二、 おまえの気持ちは、わかる
さっきシハブが耳元で囁いていったお目当てのものが、そこにはあった。マニキュア、という爪に塗る染料だった。その前に爪を磨く蜜蝋もある。これも買っておかなければ。
様々な色の中から、ラリサお嬢様に似合いそうな艶やかな桜色を選ぶ。喜んでくださるだろうか。笑顔になってくださるだろうか。
ぶれすぎ。
シハブの言葉は、言い得て妙、だった。
ピッタリな言葉過ぎて、笑いさえ出てくる。
けれど、笑うわけにもいかず、長いため息を吐く。
「お兄さん、お兄さんにもらったならどこのお嬢さんも喜んでくださるわよ」
店員はそう言って、人気の色をいくつか出してきた。
ラリサお嬢様を、お慕いしている。
ラリサお嬢様に愛されるなら、弟分でよかった。
何でも心置きなく話せる友人でありたかった。
どんな時でもお守りできる騎士でありたかった。
傍においてくださるなら、何でもよかった。
最初は一目ぼれだった。
世界の「宝姫」そのもののラリサお嬢様。
けれど、そのやさしさと朗らかさに、ラリサお嬢様は「俺の宝姫」になった。
おしゃべりが大好きで、歌うと花が咲くような笑顔になって、いつだって俺を気にしてくれる太陽のようなお人。好奇心旺盛で、でも決して器用ではなく要領もいいわけではないけれど、そこが愛らしさを際立出せてもいた。
ラリサお嬢様が、好きで、好きで、必死にリホン語を覚えた。
リホン語は、俺にとってはラリサお嬢様そのものだった。
けれど、出会って一年後、ラリサお嬢様が八歳の時に、王太子との婚約が決まり、いつか心を通わせられるんじゃないかという子どもじみた夢はついえた。
それでも、ラリサお嬢様が婚約を嬉しそうに受け入れていたこともあり、祝福しようと決めた。
せめて胸を張って彼女の騎士でいられるように剣の腕を磨き、セドリック様の元で知識や実務を身に着け、「名無し」も徹底的に鍛え上げた。どこからかの暗殺者も、名無しの手を借りて何人も葬ってきた。
ラリサお嬢様を支えられるなら、それでよかった。
笑っていてくれるなら、それで。
なのに、ラリサお嬢様は婚約を破棄された。
しかも、どこのどいつだか知らない女のせいで。
お嬢様から届く毎月の手紙にはそんな兆しはなく、妃教育でご苦労なさっていることは承知していたが、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。名無しには、ラリサお嬢様の身体を優先して守るよう命じていたのだ。刺客は組織で抑えられたとしても、学園の生徒の噂までは名無しは介入できなかった。
婚約破棄を公爵邸のセドリック様の執務室で聞いた時は、怒りがなかなか収まらなかった。
「レオン、気を静めろ」
セドリック様はそう言って、大きなため息をついていた。
「ですが、セドリック様……」
「おまえの気持ちは、わかる」
セドリック様はアメジストのような瞳を伏せ、そのまま黙り込んでしまったが、俺と同じように怒っていた。ラリサお嬢様には小さな時から意地悪ばかりをしていたセドリック様だが、かわいい妹に兄としてどう接していいかわからずにいたからだと俺は知っている。
「レオン、瞳が黒を通り越して赤黒くなっているぞ」
俺の瞳は、普段は金色だが、感情が昂ぶると黒くなる。そしてその最上級にもなると、今度は赤くなるのだ。黒くなることはラリサお嬢様もご存知だが、紅く染まるところまでは見せたことがない。
本来なら、ラリサお嬢様の社交界デビューの日であった、学園の卒業記念パーティー。
この日のためのドレスや靴をあつらえ、それを着るのが楽しみだと、手紙には書いてあった。そして、王太子がどんなに良い人柄かも。
卒業すれば、いよいよ結婚へのカウントダウンが始まるんだなと、痛む胸をおさえつつ読んだのが、一週間前だった。
