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十六夜神社の於雪さん

作者: 戸倉谷一活

 編集履歴に寄りますと二〇二三年二月十九日にこの物語を書き始めています。それよりも前に何かがあって雪女へ興味を持ったのでしょうが、その「何か」が何であったのか、さっぱり覚えていません。

 また主役の於雪さんですが、皆さんが思い浮かべる雪女とは若干違うかもしれません。そこは創作なので見逃して貰えれば助かります。

 十六夜地区。

 東北六県のどこかにある四方を山に囲まれた、過疎の進む集落、それが十六夜地区です。

 十六夜地区と外を繋いでいるのは峠道一本だけですが、その峠道は道幅も狭く、勾配もきついのでいくら自動車の時代になったとは言え、余程の用事が無い限り、わざわざ十六夜地区へ来る人は少ないです。

 逆に十六夜地区から峠の向こうに行こうとしたら自家用車で行くか、日に数本しか来ない路線バスに乗るしか有りません。その路線バスも最寄りの鉄道駅まで約一時間掛かりますし、鉄道に乗っても県都まで三十分以上乗らないといけませんから十六夜地区に住む人の中には一年以上十六夜地区から出ていない人もいます。

 十六夜地区には小さいながらも商店もありますし、多くの人は畑を持っていますから野菜には困りません。週に一回か二回は行商人が肉や魚の販売に来ますから集落の外へ買い物へ行かなくても必要最低限のものは買うことが出来ます。

 その十六夜地区の中心となる場所には十六夜地区自治会の公民館があり、公民館の隣には小さな神社、十六夜神社があります。

 鳥居をくぐるとすぐ右手に手水舎、左手には社務所、そして気持ちばかりの参道を歩くと拝殿、その奥には小さな本殿があります。神社としては必要最小限の面積しか有りません。

 公民館と神社の前はちょっとしたロータリーになっており、路線バスはこのロータリーを使って方向転換をします。ロータリーを囲むようにして集落で唯一の商店が有ったり、公衆電話や数台の自動販売機、郵便ポスト、十六夜公民館前のバス停留所の標識とベンチに屋根、十六夜地区消防団の車庫、夏祭や秋祭に使う大道具、小道具が仕舞われている倉庫などがあったりします。

 またお盆に前後した夏祭り、稲刈りの時期の秋祭りにはロータリーの真ん中にささやかな櫓を建て、集落の人達は夜遅くまで楽しみます。

 ちなみにお祭りの時、路線バスは集落の入り口で運行を終え、狭い路地を使って半ば強引に方向転換を行います。


 八月に入り、そろそろ夏の甲子園の話題が取り上げられるようになろうか、その様なある日、公民館の縁側では沓脱ぎ石の上に使い込まれたたらいが置かれていました。そのたらいの中には氷水が八分目ぐらいまで入っており、そこへ一人の少女が両足を浸しています。

 その少女、年の頃は十八歳かその前後に見えますが、実際の年はよくわかりません。白い浴衣に薄紫の帯を締めています。白い浴衣は一見すると無地のように見えますが、実際には江戸時代の大名である土井利位が研究、記録した雪華模様が銀糸で刺繍されています。

 ほとんど目立たないので多くの人は真っ白な浴衣を着ていると思っています。


 公民館の前に路線バスが停まります。公民館からバス停のあるロータリーが直接見えるわけではありませんが、いつものように音が響いてきます。

 乗客を全て降ろし終えたあと、運転手は車内を一巡し、エンジンを切り、バス停にあるベンチに座って煙草に火を着ける。それが平日、この時間を担当している運転手の日常、もしかするとバス停の横にある自販機で缶コーヒーを一本ぐらい買っているかもしれません。

「あら、於雪ちゃん、ここに居たの」

 五十代後半とおぼしき女性が買い物袋を両手に抱えて公民館の敷地に入ってきます。

「こんにちは」

 於雪と呼ばれた少女はたらいの上で立ち上がり、軽く会釈をします。

「あら、気持ちよさそうね」

 たらいに入っている氷水を見て女性は言います。

「入ります?」

 於雪はおばさんに尋ねますが、おばさんは「帰って、夕飯の支度しなくっちゃ」と言いながら縁側に買い物袋を置き、「どっちだったかしら」と言いつつ、中身を確かめています。

「あったわ」

 買い物袋から箱を一つ取り出します。

 アイスキャンディー六本入り。

 これを見た瞬間、於雪の表情はまるで子供のように嬉しそう。

「役場まで行ってきたの。その帰りにね、スーパーで買い物したんだけど、あんたのこと、思い出して、買ってきたのよ。溶けてなかったら良いんだけど」

 おばさんが話しながらアイスキャンディーの箱を於雪に手渡します。

「ありがとう」

 受け取るが早い、早速蓋を開けて中から一本取り出します。

 ラムネ味。

 個包装を開封、口に入れます。

「おいしぃ~」

 於雪、とても嬉しそうです。

 おばさん、縁側に置いた買い物袋を持ちながら「そう言えば、宮司さん、見付かったんかい」と於雪に訪ねます。

 於雪はアイスキャンディーを咥えたまま首を左右に振ります。

「こんな、何も無い集落じゃ、誰も来ないよねぇ」

 十六夜神社、実は何年も宮司がいない状態が続いています。必要に応じて近隣の神社から神職を招き、祭司を執り行っていますが、その都度近隣の神社に連絡して神職を招くわけですから手続きだけでも大変ですし、十六夜地区の歴史などもどこまで理解しているのかわからない神職が祝詞をあげても十六夜地区の人達からすれば今一つ感情移入が出来ないでいます。そうかと言って十六夜地区の出身者で神職の資格を得ようとか、その様に考える人もおりませんし、若い人の多くは都会の大学へ進学し、あれこれ便利の良い都会へ住むことを考えます。

