十四、 そうなったら、ドレスを買い直そう
今日も私の朝は、シーナに運んでもらった水で顔を洗うところから始まる。
「爪がきれいになっただけで、気分が上がるものなのね」
私のつぶやきに、シーナはふふふと笑う。
「シーナもやってみて」
「そんな、私なんかがやっても」
「二人してご機嫌な方が、楽しいじゃない?」
公爵家にいた時は、幼い頃はともかく気軽にこんなこと言えなかった。シーナは一介の侍女だからだ。でも、今も侍女ではあるけれど、幼馴染であり、親友であり、戦友みたいなものでもある。
「それも……そうですね」
シーナも、やっぱり興味あったのね。
「でしょ」
「じゃあ、レオンも誘って三人でご機嫌になるのはいかがでしょうか」
私達に爪を磨かれながらオロオロしているレオンを想像し、二人して声を出して笑った。
「私、実は初めてレオンに出会った時、女の子かと思ったんですよ」
今日もシーナは私の黒髪を、サイドを細かく編み込んで、ハーフアップにしてくれる。
「私も……」
「ラリサお嬢様までっ?」
当時六歳のレオンは、それほどまでに美少女……じゃなくて美少年だったのだ。
「レオン、天使みたいにかわいかったですよね」
「そう、天使って言葉がぴったりだったわ」
「今はあんなに背が伸びて、そっけなくなっちゃいましたが……美青年にはなったけど」
そっけない?
あのレオンが?
「レオン、シーナには冷たいの?」
「レオンはお嬢様以外にはいつだって省エネモードですよ」
「しょ、省エネモード?!」
シーナって、時々こうやっておもしろい言葉選びをするのよね。
エネルギーだなんて、最近できた言葉じゃない。
「少しはラリサお嬢様も、レオンを見習っていただきたいものです。お嬢様はいつだって全力ですから……」
「そうかしら?」
ただ、何だっていつだって全力モードでないと、これまでやってこれなかったの。
身なりを整えた頃、ノックの音がした。
「ラリサお嬢様、おはようございます」
きれいに整えた爪を早く見せたくて、ドアをパッと開ける。もう少しでレオンにぶつかるところだった。
「見て。とってもすてきでしょ」
指をレオンの目の前に突き出す。
「とても……きれいでございますね」
はしゃぐ私を見て、レオンはクスッと笑う。
「もう、ちゃんと見て。ツヤツヤなんだから」
宿屋の廊下。
レオンはゆっくり私の指先に触れ、そっと握る。そして、それをゆっくりと下ろし、レオンがパッとひざまずいた。
「ラリサお嬢様、指先まで、お美しいです」
ゆっくりと私を見上げるレオン。
時が止まったのかと思った。
春ってこんなに気温が高かったかしら。急に顔が熱くなってきた。
ここがブリンス帝国だからかな。きっと、そうよね。
「お二人とも、早くまいりましょう」
ハッと顔を上げると、廊下の奥からシーナが手を振っていた。
朝食後、エイブリヒ殿下がご挨拶に来てくださった。
「ラリサさん、おはようございます」
「エイブリヒ殿下、おはようございます」
「ぜひ、エイブ、と」
「それでは、エイブ様」
私達は朝食後のお茶を楽しんだ。
昨日ダニー様としたように、これからのブリンス語レッスンの計画について話す。
「語学習得には、目標が必要だと私は考えます。今後、エイブ様は帝都に移られて、マリス学園に編入されるご予定だと伺いましたが、当面は日常会話の習得ということでよろしいでしょうか」
マリス学園というのは、リホンでいうシビリテル学園のような主に貴族の子女が通う学校だ。
私は何かおかしなことを言ったのだろうか。エイブ様はあごに指をそえ、考え込んでいる。
「それでは、足りないな」
ころころと表情を変えられるお人だけれど、こんなまじめな顔は初めてだ。
「それでは早急に、皇族にも対応できるような敬語の……」
「いや、そうじゃない」
私は語学教師としての訓練を受けたことがない。一国の王子様の語学教師をするには力不足なんて言葉でも失礼に当たるだろう。そもそも語学教師は専門職で、母語であっても、いや、母語であるからこそ教授法を知らなければなかなか難しいものなのだ。
今からでも語学教師は辞退した方がいいかもしれない……。
エイブ様が、ゆっくりと口を開いた。
「想う人に、愛をささやけるぐらいにはなりたいものだ」
思ってもみないお答え。
しばらくまばたきしかできなかった。
「愛、でございますか」
「そうだ、愛だ」
私は妃教育で、たくさんのことを習った。でも、愛をささやくための語学なんて、一度も学んだことがなかった。
「それは、とても大切なことでございますね」
妃教育でそうなのだ。オスカー殿下が学んでいた帝王学にもそれはなかっただろう。
「笑うか?」
「まさか。一番大事なことでございます」
もしオスカー殿下が学んでいらっしゃったら、リリー様がシビリテル学園に編入されるまでの数年の間に、一度くらいは私に試してみてくださったかもしれないのにね。
「私も、そう思う」
微笑みを交わしながら、瞬時に事の重大さに気付いた。
だって私、愛のささやき方なんて知らないし、ささやかれたこともないし、恋愛について語り合えるような友達もいなかった。
目標をおうかがいしてから、語学教師を受けるか否か決めればよかったっ!
