十一、 ここに留学しよう
男の部下が戻ってきた。
何やら男と話している。
「隣の宿屋より、貴女が紹介してくださったところの方がよさそうだ。主にはすぐに移っていただく」
どうやら状況が把握できたようだ。
男は「世話になった」とだけ言うと、部下と共に酒場を去って行った。
主って、どんな人だろうな。
会うこともないだろうけれど。
「ラリサお嬢様、お見事でございます」
レオンのホッとしたような声。
後から聞いた話、さっきのイリヤ人の男は、相当な剣の使い手のように感じたとのこと。公爵家の騎士団長に匹敵する腕前のレオンが言うのだから、そうなのだろう。
「お嬢ちゃん、助かったよ」
ダニー様はそう言って、いつの間にか手にしていたエールを飲み干した。
「お嬢ちゃん、時間がある時に俺にイリア語、教えてくれないか? それと、リホン語の敬語もさ。リホン王国の貴族達相手に商売するのにはどうしても敬語が必要なんだが、いい先生も参考書もないもんで困ってたところなんだ」
マスターが、おごりだと言って私にワインを持ってきてくれた。受け取ると、グラスから上質のぶどうの香りが鼻に押し寄せてきた。
「私のイリア語なんて、教えるレベルにはとても達しておりません。リホン語は……母語ですからそれなりに……ですが」
一応、妃教育を受けていましたからね。
「じゃ、決まりだなっ」
「ラリサお嬢様、よろしいのですかっ?」
領主だと素性がわかったのに、まだレオンはダニー様が気に入らないのかな。
「君のリホン語、お嬢ちゃんに教わったんじゃないのか?」
もう少しでワイングラスを落とすところだった。
レオンのリホン語は、ネイティブの私が聞いても完璧だ。公爵家ではレオンの事情を知っている使用人もいたけれど、成長してからは公爵家の中でもレオンが元外国人だと気付いた人は、一人もいない。
見ると、レオンもショックを受けたのか、声を出せないでいた。
「ダニー様、いえ、ダニエル様、どうかそのことは口外しないでいただけないでしょうか」
手のグラスが、ブルブル震えていた。リホン王国に不正に入国したということが知られれば、例え今は帝国にいるとしても、身に危険がある。
「言わねぇよ。俺が言いたかったのは、お嬢ちゃんがいい先生だってことだ。それから、呼び方はダニーのままでいい」
「どこでお気付きに? レオンのリホン語で、外国人特融の癖などがあるのでしょうか?」
「いや、アクセントの付け方が、お嬢ちゃんそっくりなんだよ。たくさん聞いて、何度も頭の中で反芻したんだろうな。親子がそうなるってのは多言語でもよく聞く話だ」
レオンの小さなため息に、ダニー様は彼の肩をたたいた。
レオンのリホン語を聞いただけで、私達の関係がわかったなんて、驚きだ。レオンは私の子どもじゃないけれど、親代わり……とまではいかなくとも家族のようなものであることはまちがいない。ある意味脅威だ。
レオンは口のはしをきゅっと結び、たたかれた肩をなでた。
振り向くと、シーナはテーブルで酔いつぶれていた。
レオンがシーナをかつぎ、私達は宿屋に帰った。
「シーナさん、ラリサお嬢様の身の回りのお世話、どうするんですか」
起こそうとするレオンの手を、そっと止める。
「私はどうとでもなるから、シーナは寝かせてあげて」
私のキングサイズのベッドで、口を開けて眠っているシーナ。いい夢を見ているのか、時折フフフと笑っている。
「楽しかったみたいね」
「そうみたいですね。それではラリサお嬢様、おやすみなさいませ」
レオンが部屋を出ていき、私は一人、シーナの横に座った。
窓からは、爪の先のような月が見えた。
そうだ。
ベッドから立ち上がり、かばんの奥から茶色い包みを取り出す。
出発する時にお父様からいただいたものだ。
そっと開く。
中には一冊の革表紙の分厚い本と、封筒が一通入っていた。
まずは手紙から。
お父様の達筆が数行並んでいる。
〈この本は、私が書いたリホン語の本だ。おまえがレオンに教えていたのを参考にしながら、文法を中心に研究したものをまとめている。知っての通り、リホンでは母国語の言語学者は異端扱いだからな。くれぐれも取り扱いには注意してほしい。テキストとしてはまだまだ足りないが、これがおまえの助けになることを願っている。どこにいても、おまえの無事を祈る。〉
