、私はうつむく。
ずっと、あなただけを見てきたのに。
あなたがいたからこそ、ここまできたのに。
ため息がもれ、これまでずっと張っていた一本の糸が、プツリと音を立てて切れた気がした。
ずっと、ずっとお慕いしていたのに。
「ラリサ嬢、貴女との婚約を破棄し、私はこのリリー・ソフィア・アスアルド男爵令嬢と婚約を結ぶことにする」
さっきの「婚約破棄宣言」と同じように、オスカー殿下はそう言い放って辺りを見渡した。国王陛下はもう説得済みのようで、首を一つ縦にふった。お父様だけが、その横で顔面蒼白になった。
リリー様に対する嫌がらせはともかく、夜中にドタドタ騒ぐような令嬢、王太子妃にふさわしくないよね。頭ではわかっているものの、気持ちが現実に追いつかない。
国王陛下も、小さい頃はあんなに頭をなでてくださったのに、首の動き一つで私を捨てるのですね。
「よって、ラリサ嬢は国外追放とする!」
会場の誰もが、一斉に互いに顔を見合わせた。
「ええっ?」
顔を上げた瞬間、オスカー殿下と目が合った。リリー様には、サッと顔をそむけられた。
卒業記念パーティーでの婚約破棄宣言も前代未聞だけれど、国外追放までされるなんて。この裕福なのに閉鎖的なリホン王国では、国外追放とはほとんど死刑宣告なのだ。
「追放だけですんで喜ぶがいい」
オスカー殿下からいただく最後の言葉が、これなんて。
私が何をしたっていうの。そっか、大切なリリー様をいじめたことになってたんだ。
リリー様は、殿下の隣で勝ち誇った顔をしているかと思えばそんなこともなく、殿下を見上げたり国王陛下を見やったりと、おろおろしていた。まさか私に国外追放なんて重い罰がくだるとまでは思ってなかったんだろう。
ここからの記憶が、私にはほとんどない。
近衛兵に押さえつけられて、無残に会場を退出させられたのだけは覚えているけれど。暴れてもないのに、本当にみじめだった。
兎にも角にも、私はオスカー殿下とリリー様の恋の邪魔だってことだ。
殿下の策略かリリー様の知恵かははかりかねるけれど、今思えば私の「性悪令嬢」って噂も自然と生まれたものではない気がした。