 おばさんも帰っていき、縁側で一人アイスキャンディーを咥えたまま於雪は真横に置いたアイスキャンディーの箱に目を向けます。

 残り五本、公民館の台所にある冷蔵庫の冷凍室に入れたいのですが、両足は氷水の入ったたらいの中、わざわざ足を拭いて台所へ行くのが面倒です。

 於雪、じぃっとアイスキャンディーの入っている箱を見つめているととても薄くですが、箱に氷が張りました。

「フッ……」

 於雪、とても小さくですが、笑みを浮かべました。


 その日の夜、於雪は公民館の居間でテレビを観ていました。アイスキャンディーは最後の一本を咥え、毎週楽しみにしている旅番組を観ていました。

 その旅番組、案内人の男性が日本各地、時々日本を飛び出して海外の名所旧跡を巡るのですが、番組の流れは前半三十分で名所旧跡を紹介、残り三十分でご当地料理や酒類を紹介するのですが、毎回案内人の男性がほろ酔い加減、ご機嫌なまま番組が終わります。於雪はこういう番組の流れが性に合っているようです。

 どこからともなく妙な音が耳に入ってきます。改造したマフラー音、暴走族か何かが峠を越えて十六夜地区に入ってきたようです。

 バイクは合わせて六台、その内二人乗りが二台、公民館前のロータリーにバイクを停めて時間などを気にせず、マフラー音を楽しんだり、大きな声で会話したりします。

「言っただろ。峠越えたら涼しいって」

 八人は全員二十歳前後、中には煙草に火を着けている者もいますが、果たして二十歳を過ぎているのか、怪しいところです。

「俺のばあちゃんが、ここの出身なんだけど、夏でも涼しいって、話してたよ」

「明日も来るか」

「でも、何も無いぞ」

 飲み終えた缶コーヒーの空き缶をその辺に投げ捨てます。当然、煙草の吸い殻も足下へ捨てます。

 十六夜地区自治会の会長は自宅の電話を使って警察へ連絡します。

「すみません。十六夜地区の公民館前のロータリーに暴走族か何かが集まって、うるさいんです。なんとかして頂けませんか」

 応対した警察署の署員は「巡回中の署員を送りますので、しばらくお待ちください」と答え、無線でパトカーに十六夜地区へ向かうように指示します。

「間に合えば、良いが……」

 会長さんはそう独り言を言うと布団に入ります。同じように十六夜地区では多くの人が何かを恐れるかのように布団の中へ入っています。

 公民館ではテレビも電灯も消され、於雪の姿は十六夜神社本殿の中にありました。しかも髪は逆立ち、鬼の形相で本殿の外、ロータリーの方を睨み付けています。しかし、若者八人がそれに気付くことはありません。

 急に街灯が点滅します。そして全ての街灯が一分ほど消えます。同じ時、十六夜地区の全戸でも同じことが起きていましたが、八人が知るところではありません。

 そして。

「なんか、冷えていないか」

 八人の中の一人が言います。

 他の一人が「八月だぜ」と答えますが、実は肌寒いとも感じていました。

「なんだよ、これ」

 座り込んでいた一人が声をあげます。足下を靄とも霞とも見える何かが漂っていました。残る七人も足下を見ます。

「霧かよ」

 そう言いながら自分の息が白くなっていることに気が付きます。

「もう、行こうぜ」

「気持ち悪いしな」

 そう言いながらバイクに跨がりエンジンを始動させようとしますが、何故かエンジンは始動しません。

 否、さっきまで空ぶかししていたはずなのにいつの間にエンジンは止まっていたのでしょう。

「寒い……」

 そう言って一人がしゃがみ込んでしまいます。

「立てよ」

 他の一人がそう言いながら腕を引っ張って立ち上がらせようとしますが、立たせようとした当人も座り込んでしまいます。

「なんだよ。なんなんだよ」

「救急車。救急車呼ぼう」

 そう言ってスマートフォンを取り出しますが、何故か圏外となっています。

「なんでだよ」

 目の前に公衆電話があるにも関わらず、誰も公衆電話を利用して救急車を呼ぼうという発想には至りませんでした。そもそも公衆電話を使ったことが無い世代です。緊急時には無料で使えることを知らないことでしょう。

 祖母が十六夜地区の出身と話していた少年が何かを感じて振り返ります。

 鳥居の向こう、幼稚園の頃に絵本で読んだのと同じ雪女が立っていました。髪は逆立ち、鬼のような形相、何よりも瞳が濃い紫色に染まって怪しく光っています。

 それを見た瞬間、少年は正気を失い、大きく雄叫びのような声をあげたあと、その場に座り込みます。その声は自治会長の耳にも届きました。会長は布団から出て着替え、懐中電灯を持ってロータリーへと向かいました。

 パトカーが十六夜地区のロータリーに着いた時、そこには地区の人達が十人以上集まっていました。

「大丈夫ですか」

 パトカーから降りてきた警官は二人、一人が住民に声をかけます。

「さっき、救急車を呼んだから、来るとは思いますが……」

 住民の一人が警官に話しますが、峠の向こうにある消防署から救急車が来るのにどれだけの時間が必要か、それはわかりません。それに合わせて八人をまとめて運ぶことも出来ません。

