十三、 もうお休みなさいませ
「お嬢ちゃん、うちに来ないか」
ダニー様の、静かな声。
「領主邸に、でございますか」
「この宿屋も悪くないが、うちの方が気兼ねなく暮らせると思ってさ」
普通は、領主邸より宿屋の方が気兼ねないはずなんだけど。
「俺が後見人になれば、この町ではやっていきやすいぞ」
願ってもない話だった。けれど……、
「ですが、私はお返しできるものが何もございません」
「なに、俺の語学の先生になってくれれば、それでいい」
領主邸に滞在すれば、ダニーさんの空いている時間にすぐにかけつけて語学を教えることができる。言葉は、できるだけ毎日、それも何度も見聞きする方が定着が早いのだ。それに、この宿屋にいるよりもシーナとレオンの苦労も減るだろう。でも……。
「それではいただくものと、とうてい釣り合いません」
「俺はお嬢ちゃん達が気に入ってる。それだけだよ」
まだ知り合って数日。
ダニー様の瞳はどこまでも澄んでいて、とても私達を騙そうだとか思っているようには見えなかった。だからって……。
「せっかくですが、お気持ちだけ頂戴いたします」
だからこそ、私もごまかさずまっすぐダニー様に応える。
「私のような身の上の者にお心をかけてくださり、とても嬉しく思います。ですが、私は自分の力で生きていきたいのです。もちろん、私一人でやっていけるとは思っておりません。周りに助けていただかなくては何も成せません。けれど、できるところまでは、誰にも甘やかされずにいたいのです」
ダニー様は、しばらく腕組みをして黙り込んだ。
こんなによくしていただいたのに、これ以上ないお話なのに、怒らせてしまっただろうか。
「船の上で、泣いてたのにな」
「な、泣いてませんっ」
昨日も言われたけど、そんなに目立っていたなんて。
「もうそんな目ができるとは、お嬢ちゃんは強いな」
「目、でございますか」
「自由を夢見る目、だ」
自由を夢見る、目。
「自由、でございますか」
自由と言えば、私は今、これ以上もなく自由だ。
けれど、気を抜くとすぐに何かにとらわれてしまう。どこかにすがりつきそうになる。
「いい響きですね」
それがいい気分にさせてくれるものであったとしても、自分で選び取ったものでないと、もう私は嫌だ。
「わかったよ。でも、やっぱりリホン語は教えてくれ。報酬は、一回この宿屋一か月分でどうだ」
「それでは、この宿屋に何年住むことになるやら……」
一回のレッスンではいただきすぎではあるかと思ったけれど、もうこれ以上は言わないでおこう。外国では、リホン語のレッスンなんてものはそもそもないに等しいのだから、お金に換えられない価値がある。
「お嬢ちゃんを、いや、先生を長くベリーに引き留めたいからな」
こうして私は、ベリーの領主であるダニエル・フストリド様の語学教師となった。
私達は、今後のリホン語レッスンの計画について話した。
レオンに教えた経験があるものの、そもそもリホン語の教授法もまともな教材もない。
テキストはお父様からの本があるけれど、ダニー様にはやさしすぎる。ということで、まずは私がダニー様を対象とした上級リホン語のテキストを作るところから始めなければならない。
「準備ができたら教えてくれ。準備に必要なものもな」
最後にダニー様はこう言って、部屋を出ていった。
気さくで、器も大きく、誰もに好かれる人。
もう一人兄ができたような、そんな気にさせてくださる方。
これで、よかったよね。
ため息を一つつき、それを吸い込むように大きく息を吸う。
「これから忙しくなるわね」
こうつぶやいていると、隣の洗面室から、シーナがやっと顔を出した。
「領主様、お帰りになったんですか?」
「今、お帰りになったわ。私にもお茶をお願いできるかしら」
「はい、少々お待ちくださいませ」
シーナは両手いっぱいにドレスがかかったハンガーを持っている。
「シーナがアイロンだなんて、めずらしいわね」
「リホンとはちがって、こちらは生活用水がそんなにきれいじゃないらしいんです。なので、洗濯ものは下着から上着まで、できるだけ最後にアイロンをして熱消毒した方がいいと酒場のミリーが言っていました」
街並みや衣装が似ているからと言って、やっぱり異国なのね。シーナは学園の寮にいる時、断固として自分でアイロンはせず、私の制服は全部クリーニング店にまかせていたのに。
「新生活が始まりましたし、苦手なこともちゃんとできるようになろうと思いまして」
「シーナ、ありがとう」
ちょうどその時、ノックの後レオンが帰ってきた。
「この宿屋からダニー様が出ていらっしゃるのをお見かけしたのですが、いらっしゃってたんですか?」
