十六、 誰よりも幸せになっていただきたいのです
ダニー様もエイブ様も、さすが領主様と王子殿下と言うべきか、見る見るうちに上達していった。貴族や王族であるということよりは、外国語を習得したご経験があることが、大きいだろう。
「エイブリヒ殿下、ご機嫌いかがでしょうか」
イリア語で挨拶をするダニー様。ご自分のレッスンがない日も、時々こうやって差し入れのお菓子を持っていらっしゃるのだ。
ダニー様は始めて一か月で、イリア語のアルファベットと挨拶、そして自己紹介をマスターした。
「ダニエル殿、ごきげんよう。また来たんですね」
エイブ様が、ブリンス語で答える。エイブ様のブリンス語も、なかなかのレベルになった。けれど、貴族や王族特有の言い回しはまだできない。ここは本当なら、「よくお会いしますね」だ。
「お嬢ちゃんの菓子箱の底が、そろそろ見える頃かと思いまして」
と、ダニー様。
「ラリサさんの菓子なら、私が補充しておきましたから、心配無用です」
と、エイブ様。
シーナがイリア語がわからないはずなのに、背を向けて笑いをこらえている。
「それに、そろそろラリサさんのことを『お嬢ちゃん』と呼ぶのはやめてください。淑女に失礼ですよ」
エイブ様は私が作ったテキストを眺め、ダニー様を見ようともしない。これは、とても失礼な行為だ。けれど、仲が良い場合は別、でもある。どっちだろう……。
「今更もう、戻せません。あ、でもやっぱり……」
ダニー様はそう言って、私の顔を覗き込んだ。
「ラリサ、と呼ぼうかな?」
「えっ?」
視界いっぱいに、ダニー様のダークブラウンの目が飛び込んできた。
「ダニー様、からかうのはやめてくださいませ」
「ダニエル殿、ラリサさんから離れてください」
エイブ様がダニー様をにらむ。
「そんなに近付いてねぇよ」
ダニー様のリホン語でのつぶやきに、エイブ様はフンと鼻を鳴らした。
お二人の仲がほんとのところどうなのかはわからないけれど、今は悪くないと思う。悪くないというのは関係性のことでなく、語学を学ぶにおいて、だ。話さなければならない状況であればあるほど、語学は上達する。
その夜、私とシーナ、レオンとダニー様、そしてエイブ様は「ハラヘリドリ」にいた。
エイブ様が隣の宿屋に泊まっていた大衆酒場で、シーナの友人になったミリーの職場でもある。
ここに来るのは、最初の一回以来だった。
「お嬢さん、久しぶりだなっ」
マスターのおじさん、覚えていてくれたんだ。
「マスター、今日は祝会なんだ。じゃんじゃん高い酒を持ってきてくれっ」
ダニー様はそう言って、酒場で飲んでいる他のお客さんにも、今日はおごりだと叫ぶ。
そう、今日は私の「ラリサ語学教室」の開校祝いをしてくださるとのことで、やってきたのだ。
「お祝いなら、もっとラリサお嬢様に似合うオシャレな店がよかったのに……」
シーナはそうブツブツ言っていたけれど、ミリーが給仕に来ると見る間に機嫌を直した。
「ラリサ語学教室の前途を祝して、乾杯!」
ダニー様の声に、酒場中のジョッキやグラスが高く持ち上げられた。
窓から見える三日月が、とてもきれいな夜だった。
なぜだか今日は、飲んではいるのに酔いが回らない。
エイブ様はお酒に弱いのか、すぐに酔いつぶれてしまって寝入ってしまった。隣でサフマドさんがこうなることを予想したように、マントを肩にかけている。
シーナは、やっぱり一番楽しんでいた。
音楽に合わせてミリーと踊りだし、私も引っ張り出された。
「シーナ、今日は勘弁して……」
「今日踊らないと、いつ踊るんですかっ」
そんなこと言われても、今日はそんな気分じゃないのに……と思いつつも、それなりにクルクルと踊ってしまう。
一曲の間にも、どんどんパートナーが変わっていく。
やめ時を探すのが大変だわ……。
と思いながら目を上げると、次のパートナーはダニー様だった。
「お嬢ちゃん、楽しんでるか?」
「は、はい」
彼に手を握られるなんて初めて。さっきから、シーナやミリーはもちろん、知らないおじさんとだって手をつないでいたのに、急に恥ずかしくなってきた。
「お嬢ちゃん、うまいな」
「リホンの学園で、ダンス同好会に入ってたんです」
ダニー様も、そうとうなものだ。
「どおりでな」
ダニー様の掌は大きくて、私の手はけっして小さくもなのに、すっぽり包み込まれている。