 七人は額がとても熱くなっていますし、逆に身体はとても冷えています。消防団の車庫から使えそうな毛布を取りだして七人にかけています。もちろんそれだけでは足りないので近隣の家庭からも毛布やタオルを提供してもらっています。冷やした手ぬぐいを額に乗せたり、枕の代わりにタオルなどを使っています。残る一人は譫言を繰り返し、時折、頭や両腕、両脚をばたつかせたりするので危なくて仕方がありません。しかし、力尽くで押さえつけるわけにもいかず、住民は困っています。

「あそこに運び込むわけにはいきませんか?」

 もう一人の警官が公民館へ目を向けてつつ、近くにいた住民に尋ねます。自治会長が即座に「消防署の人から、動かすなって言われたんです」と答えます。これは事実だが、公民館には非常時用の毛布があり、それを取りに行こうとした時、公民館の玄関は鍵穴に氷が詰まっており、玄関自体も薄く氷が張っていたのです。そして玄関の内側、明らかに誰かが立っているような影が見えました。

 自治会長はロータリーへと戻って集まっている住民に「公民館に近付いたら駄目だ」とだけ伝えました。皆、黙って頷くだけで何も言いませんでした。

 警官二人はオートバイのナンバーから八人の身元を調べられるか、それを試すために無線を使って警察署と連絡を取り合っています。そこに救急車が到着、救急隊員が八人の応急処置に入りますが、隊員の一人が「どうなっているんだ、これは」と声を荒げます。当然、誰にも説明は出来ません。

 高熱を発している七人には解熱剤が投与されますが、簡単には効果が現れません。残る一人にも鎮静剤が投与されますが、こちらも即効性があるわけではありません。それに一台の救急車で八人全員を運べるわけでもありません。

 結局、応援の救急車も加わって八人全員が近隣の病院へ搬送され終えたのは日付が変わる前後のことでした。

 自治会長や住民は使った毛布などを取り敢えず消防団の車庫へと片付け、「細かい片付けは明日にしよう」と言う会長の意見に従って帰宅しました。

 二日ほどして警察がバイク六台を引き取り、ようやく十六夜地区は日常を取り戻した感じがします。


 今年も例年通りに盆踊りが開催されました。

 ロータリーの真ん中に櫓が組まれ、太鼓やマイク、スピーカーなどが乗せられます。

 お盆には多くの人が十六夜地区へと帰ってきます。お正月は雪で峠道が不通になることも多く、年末年始の十六夜地区は案外、静かだったりします。

 十六夜地区の夏祭は二日間、昼過ぎから屋台なども営業を始めますが、峠の向こうから業者が来ることはほとんどありません。

 焼きそば、焼き鳥、イカ焼き、かき氷、ポップコーン、ビールにジュース、射的にヨーヨー釣り、その全てが地区の人による手造り屋台です。

 毎年春になると夏祭、秋祭についての会議が始まるのですが、毎回「去年と一緒で……」となってしまい、まともな会議は何年も行われていません。

 祭の予算は村から援助も出ますが、多くは自治会費で賄われています。赤字も出なければ黒字にもならない、ちょっぴり不思議なお祭りです。

 十六夜地区には小さな旅館が一軒だけあります。昔は峠の向こうから来た行商人や医師、大工などが利用していましたが、自動車が普及して誰でも峠の向こうへと自由に行き来出来るようになると旅館を利用する人は減っていき、今ではお盆と年末年始程度しか利用者がいない状態です。

 折角帰省しても既に家屋を手放している人、親戚一同が帰省して寝る部屋が割り当てられなかった人などが旅館を利用します。しかし、旅館と言っても中身は民宿のような感じですから初対面の人同士で朝まで飲み明かすと言うことも珍しくはありません。旅館の経営者一家や他の宿泊客からしてみれば迷惑な面もありますが、これも帰省の楽しみにしている人も居ますから注意はしても怒ることは出来ません。

 夏祭、夜八時に終了となるのですが、毎年二日目の夜七時頃から何故かジェンカが始まり、約一時間老いも若きも踊り狂います。

 誰が村祭りにジェンカを持ち込んだのか、年配の人に伺うと「於雪さん!」と於雪を指差します。於雪さんがいつどこでジェンカを知ったのかは謎ですが、余程気に入ったのでしょう、「ジェンカを踊ろう!」という謎なルールを勝手に決めてしまいました。

 今年も夏祭が始まりました。

 初日の昼下がり、三々五々地区の人達が集まってきます。先祖の墓参りを終えた人、これから墓参りをする人、それぞれですが、皆一度は夏祭の会場を通ります。

 いわゆる八〇年代から夏祭、秋祭には「ドラえもん音頭」と「アラレちゃん音頭」が定番になっていて今年も昼間から流れています。

 さすがに昼間から踊る人は居ませんが……

 使い込んだテントの下、自治会の会長さんたちは真っ昼間から缶ビールなどを飲み始めています。しかし、何か起きたら真っ先に駆け付ける立場ですから酔い潰れるわけにはいきません。一本か二本飲んだ後はお茶やジュースと言ったところでしょうか。

 十六夜地区の中心であるロータリーは完全に歩行者天国と化し、子供たちは走り回り、久しぶりの再会を喜ぶ大人たちがいます。

 さて、於雪さんはと言うといつものように白い浴衣と薄紫の帯を締め、素足にビーチサンダルという出で立ちで「十六夜地区夏祭本部」の垂れ幕がぶら下げられているテントに来ます。