と思っても、もう遅い。
目の前のエイブ様のニッコリとした笑顔には、今更断ることなんてできなかった。
この日から私は、午前中はリホン語の教材を作り、昼からはイリア語のテキストの調達と、レオンがピックアップしてくれた語学教室の部屋を見て回り、夕方からはリホン語とイリア語のレッスンのカリキュラムを練った。
そして夜は、眠くなるまでブリンス語の恋愛小説を読みふける毎日。
さすが大陸一の帝国。世界各国の恋愛小説の翻訳本もあり、書店には恋愛小説がずらりと並んでいた。
これまで、読むなら専門書ばかりだったので、こういった物語を読むのは子ども時代以来。
「これも、おもしろかったわ。でも、愛を語るフレーズが少なかったかしら……」
楽しんではいるけれど、趣味で読んでいるわけでないのだから、私は小説に「男性が発した愛のささやき」が出る度に書き写していた。けれど、もう何冊も読んでいるというのに、思ったほどたまっていかない。特に初級のブリンス語で話せる「愛の言葉」は、「愛してる」以外なかなか見つからない。
「恋愛小説と一口に言っても、いろいろとあるようでして……」
ダニー様とは、一週間に一度はお会いしていた。
今日は、領主邸に来ている。
イリアの第二王子であるエイブ様のことは、ダニー様はもうご存知だった。なんでも留学手続きをした後、領主邸に挨拶に来たとのこと。
「流行りのものも読んでおりますし、古典と呼ばれるものも目を通しているのですが、うまく教材に取り入れることが難しく……」
エイブ様にリクエストされたブリンス語のレッスン内容を、話していたところだ。
「そもそも、愛なんて私にはまだわからなくて……。本を読むよりカップルにインタビューした方が手っ取り早いかもとは思わないでもないのですが、こういうことは赤の他人には話したくないものでしょう?」
さっきからダニー様は、ずっと笑いをこらえている。
「そんなに私のやり方はおかしいでしょうか?」
「おかしくない。おかしくないけどな。お嬢ちゃんはまじめだなぁと思ってな」
とうとうダニー様は、声を上げて笑いだした。
「それで、俺にできることは何かないのか?」
「やはり、おすすめの恋愛小説をご紹介いただきたく思います。片っ端らから読んでいては、エイブリヒ殿下のブリンス語レッスンをいつから始められるか」
メイドがお菓子を運んできた。フストリド家の紋の焼き印が入った筒状のクレープのようなもので、中にはバニラの香るクリームがつめられていた。
このお菓子、リホンにはなかったけれど、見るからにおいしそう。実は私、大の甘いもの好きなのよね。
「たくさん食べてくれ」
お菓子に見とれる私に気付き、ダニー様がすすめてくださった。
スイーツに見入る令嬢だなんて、はしたなかったかも……。でも、もう私は少なくとも王太子の婚約者じゃない。
「では、遠慮なくいただきます」
サクサクとした触感。中の絶妙な甘さのクリームが口の中で広がって、最近の疲れが一気に飛んでいくような心地だった。
「うまいか。うちに住めば、毎日食べられるぞ」
「とても気に入りましたが、毎日なんて食べたら手持ちのドレスがどれも入らなくなってしまいます」
ただでさえ、国を出てから少し太ったような気もするのに。
「そうなったら、ドレスを買い直そう」
「ダニー様、私を甘やかさないでくださいませ」
今日、シーナは領主邸のキッチンでブリンス帝国の食材について厨房で教えてもらうと言っていた。レオンは私がダニー様と話す間、領主邸の訓練場で剣の修業に励むとのこと。
「恋愛小説なら、俺の妹が好きだったはずだ。俺よりずっと適任だろうから、紹介するぞ」
確かに、頼んでおきながらダニー様が恋愛小説を愛読しているイメージはなかった。
「妹君がいらっしゃったんですね」
「イザベルといってな、年は俺より五つ下だから、お嬢ちゃんより一つ上だったか。今や俺のたった一人の家族だよ」
たった一人の家族。
ということは、ご両親はもう……ダニー様のご両親ならまだまだお若いはずなのに……。でも、まだ私はそこまで聞けない。そしてダニー様って、二十四歳だったんだ。
しばらく最近のブリンス帝国のことなどをおうかがいしていると、ノックの音がした。
「来たな」