婚約破棄を言い渡され、パーティーを途中退場した後、ラリサお嬢様はまっすぐに公爵邸に帰ってきた。取り押さえられるようにして会場を離れたと耳にした時は、名無しに報復を命じようかと思ったがなんとか踏みとどまった。これは、ラリサお嬢様が望まれることではない。
家族との挨拶の際も、お嬢様は涙を見せることはなかった。護衛騎士である俺にさえ、力ない笑顔を一つ送ってくださった。
お嬢様にとっても、そして俺にとっても久々のラリサお嬢様の自室。
何とお声をかけていいかわからずにいると、ぽつりとつぶやかれた。
「私、国外追放になったの」
窓辺のカウチに腰掛けたお嬢様の声が、悲し気に響く。
「国外追放、でございますか……」
リホン人にとっては、死刑宣告のようなものだと聞いたことがある。
「なぜ、ラリサお嬢様が、そんな……」
「レオン、私についてきてくれる?」
俺の言葉をさえぎることなんて、これまで一度もなかったラリサお嬢様。かぶせるように、そしてすがるような瞳でこちらをうかがう。
「もちろんでございます」
指先が、ピクリと動く。こんな時、恋人であれば限りなく近く傍に寄って、躊躇なく小さな手を握れるのに。
「ありがとう。どこへ行こうかな……」
そのままラリサお嬢様は、窓の外の鮮やかな庭園をじっとご覧になっていた。
この日までは、大丈夫だったと、安定していたと、自覚している。
俺がぶれはじめたのは、翌日からだった。
自分の浅ましさに、嫌気がさす。
けれど、このチャンスに加え、自由が手に入った今、心躍らずにいられなかった。
ラリサお嬢様に、婚約者がいなくなったのだ。
その上、わずらわしい貴族社会から解放された。
国外追放になったことは許しがたいことだが、また以前のようにお傍にいられるのだ。
ラリサお嬢様が学園生活をされていた五年間は、年に数度の帰宅時と毎月の手紙程度しか接する機会がなく、いつだって喉が渇くような、そんな感覚が何年経っても消えることはなかった。
帝国に来た日から、久しぶりにお嬢様と長い時間を過ごすようになり、俺はシハブの言うようにどうしようか迷った。
子どもの頃のように、弟でいようか。
騎士として、お守りしつつも一定の距離を保とうか。
このどちらかが最適解だということはわかっていた。
お嬢様は、王太子のせいで見ていられないほどに深く傷ついている。
それをいいことにお慰めするなんてことは、したくなかった。
となると、傍にいる者は絶対的に安心できる存在でなければならない。
けれど、未熟な俺は舞い上がってしまっていた。
学園にいらっしゃったこの五年を埋めたくて、ラリサお嬢様の心から一刻も早く王太子を追い出したくて、笑ってほしくて、でも隙あらば触れたくて。
抱き上げた体や指先に触れる度、感動を覚えた。
子どもの時は大差なかった体格も、今では随分とちがう。ラリサお嬢様の手はうすく、指には小さなペンだこがあった。きっと、人一倍努力なさってきたのだろう。かつては頭や背をなでてくれたこの手が、俺は好きだ。
触れてしまったその後は、理性を持って弟や騎士のようであろうと努めたが、油断するとすぐに気持ちを知ってもらおうとする自分に飽きれる。
ラリサお嬢様を前にすると、俺はどうしようもなくなるらしい。
ぶれすぎ、か。
シハブは、俺をよく見ている。にくたらしいほどに。
シハブはこうも言っていた。
「俺が、『どうしようか迷っている』ね……」
想いは一つだ。
ラリサお嬢様に、幸せになっていただきたい。
そして落ちてきたチャンスが、ここにある。
自分の手で、ラリサ様を幸せにするチャンスだ。
弟でも、騎士でも、きっとそれは叶う。叶えてみせる。
でも、欲を言えば……。
見上げると、日が随分と傾き、夕日となっていた。
早くラリサお嬢様に会いたい。
宿に帰ろう。
そして、宿の正面が見えてきた時だった。
中から、あの男が上機嫌で出てきた。