 いつもと違う点と言ったら五歳ぐらいの男の子の手を引いていることでしょうか。

「於雪さん、その子、誰?」

 テントの下に居た男性の一人が尋ねます。

「近所の子だよ。ご家族が忙しいって言うから、預かっているの」

 於雪さん、とても嬉しそうに話します。

 最近、都会から若い夫婦が十六夜地区へと引っ越してきました。過疎化が進むので村が空き家対策も含めて村内への移住促進を行ったので応募してきた夫婦の一組でした。しかし、十六夜地区には就職先もありませんし、結局は毎朝峠を越えて地区の外へと通勤しています。その結果、幼稚園が休みの夏休みは誰かが子供を預からなくてはいけません。しかし、十六夜地区には託児所もありませんし、「どうするか」となった時、於雪さんが預かると言うことで決着したわけです。

 十六夜地区に託児所や保育園があれば良いのですが、需要がないので誰も経営しません。峠を越えれば託児所はありますが、預けるのは当然有料ですし、於雪さんならば八時間でも実質無料です。

 細かい話は横に置いておきましょう。


 お盆と夏祭が終わると十六夜地区の公民館は賑やかになります。

 十六夜地区には学習塾という物がありません。託児所と一緒で峠を越えて近隣の地区に行けばあるのですが、親も忙しくて送迎が面倒とか、塾の費用が惜しいとか、各家庭の事情で塾に通わない子が一定数居ます。その子らは公民館に集まって勉強会を開きます。要するに溜まりに溜まった夏休みの宿題を皆で片付けようと言うだけの話ですが、自分達で教え合う姿は結構微笑ましい物があります。

 中には誰かの宿題を書き写すだけで必死という子も居ますが、書き写すことを頑張っているのでそこは評価してあげましょう。

 於雪さんも教える側に居るのですが、どうにもこの人の学力は怪しく、周りがビックリすることがあるそうです。

 そう言う夏休みもそろそろ終わろうかというある日のこと、いつものように公民館で勉強会が開かれ、於雪さんは子供たちに御茶やお菓子を出したり、お世話係で忙しく過ごしていました。

「おねーちゃん、神社にお客さん来とる」

 遅れてきた小学生が言います。

 於雪さんは「ありがとう」と言い、玄関でビーチサンダルを履いて神社へと向かいます。

 老婦人が一人、賽銭箱の前で土下座をしています。鳥居をくぐったところで於雪さんは立ち止まり、「ようやく来たか」と言いますが、その声質は普段と違い、完全に魔性の声です。

「申し訳ございません。事情がわからず、遅くなりました」

 老婦人の声は震えています。

 於雪さん、「それで、私に何を求めている」と老婦人に問い掛けます。

「孫を、孫を助けて下さい」

「孫が、どうした?」

 於雪さん、意地悪にも問い返します。

「あの、孫を、孫を」

 老婦人、繰り返すだけです。

 実は老婦人、一か月前に神社の前で騒いだ若者の中に孫が居たのでした。

 当初、孫が原因不明の病でうなされていると聞いて足繁く見舞いへ行ってましたが、断片的に聴いた話を繋ぎ合わせるとどうにも孫に非があるようですし、なによりも現場が十六夜神社の前ともなれば於雪さんが関わっているのは間違いないことです。

 答えを得ると即老婦人は十六夜へとやってきました。

 この老婦人も出身は十六夜、結婚して十六夜を離れてからはほとんど帰郷していませんでした。

 嫁ぎ先と言っても自治体で言えば隣接する市ですし、いつでも帰ってこれるのですが、この老婦人も若い頃から都会に憧れていましたし、交通の便が悪い十六夜からは早く出て行きたいと考えていました。

 それ故に結婚して十六夜を離れてからはあれこれ理由を付けては帰郷しませんでした。そうは言っても親兄弟の冠婚葬祭には帰っていましたが、盆や正月は嫁ぎ先を優先していましたし、いつの間にか親戚からも忘れられることとなっていました。

「お願いでございます。孫を許してやって下さい」

 老婦人、重ねて訴えますが、於雪さんは一言も返しません。

「於雪さん!私と……私のこの命を差し上げますから!」

 老婦人は土下座したまま於雪さんの方へと向きを変えます。

「誰に背を向けるか!」

 於雪さんが一喝し、老婦人は慌てて拝殿の方へと向き直ります。

「お前の命?そんな下らない物で許せると思うな!」

 老婦人、土下座したまま肩を震わせています。

「お前の生き死になど、いつでもどうにでもできることを忘れたか?」

 それができるからこそ、孫とその仲間達は原因不明のまま入院しているわけだ。

「なにも言えない」

 老婦人はただただ土下座を続けるしか無かった。

「困った、困った、どうしよう、孫はこのまま寝たきりなのだろうか。もっと十六夜の怖さを伝えておけば良かった。あぁ、神様、お助けを」

 そう願った次の瞬間、「お姉ちゃ~ん」とおよそ場に似つかわしくない幼子の声が響きます。同時に「ビクッ!」とも「ギクッ!」ともとれる於雪さんの驚きがそっくりそのまま境内の空気を震わせたのは老婦人も感じていました。