リホン語のテキスト。
お父様のおっしゃるように、リホン人は母国語を研究することを禁止されている。リホン語を聖なるものとすることで、外部への流出をできるだけ避けるためだ。こんな本を執筆したなんてことが王家に知られたら、即刻、家族そろって牢獄行きだ。
何度も、何度もお父様からの手紙を読み直す。お父様はどんな気持ちで、この公爵家の封蝋を落としたんだろう。もっと、もっと、お父様と話をすればよかった。しようと思えばいくらでもできただろうに。
私も、どこで何をしていても、お父様を想います。
今の私に、こんなに心強いプレゼントはありません。
それにしてもお父様ったら、私がレオンに教えるところ、いつの間に見てたんだろう。こんなことを考えながら、そっと本を開く。
お父様の、執務室の匂いだ。
今日から私の、新しい宝物。
大切にしなくっちゃ。
朝が来た。
シーナより早く目が覚めた私は、そのままベッドでぼんやりしていた。
そして半時間経った頃、シーナがむくっと起きた。
「ラリサお嬢様、申し訳ございませんっ」
シーナは事態を瞬時に理解したようだ。
「昨夜はとんだ醜態をさらしてしまい……」
「シーナ、いいのよ。あなたもたまには羽を伸ばさなくっちゃ」
「ラリサお嬢様、おやさしい……」
シーナは二日酔いで頭が痛むのか、こめかみを指で押さえた。
「もっと寝ていてもいいのよ?」
「とんでもございません。すぐに水をくんでまいりますねっ」
そんな無理しなくてもいいのに……と思ったけれど、ここはシーナの好きにしてもらおう。
朝食のテーブルで、二人にお父様からの贈り物について話した。
「公爵様ったら、そんな研究までされていたんですね」
シーナは今日も、フルーツを口に次々と運んでいる。
「そのテキスト、僕も拝見したいです」
「ぜひ、レオンの意見も聞きたいわ。これからダニー様にリホン語を教えることになりましたし」
「領主様に? いつの間にそんな話になってたんですか? 私、聞いてないです」
「シーナは、寝ていたからね」
三人で笑い合っていると、給仕の人が近付いてきた。
「お客さんに挨拶したいと言ってる人がいる。どうする?」
給仕の言葉は、なんとイリア語だった。つたなくて接客には向かないけれど、かろうじてわかる。
なぜブリンス語ではなく、イリア語?
それに、ご挨拶って?
「どなたかしら?」
とりあえず、イリア語で返す。
「あっちにいる人です」
給仕の視線の席に目をやると……そこには、昨夜の深緑のフードの男とその部下、そして同じ身なりなのに他の者とはあきらかに雰囲気がちがった人が立ち並んでいた。あの人が、きっと主だろう。
なるほど。給仕は私もイリア人だと思ったわけね。
会釈を一つすると、男達がやってきた。
「お食事中に失礼いたします。昨日はうちの者が大変お世話になったようで、お礼を申し上げたくまいりました。その上、イリア語が話せる給仕のいる宿屋をご紹介くださって、ありがとうございました」
主と思われる人は、そうゆっくりとしたブリンス語で述べ、深緑のフードを取った。
フードと同じ、深い森を想わせる緑の髪の美男子だった。
そして、おそらくイリア式のお辞儀をしてくれた。
「わざわざありがとうございます。大したことはしておりませんので、お気になさらないでください」
イリア語で返すと、ホッとした顔をしている。
彼が、私に一歩距離を縮めた。隣でレオンが立ち上がりそうなのを、視線で止めた。
「貴女の髪は、私の目の色と同じですね」
彼の口から出たのは、今度はイリア語だった。
彼の瞳の色は、夜空のような黒だった。吸い込まれそうなその瞳に自分の姿をとらえると、急に恥ずかしくなってきた。こんなにまじまじと見つめては、失礼だったかもしれない。
「決めた」
「何をでございましょう?」
昨日の侍従の男が、主をうかがう。
「ここに留学しよう」
「ブリンス帝国に、でございますか?」
「そうだ、この国だ」
後から聞いた話、彼は自分の留学先として適切な国を、方々を旅して探していたとのこと。




