三、 おまえは風邪ひきやすいからな
このブリンス帝国ベリー領の領主、ダニエル・フストリド辺境伯。
シハブによると、リホン王国が貿易相手として認めた数少ない領の主。漁船の船長に汽車事業、繊維関連事業など、幅広く手掛ける二十四歳。両親はすでに他界。肉親は十九歳の妹イザベル嬢が一人。
この男については、ラリサお嬢様には関係ないことだが、一つ気になる点があった。今は名無しにそれについて調べるよう命じている。
領主がラリサお嬢様の宿から出てきたということは……。ラリサお嬢様に用があったとしか考えられない。マニキュアを買い求めずにまっすぐに帰ればよかったと思いながら、俺は足早に宿に入った。
どうやらラリサお嬢様は、領主にリホン語を教えることになったらしい。
「僕も、もう一度教わりたいです」
半分冗談で言ってみたが、
「レオンはもう、必要ないわよ」
とのこと。
お嬢様は俺から赤い箱の筆記用具一式を受け取り、すぐに中を開けてブリンス帝国産のペンはどんなものかというようにしげしげと見てらっしゃった。あんなに悩んだ箱の色だったが、お嬢様は中にしか興味がないことに、フッと笑いが込み上げる。これでこそ、俺のラリサお嬢様だ。
それから数か月のうちに、いろいろとあった。
俺の迷いも、なくなった。
というよりは、迷っていられなくなった。
これまでは、王太子の婚約者だったラリサお嬢様は、他の男からアプローチされることなく過ごされてきた。でも、その肩書がない今、大物がすり寄ってきた。
いや、イリア王国の王子なら、もし肩書があったとて、関係なかったかもしれない、と思うほどの近付きようだった。
俺が王子だったら、ラリサお嬢様は俺を一人の男として見てくれるだろうか。弟でもなく、護衛騎士でもなく。
そんなことを考えていた頃だった。
帝国に来て数か月目、ラリサお嬢様と俺、シーナさんの三人は領主邸に招かれていた。
ここに来るのももう数度目。
俺にとっては、屋敷自体は数度目だったが、場所としては実は何度も来たことがあった。以前、リホン王国に密入国する前に、敷地内の一番端のあばら家で、数か月住んでいたことがあったからだ。
「レオン」
振り返ると、領主がそこにいた。
俺は領主邸の訓練場に来ていた。ラリサお嬢様と歓談していたのではなかったのか。
「いかがなさいましたか」
他の騎士達も、動きを止める。
「皆は、つづけてくれ。レオン、おまえに話がある」
何だろう。
と思いつつも、うすうすこんな日が来るのではないかと予想していた。
訓練場を少し離れてすぐ、領主がパッとこっちを見据え、つぶやく。
「無事で、よかった」
動揺していることが悟られないように、すっと息を吸い込む。
「何が、でございましょう」
「おまえも、わかってるだろ」
領主ダニエルは、俺がリホン王国に逃げ込むのを手伝ってくれた兄貴分だと名無しに報告を受けてから、このシチュエーションは想像できていたはずなのに、いざとなったら言葉が出てこない。
「本当に、無事で、よかった」
再会してもう数か月経つのに、何言ってるんだ。
と、思うのに、込み上げてくるものがある。
あの頃の俺は、どん底だった。
そのどん底に寄り添ってくれたのが、ダニエルだったのだ。
「言うのが遅くなって、悪かった」
黙ったままの俺の顔を、領主が不安げに覗き込む。
「なかなか二人になれなかったからな」
この表情は、見覚えがあった。ガキの時に、何度も何度も向けてられてきた顔だ。
帝都を出た5歳になったばかりの俺は、ある事情により数々の刺客から追われていた。無我夢中で、逃げ延びた末に広大な森をさまよった。けれど、5歳のガキに生きる術なんてものはなく、餓死寸前だった時に商人とその護衛の傭兵達と出会い、助けられた。
しばらくして気力を取り戻してからは、傭兵達には剣術を、商人達には文字や算術を教わることになる。最初は俺のことをうっとうしがっていた恩人達だったが、生きるために必要だと思い、頼み込んだのだ。勉強以外の時間は、傭兵の使いっ走りをやってのけ、森を抜ける頃には弟分のようにかわいがってもらった。