「あら、どうしたのかなぁ」

 鳥居の方へと振り返り、腰を落としていつもの明るい声で話し掛けています。

「おねーちゃん、怒ってるの?」

「うん。怒ってるぞ~怖いぞ~」

 於雪さん、老婦人のことを忘れたわけでは無いでしょうが、幼子と遊ぼうとしています。

「あのお婆ちゃんがね、悪いことしたから、怒ってるんだよ~」

「怒ったら皺ができるよ、ママが言ってた」

「皺っ!?」

 於雪さんが「皺っ!?」と言った瞬間、「ガーンッ!」と境内の空気が震えたし、それは老婦人も肌で感じた。

「ガックシ……」

 その場で崩れ落ちる於雪さん、「よしよし」と頭を撫でる男の子。

「はぁ、仕方が無い。興醒めだ」

 於雪さん立ち上がって未だ土下座を続けている老婦人に向けて「今日は許してやる。帰れ」と言います。

 土下座したまま老婦人が戸惑っていると「帰れ!」と強い語調で言うと後は何事も無かったように男の子と話し始めました。

 老婦人は恐る恐る立ち上がり、そそくさと立ち去ろうとしますが、チラッと於雪さんを見ますと老婦人のことは完全に忘れているようですが、男の子は「ばいば~い」と手を振ってくれます。

 老婦人は小さく会釈しつつ急いで鳥居を潜ってバスに乗って帰ります。

 孫が入院している病院へ行きますと孫も含めて体調が回復していた。

 今までの一か月はなんだったのか、医師も看護師も首を傾げていた。

 様子を見るために数日入院を続けたが、再発することも無かったので退院となったが、嫌がる孫を老婦人は無理矢理バスに乗せて十六夜へと向かいました。

 バスの中でも孫は不満を口にしていましたが、いざバスが十六夜に着き、十六夜神社の鳥居を潜ろうとした時、孫は嫌がった。

 目の前には巫女装束で掃き掃除をしている於雪さんが居た。

 色んな記憶が甦ったのか、孫の身体が震えている。それを老婦人が無理矢理境内へと引っ張って行きます。

 於雪さん、既に興味を失っていたようで「何しに来たの?」とだるそうに尋ねます。

「改めてお詫びに伺いました」

 老婦人は深く頭を下げますが、孫は怯えて何もできません。

「済んだことだし、わざわざ、来なくても……」

 於雪さん、本当に興味を失っています。それでも懐から城井封筒を一つ取り出して孫へ手渡しつつ、「これ持って、駅前のラーメン屋に行きな。就職したまえ」と強引に封筒を握らせますが、於雪さんの表情と声は入院中にほぼ毎夜夢枕に現れては耳元で呪詛を繰り返していた雪女その者でしたから孫は封筒を受け取ると同時に逃げ出し、まだバス停に停まっていたバスへと飛び込んでいました。

 老婦人は慌てて孫を追い掛けますが。その背に向けて「もう来なくていいわよ」と於雪さんは声をかけますが、その声は老婦人には届いていないようです。

 バスが駅前へ着くまで孫は車内で青ざめて震えていました。

 駅前にバスが到着したのは良いですが、駅前にはラーメン屋と中華料理屋の店舗が一軒ずつあります。

「どっち?」

 孫が戸惑っていると老婦人が小さなラーメン屋へと孫を引っ張って行きます。

 十六夜出身の人が駅前でラーメン屋を営んでいることは随分と以前に聞いて知っていました。

 入り口に「準備中」の札が掛けられていましたが、老婦人は構わず戸を開けて店内にいた中年男性へ「おくつろぎのところ、申し訳ありません」と声を掛けつつ、孫に紹介状を出すよう促します。

 孫は慌てて於雪さんの紹介状を男性へと手渡します。

 封筒の表には「しょう介状」と記され、裏には「ゆき」と小さく署名されていました。

「あぁ、於雪さんか……」

 男性は封筒を受け取ると中から便せんをとりだして目を通します。

「なに、やらかしたんや?」

 男性、孫へ尋ねます。

 孫はしどろもどろになりながらも自分達が起こした事件について語りました。

 話を聞き終えると男性は「良かったなぁ、これで済んで。俺なんかの時は殺されかけたんだぜ、於雪さんに」と自嘲気味に語ります。

 男性から「殺されかけた」と聞いて老婦人と孫は我が事のように恐怖で身体が震えます。

「ま、幸いというか、この店を営んでいた夫婦が於雪さんに頭を下げてくれてさ、この店を手伝わせるってことで、俺を引き取ってくれたのさ。それがなければ、今頃は生きてたかどうか……」

 この小さなラーメン屋の創業者夫婦は揃って十六夜の出身、夫婦に子供は何人か居たのですが、それぞれに独立してしまって店を継ぐ人が居ないから程よいところで店を畳もうとしていた矢先、不良少年の所業に於雪さんが激怒していると聞きつけ、親がどれだけ謝っても怒りを鎮めることの無かった於雪さんでしたが、夫婦が何をどの様に言いくるめたのか、夫婦が不良少年を引き取ってラーメン屋の後継者として育てたのでした。