レオンも両手いっぱいに紙袋を抱えている。
「今後の語学レッスンについて、話し合っていたの」
「僕もラリサお嬢様に、もう一度教わりたいです」
「レオンはもう、必要ないわよ」
レオンの紙袋の中から、頼んでいた紙と羽ペン、インクを受け取る。
「これから数日は、テキスト作りに専念させてもらうわね」
「それでは私は、その間、イリアの王子様のためのブリンス語のテキストをいくつか書店で見繕っておきますね」
ブリンス語のテキストは、その辺の書店にでも多くあると、レオンから聞いていた。さすが多くの移民を受け入れてきた歴史ある大国だ。自国の言語教育も盛んな様子。
「お願いするわね」
ブリンス語が母語でないシーナに任せておけば、テキストの種類が多くても今回は大丈夫だろう。
エイブリヒ殿下とも、これからのレッスンの計画を決めなければ。同じ宿屋に滞在しているんだから、また明日、朝食の席でお会いできるよね。
「では僕は、語学教室で使用する部屋の確保を急ぎます。広さなどは、どういたしましょう?」
「語学教室?」
シーナと私は、同時に声を上げた。
「語学教室を開くなら、場所が必要でしょう?」
「語学を教えることは教えますが、語学教室だなんてそんなたいそうなものを開こうなんて考えてなかったから……」
でも、そうよね。
私が足しげく領主邸に通ったりしたら、どんな噂が立つかわからない。ダニー様に迷惑がかかってしまうのは目に見えている。
エイブリヒ殿下とだって、お部屋にうかがうのももちろん、未婚の私の部屋にしょっちゅうお呼びするわけにもいかない。どこかのカフェでお教えするとしても、護衛を何人も連れてだと目立ちすぎる。
「いい考えだわ、レオン」
もういっそ、「語学教室」として看板を出してしまえば、堂々と殿方にお会いすることもできるし、もし他の生徒を見つけたとしても、すぐに対応できそうだ。
「そうね、広さはともかく、できるだけ日当たりのいい部屋がいいわ。あと、ダニー様にお願いして黒板も置きたいわね。壁には世界地図を貼って……、リホン語とイリア語のアルファベットの表も用意しないと」
もし、うまく語学教室が運営できれば、私とシーナとレオンの三人がこれから食べていくぐらいは生活費を稼げるかもしれない。
「なるべく広い部屋がよろしいのでは? ラリサお嬢様の語学教室なんですから、きっと評判になって生徒が押し寄せますよ」
と、シーナ。
「最初は、そんなに広くない部屋がいいわ。生徒さんとの距離が遠すぎると、日常会話の練習がしにくいでしょ」
ほんとは、おそらく小さい部屋の方が、家賃がかからなそうだからだけど、そんなことを気にしているとシーナに知られては、「私が外で働く」と言いかねない。
シーナはドレスなどをクローゼットにしまい、今度はレオンの紙袋を全部テーブルにひっくり返した。
「あれ、レオン、これは何ですか?」
シーナがテーブルから手に取ったのは、コロンとしたフォルムの小さな瓶だった。
「そ、それは……最近、帝国の貴婦人の間で流行り始めたというものだそうです……」
レオンが女性のものを買うなんて。恋人へのプレゼントでも選びにきたと、店員には思われたのかな。
「それで、こちらはどうやって使うものなのですか?」
「爪を手入れするものだとか、言っていました……」
シーナが瓶のふたを開け、私に見せてくれた。中には、蜜蝋クリームが入っている。ほんのり甘い香りもした。
「そういえば、ミリーが爪を磨いたり色を染める仕事に就きたいとか、話してました。今、爪を染める……マニキュアってのが人気だそうですよ」
シーナ、いつの間にそんなにミリーと仲良くなったのよ。
「これで爪がきれいになるのね。この国の流行りなら、やってみたいわ」
その夜の入浴後、シーナにクリームを使って磨いてもらった。
「きれいね。流行るのもわかるわ」
爪は艶やかなピンク色になった。
リホンにはまだ、ない文化だ。後で知った話、舞台女優にあこがれた帝国の上級貴族が広めたそうだ。
「レオン、ラリサお嬢様に元気になってほしかったんでしょうね」
私の小さな爪を、宝石みたいとうっとり眺めながら、シーナが言う。
「私、元気なかった?」
しばらくの、沈黙。
「ラリサお嬢様、ゆっくり元気になっていいんですからねっ」
自分では、明るくやっているつもりだったんだけどな。
「それにしても、こんな贈り物をするなんて、レオンは本当にお嬢様が大好きですね」
「そりゃあ、大事なお姉ちゃんだもんね」
私の言葉に、シーナはフッと笑い、
「もうお休みなさいませ」
と、言った。