道中、盗賊に扮した殺し屋を撃退してくれたのは、感謝の一言に尽きる。あの頃は、自身が何も言わなければ身の上がばれることはないと思い込んでいたが、大人達はきっと、俺が皇族だと髪色でわかっていただろう。いつもフードをかぶっているように言われていたのも、今ならうなずける。
「おまえは風邪ひきやすいからな」
傭兵の中でも一番腕が立ち、うっとうしいほどかまってくれたサイモン。目尻にほくろのある大男で、よく抱き上げてもらった。風邪なんてひいたことないんだけどなと思っていたが、愛に飢えていた俺は心配されることがこの上なく嬉しかった。
ベリー領に到着する頃、俺は6歳になろうとしていた。
彼らとは、数日ほどベリーでのんびりと過ごしたが、商人と傭兵達はまた新たな依頼により帝都に戻ることになった。帝都に帰るわけにはいかない俺は、ここで泣く泣く別れることになる。
これからどうしよう。帝国の最西端の海岸で途方に暮れていた時、出会ったのがダニーだった。
兄とも言える、ダニー。
ラリサお嬢様に出会えたのも、ダニーのおかげだ。
何か、何か言わなければ。
「領主様、俺は……」
「二人の時は、ダニーでいい」
涙を抑えるかのように、ダニーは目頭に手をやった。
それを見て、俺も目が熱くなる。
ダニーは、ラリサお嬢様がリホン国を追放される際、漁船に俺が乗り込んできた時から俺のことに気付いていたにちがいない。俺の白髪は遺伝性のもので、世界的に見てもお年寄り以外では一族の者にしか現れない特性だ。それに金の瞳もそうあるものでもない。
もしやとは思いつつも名無しに調べさせていたが、やはりそうだった。なにせ別れてから十年以上。それに、ダニーのダークブラウンの髪は、ここブリンス帝国では一番多い髪色であったし、帝国を出国するまで、俺はダニーが領主の令息だとは知らなかったのだ。てっきり、領主邸の小間使いかと思っていた。四六時中、俺といっしょに薄汚いあばら家にいたからな。
初対面は、ダニーが十二歳の時だった。
ダニーは両親を亡くしてすぐのこと。ブリンス帝国の帝都から逃れてきた俺は、同じ親がいない者同士だということで、ダニーによくしてもらった。
「ダニーにとっての美しいものって、何?」
ふと、ある日ダニーに聞いてみた。
「そりゃ、宝姫だろ」
即答するダニー。
ちょうど、海に夕日が落ちようとしている時間だった。俺達は、よくこの海辺でぼんやりと過ごしていた。
「宝姫?」
「この海のずっと向こうに、宝島があるんだ。そこにいるのが宝姫」
「宝物みたいな姫ってこと?」
この時初めて、俺はリホン王国のことを知った。
「そうだ」
「会ったこと、あるの?」
「あるわけない」
「じゃあ、なんで美しいってわかる?」
「そう思うからだよ」
「そう思うから……ねぇ」
その夜、俺は初めて絵本『宝姫』を読んだ。
「俺も、宝姫に会いたい」
純粋に、ぽんと心に浮かんできた。
会いたい。こんなお姫様がいるならば。
「だよな」
ダニーはうんうんとうなずいて、ポケットに手を入れた。大事そうに出してきたのは、ビスケットだった。
「食べるか?」
領主邸の厨房からくすねてきたのだろう。
「ま、いろいろあるけど、お互い楽しくやってこうぜ」
その頃の俺にとって十二歳のダニーはじゅうぶんに大人で、ありがたい存在だったことを今でもよく覚えている。
リホン王国へ行かず、ベリーに残るように何度も説得されたっけな。
「レオン、でっかくなったな」
成長したのは、俺だけじゃないだろ。
俺がブリンス帝国から逃げて十一年。
背丈も体格も顔つきも、何もかもが変わった。はずだった。
なのに、ダニーの笑い方は全く変わっていないことに今、気付いた。
どうして漁船に乗った時、わからなかったんだろう。やはりどこか、母国に戻るということで緊張していたんだろうか。それとも、ラリサお嬢様のことで頭がいっぱいだったからだろうか。
……後者だな。