「心配するな!給料も出すし、賄いは三食、昼寝付きだぞ!」

 店長は孫に笑顔で伝えます。

 その後、このラーメン屋は小さいながらも店長と孫の二人三脚で繁昌を続けたそうです。


 九月に入り、当然のように二学期が始まりまして十六夜地区でも平日の朝は慌ただしくなります。

「行きたくない」

 幼稚園の送迎バスを待つ間、男の子が言います。

「どうして?」

 於雪さんは尋ねます。

「いじめられるんだよ」

 他の子が答えます。

 夏休みの前に引っ越してきたからまだ友達も作れていないのかもしれませんし、周りにもなじめていないのかもしれません。

「やめてって言ってるけど、聞いてくれないの」

「先生も止めてくれないの」

 園児達が色々なことを話してくれます。

「困ったなぁ……」

 一瞬、於雪さんは空を見上げます。

「ん~……」

 対策を悩みます。

「そうだ!」

 思い付きます。

「皆にお願いがあるんだ。もし、今日、この子がいじめられたら、私のことを強く思って欲しいの。出来るかな?」

「強く、思うの?」

「うん。出来るかな」

 ひとりが「う~ん」と目を閉じて力みます。

「うん、上手いぞ」

 於雪さんはその子の頭を撫でます。

 皆、真似をします。

「上手いよ、良いよ」

 於雪さんは一人一人丁寧に褒めますが、孫を送りに来ていた婆さんが「於雪さん、あんまり騒がさんでよ」と言います。それに対して「私、皆に迷惑をかけたこと、あったかな」と於雪さん、笑顔で答えますが、その瞳は笑っては居ませんでした。

 幼稚園の送迎バスが来ます。

 園児達はバスに乗車していきますが、男の子の不安そうな表情は変わりません。他の園児が手を引いてバスに乗せようとしますが、男の子は振り返って於雪さんを見ます。

 於雪さん、それに応じるかのようにキュッと男の子を抱きしめて耳元に唇を寄せ、「大丈夫、私を信じて。いつも貴方のそばにいますから」と言いつつ、男の子の鞄に結び付けてある十六夜神社のお守りを見ます。そして男の子をひょいと抱き上げてバスのステップへと乗せると「いってらっしゃい」と深く頭を下げます。

 その黒く、艶のある長い髪がサラサラと流れます。

「いつ見ても、奇麗なねーちゃんやなぁ」

 そう思いながら運転手のおっちゃんはドアの開閉スイッチを操作します。

 不安な表情の男の子を乗せて送迎バスは出発します。

「うふふふふふ……」

 両手で口元を隠しつつ、於雪さんは笑います。何か悪戯を思い付いた子供のような表情、でも、どこかに怪しさも帯びています。

 先ほどの婆ちゃんは「あきれた」と言わんばかりの表情で家へと帰っていきました。

 幼稚園。

 各教室で朝礼が始まります。でも、男の子はいじめっ子にからかわれて早くも泣き出してしまい、教室を飛び出して正門の外を目指して駆けていきます。当然、外へと飛び出したら危ないわけですが、先生が気付いて追い掛けようとした時には既に正門の手前です。

 男の子が何故か正門の手前で立ち止まります。まるで誰かと話しているかのようにも見えます。

「あ!於雪さんだ!」

「おねぇちゃん!」

 十六夜地区から通園している子らが一斉に教室を飛び出し、正門へと駆けていきます。各教室の先生が止める声も耳に入らないようです。

 皆、正門の前に集まるのですが、先生や他の園児達には見えない誰かを取り囲んでいるように見えます。

 正門前に集まった十六夜地区の子らは口々に於雪さんへ訴えます。

「先生、止めないんだよ!」

「あの子がいじめたんだよ!」

 腰を落として優しく、とても優しく男の子をなだめていた於雪さんでしたが、その一方で怒り心頭に発するというか、報復を始めようとしていました。

 突然、園内全ての照明やエアコンなどの電気機器が止まってしまいます。しかもそれは異様に鈍い音を発しての出来事です。

 さすがにこの事態、園長も職員室から出てきます。そして各教室を見て回ろうとした時、正門の前を見るとそこに雪女が立っていました。

 ここまでの人生で心霊現象などと出合ったことの無い園長にとってどの様に反応して良いのか、それすらわからずにただただ立ち尽くすことしか出来ません。

 吹雪の中、こちらを恨めしそうに見る雪女、園長は身体の芯から冷えている自分に気付くのですが、同時に四方八方から悲鳴が聞こえてきます。

 各教室に居た先生達も同じ光景を見てしまい、悲鳴をあげる以外、何もできないようです。それに園児達も一緒に悲鳴をあげていますが、怖い物を見たから悲鳴をあげているのか、それとも先生の悲鳴に驚いているのか、その点は定かではありません。しかし、泣き叫んだり、走り回ったり、幼稚園が一つ丸々パニックに陥っています。

 幼稚園の裏手にある用務員室から用務員や送迎バスの運転手が悲鳴を聞いて教室を見に来ますが、あまりの騒ぎに何もできませんし、用務員は隣接する小学校へと助けを求めに走ります。

 運転手は園長に声をかけますが、園長は完全に放心状態です。一方、正門の前では十六夜地区から通園している子らが集合していますが、その表情は「何故、先生や他の園児は騒いでいるのか」さっぱりわからないと言った感じです。でも、誰かに指示されているのか、周りの騒ぎに巻き込まれることも無く、大人しく座っています。

「君達、大丈夫かい?」

 運転手は近付きつつ、声をかけます。

 皆、頷きます。しかし、そこには於雪さんの姿はありません。

「おねーちゃんがね、ここで待ってなさいって」

「先に帰っちゃった」

「皆、どうして泣いてるの?」

 十六夜地区の子供たち、運転手に質問したり、話し掛けたりしますが、運転手にも何が起きているかわかりませんし、「どうしてこの子達だけ、落ち着いているんだろう」という疑問が湧きます。