「お嬢ちゃんは、このベリーの新しい風になりそうだな」
「新しい風、でございますか?」
語学教室のことを言っているのかな。
「そうだ」
できることをしているだけで、そんなかっこいいものじゃないんだけどな。
「俺にとっては、春風だな」
春風にさらされながら、ダニー様の漁船に乗ってここまで来たものね。
「長くこの街に、俺の傍に、いてくれな」
この一言の後、ちょうど自分のテーブルの辺りに運ばれた私は、ポスンと座らされた。すぐにまた別のお客さんと踊りだすダニー様。
「ラリサお嬢様」
すぐにレオンがお水を持ってきてくれた。
「レオン、踊った?」
「いえ、僕は……」
私の笑顔に、レオンはたじろぐ。
「じゃ、私と踊ろっか」
「お疲れではないのですか?」
「いいの、いいの」
さっきまでは座りたくてたまんなかったはずなのにね。レオンといると緊張が解けたというか。そうしたら、また踊りたくなったんだ。
「僕、ダンスはあまり得意でないのですが……」
「クルクル回っておけばいいのよ。楽しめばいいのっ」
それから私達は、何曲も二人だけで踊った。
どうしてこんなことしたのか、わからないけれど、たぶん元気がなかったんだ。
でも、私の教室のお祝いだから一人しんみり座ってるわけにもいかない。寂しそうにしているのを、誰かに見られるわけにもいかない。
レオンにも、悪いことしたな。隠れ蓑に、使ってしまった。
私は、やさしくされることに慣れていない。
他人によくしてもらうことに、愛情を傾けてもらうことに、免疫がない。
だからダニー様には最近、身構えてしまうことがある。
涙が出るほどうれしいのに、どうしようもなく辛い。
人間は他人にもこうもやさしく接することができるものなのに、一番やさしくされたかった方は見向きもしてくれなかった。その事実が、悲しい。
エイブ様が、テーブルに伏せながら、いつからかうっすらと目を開けてこちらを見ている。お酒に酔ってとろんとしているのに、その視線は熱い。
私は、見なかったことにした。エイブ様の好意も、今の私には過ぎたもので、ありがたいけれど正直なところ重い。
「ラリサお嬢様、これからですよ」
私の心中を知ってか否かはわからないけれど、レオンはやわらかく微笑む。
「そうね、これからね」
酒場の今日初めて会ったような人にもお祝いしてもらうようなすてきなことがあっても、私はそれをリホンの家族に伝える術がない。
そもそもリホン人は外国に知人がいないのが普通だし、国と国との交流もほとんどない。世界情勢や文化などは、リホンから放たれた隠密がかき集めてくるとお父様から聞いたことがある。なので、外国から正攻法で手紙を書くとなれば、検閲対象となってしまう。そもそも国外追放になった私の手紙など、届くはずもない。
「ラリサお嬢様、復讐しなくてもよろしいのですか?」
曲調がゆったりとしたものに変わった。酒場中がユラユラ揺れる中、私達もその真ん中にいた。
寄り添っているので、互いの顔は見えない。
「ふ、復讐?」
いつも穏やかなレオンの口から、こんな言葉が出てくるなんて。
「僕、お嬢様を見ていられません」
リホン王室へ、あるいはオスカー殿下とリリー様にということだろう。
「復讐だなんて、考えたことないわ」
「こんなにラリサお嬢様を傷付けた王太子を、僕は許せません」
レオンが、怒っている。「殿下」と呼ばないほどに。
「私が自分のことに精一杯で、愛される努力をしてこなかったからよ」
この数か月、何十冊もの恋愛小説を読破してわかったのは、主人公はみな、相手を思いやって誠心誠意、心を尽くしていたのだ。私みたいに、自分の忙しさをいいわけになんて一人もしていなかった。もっと早く読んでいれば、これに気付けたかな。
「ラリサお嬢様は、何も悪くございません」
握られた手に、力がこもる。さっきのダニー様の手よりもかさついた、表面にタコのある剣士の手。
私はこの手が、一番好きだ。
ぎゅっと握り返すと、レオンは驚いたのかパッと体を離した。
「ありがとう、レオン」
今日も飲んでないはずなのに、顔を赤らめるレオン。
「ラリサお嬢様には、誰よりも幸せになっていただきたいのです」
月が、もう高く登り、窓からは見えなくなっていた。
「そうね」
それが一番の、私の復讐になるはずだから。