 隣接する小学校から手のあいている教師や事務員が来て園長や先生を介抱したり、パニックに陥っている園児達を落ち着かせようと努力します。しばらくすると村役場や村の教育委員会からも人が来たり、救急車や警察まで来ます。

 誰が言い出したのか、落ち着いている十六夜地区の園児だけでも先に帰宅させようということになり、運転手は十六夜地区の子供たちに鞄や制帽を教室へ取りに行かせ、全員の帰宅準備ができ次第、送迎バスへと乗せてバスを出発させました。しかし、一体誰が保護者へ連絡しているのか、その点も曖昧なままです。それでも運転手は十六夜地区の園児を乗せて峠を越えます。あのまま幼稚園にいても放心した園長や混乱している先生達を介抱出来るわけではありませんし、パニックに陥っている園児達を鎮めることも出来ません。

 今は十六夜地区を目指し、まずは公民館に居るであろう自治会の会長か誰かに事情を話して子供たちを公民館で預かってもらう、そこまでは運転手も考えていますが、仮に自治会の会長が不在だったり、「子供たちを預かれない」と言われたらどうしようか、その不安もあります。悩みながら運転するのは危険と百も承知していますが、それでも徐々に不安が増してきます。

 そうこうする内にバスは十六夜公民館前のロータリーの手前に来ます。そこで運転手、ふと公民館を見ると白い浴衣に薄紫の帯を締めた若い女性が立っていることに気が付きます。

「あ!おねーちゃんだ!」

 園児の一人が声をあげます。それまで信じられないぐらいに静かだった園児達が一斉に騒ぎ出します。騒ぐと言ってもバスの運転に支障が出ない、於雪さんに手を振ったり、「おねーちゃんだ、おねーちゃんだ」と大きな声て言う程度のことです。

 公民館の前に送迎バスが止まり、運転手がドアの開閉ボタンを押すとほぼ同時に園児達がバスの外へと飛び出す勢いで降りていきます。その一人一人に於雪さんは声をかけていきます。公民館へ駆け込んで行く子、於雪さんに話かける子と分かれますが、於雪さんは全員を目で追っています。

 全員が降車したことと忘れ物も無いことを確認してから運転手が降りてきて何か話そうとしますが、「幼稚園で何かあったのですね」と於雪さんが先に話し掛けます。

「あ、はい。私にも、よくわからないのです。何が起きているのか」

 運転手には本当に何が原因であのような騒ぎが起きたのか、さっぱりわかりませんし、説明も出来ません。

「大丈夫です。この子達から、話を聞きますから。それと、この子達は全員、自治会で責任をもって、帰宅させますから、ご安心ください」

「そうですか。助かります。それでは、園の方に戻ります。あぁ、それと、多分ですが、今日のことは、日を改めて園の方から説明もあると思います。本当にすみません。説明も出来ずに。あと、お願い致します」

 運転手は十六夜地区の園児達を無事に公民館に預けらることもできましたし、状況の説明も省けたので正直ホッとしました。

 運転手はバスの運転席へと戻り、幼稚園へ向けて戻ることにします。

「バイバーイ」

 数人の園児達が送迎バスに向けて無邪気に手を振ります。於雪さんは宿泊客を見送る旅館の女将さんのように深くお辞儀をしますが、その一瞬、於雪さんはニタァッって不気味な笑みを浮かべていました。同じ時、運転手はハンドルを握りつつ、背中にゾクッとした悪寒を感じていました。

 於雪さん、全てを把握しているし、そもそもの発端ですから子供たちから事情を聞く必要もありませんし、送迎バスが去って行くと「さぁ、何して遊ぼうか?」と子供たちに投げかけますが、返ってきたのは「お腹空いたぁ~」や「疲れたぁ~」でした。

 この日、託児所と化した公民館では事務仕事が溜まっていた自治会の会長が「仕事が出来ない!」と暴れたとか、暴れなかったとか。

 翌日も幼稚園は休みとなり、子供たちは自宅で遊んだり、公民館で預けられたりとそれぞれの家庭に合わせた対応となりました。

 一方、幼稚園の園長と先生達は村の教育委員会の人達から事情を聞かれましたが、皆「雪女を見た」としか答えられません。

 しかし、それが理由として通用するわけもありませんし、村の教育委員長などは「皆さん、お疲れなのではありませんか?」や「雪女が園を停電にしたなど、マスコミに説明出来ませんよ」と返します。

「しかし……本当に雪女を見たんですよ」

 園長は強く主張しますが、「疲れていて、幻覚を見たのでしょう」とあっさり否定されました。

 村の役場にも教育委員会にも当然、十六夜地区で生まれ育った人は勤めていますし、園長や先生が「雪女を見た」と話していると聞いて真っ先に於雪さんの姿を思い浮かべましたが、周りの人に「それは於雪さんと言って、昔から十六夜地区に住む女性」とわざわざ話す人も居ません。

 十六夜地区には雪女の伝説が残っては居ますが、十六夜地区に住む人が他の人にあえて話すことは有りません。

 幼稚園は三日ほど休園となりましたが、結局、急な停電が発生した原因を特定することも出来ず、「電気機器の扱いに気を付けましょう」と言うだけで幼稚園は再開しました。

 この一件以降、あの男の子はいじめられること無くなりましたが、園長や先生達は十六夜地区から通園する子らに接する時、しばらくは怖かったらしいです。


 十二月二十四日。

 言わずと知れたクリスマスの前日、そうは言っても東北地方の片隅、今の時期は除雪と正月の準備で大人は忙しく、クリスマスの飾り付けなどは東京辺りの行事だと皆が思っています。

 運が良ければクリスマスケーキを買ってくることも出来るでしょうが、それも唯一の峠が雪に埋もれてなければの話です。それに峠を越えることが出来たとしても村役場の近くには洋菓子を扱っている店舗はありませんし、駅近くの洋菓子店へ行けたとしても当日に購入出来るか否か、それもまた運次第です。

 こういう事情も重なって十六夜地区ではクリスマスと言えば子供にプレゼントを渡し、合わせて各家庭でちょっぴり贅沢な料理を用意するぐらいで終わってしまいます。しかもクリスマスプレゼント、積雪で峠が越せなくなる可能性もあるので早い人は十一月の下旬には街まで買いに出かけます。そしてクリスマス前に我が子へプレゼントを手渡す家庭もあるので十二月の二十四日、二十五日は本当にご馳走を食べるだけになってしまう、そう言う家庭も十六夜地区にはあります。

 さて、今年の十六夜地区はどうでしょうか。

 平日と言うこともあるのでしょうが、公民館には於雪さんしかいません。その於雪さんは年始に向けて十六夜神社のお守りを作っていました。

「おはようございます」

 公民館の玄関が開き、男の子と母親が入って来ます。

「すみません、神社の方へ伺いましたら、どなたもいらっしゃらなかったので」

 母親が玄関で挨拶する中、男の子はさっさと靴を脱ぎ、於雪さんのところへ来て、その手元を眺めます。

「お守りだよ。こうして一つ一つ、自分で作らないとね」

 作りかけのお守りを見せます。男の子、興味津々ですが、興味だけで触ると於雪さんに怒られそうなので控えています。しかし、於雪さんもその辺りは心得ているようで今、作っている最中のお守りを使ってあれこれと説明を始めます。

 しばらく話してから於雪さん、ふと玄関を見ると母親が靴も脱がずに待っていることに気が付きます。それで男の子に「何か、用があったんじゃ無い?」と尋ねます。

「あのね……」

 男の子は何かを伝えようとしますが、上手く表現出来ないのか、母親の方を見ます。しかし、於雪さんは男の子が言葉を繋ぐのを待っています。

「サンタさん……」

「サンタさん?」

 これ以上は言葉が出てこないようです。ここでようやく於雪さんは母親の方を向き、続きを促します。

「あの、今朝テレビを観ていて、雪が凄いからサンタさんが来ないかもって心配して、それで神社でお願いしようってことになって」

「あぁ、そういうこと」

 於雪さん、何故か母親に対しては素っ気ない。

「それじゃぁ、行きましょうか」

 於雪さん、制作途中のお守りを放置して男の子の手を引き、玄関へと向かいます。

 十六夜神社の正面、鳥居を潜る前に男の子は母親に賽銭用の小銭をねだります。母親は十円玉を小銭入れから出しますが、男の子は首を横に振って「百円!」と言って譲りません。母親は渋々百円玉を渡すことになります。

 ポイッ!

 まだ力加減がわからないのか、その百円玉を賽銭箱へ入れる際、男の子の投げ方は若干雑に思えましたが、両手を合わせて祈る姿に於雪さんは感心します。

 折角なので於雪さんも男の子の横に並び、一緒に手を合わせていました。

 参拝を終えた後、男の子は帰宅すると思いきや、於雪さんから離れようとしませんので於雪さんは母親に「お昼まで預かります」と言って男の子を預かることにします。その間に母親の家事は捗ることでしょう。

 公民館に戻った於雪さんは男の子と話しつつ、お守り作りを続けます。十六夜神社のお守りは全て於雪さんの手作り、一つ一つに微妙な違いが生じています。お守りに使う生地も同じ柄の色違いが数種類有りまして「どの色が好き?」と男の子に聞いています。

 話している内に時間は正午近くになります。近所のおばさんが於雪さんの「昼食に」とおにぎりを作ってきてくれたのですが、男の子が食べちゃいました。そしてお腹が一杯になって眠くなったので寝ちゃいます。迎えに来た母親は我が子を担いで帰ることとなりました。

 その後、自治会長が来てテレビを観るのですが、各地で大雪となって困っている人が大勢いると報じています。

 於雪さん、急に立ち上がったかと思うと外へ出て行き、戻ってきた時には巫女服を手に持っていました。どうやら社務所へ巫女装束を取りに行っていたようです。それから於雪さんは公民館にある浴室へと入り、シャワーを浴びて身を清めると巫女装束を着て居間へと出てきます。そして自治会の会長に「私には為すべき事があります。後のことは任せます」と言うと公民館を出て行こうとしますが、玄関で振り返って「今夜は冷えます。皆に伝えておいて下さい」と言葉を付け加えてから於雪さんは出て行きました。

会長、「十二月だから冷えて当然なのに」と思いつつ、一方で「於雪さんがわざわざ言うのだから、何か起きるに違いない」とも考え、公民館にある防災無線で地区内へ呼び掛けることにしました。

 ぴぃ~ん、ぽぉ~ん、ぱぁ~ん、ぽぉ~ん。

「公民館から、お知らせです。今夜は冷えます。冷えますので皆さん、暖かくしてお過ごし下さい。繰り返します。今夜は冷えます。暖かくしてお過ごし下さい」

 早速、会長のスマートフォンが鳴ります。

「おいっ、今の防災無線はなんだよ。冷えて当然なのに、わざわざ言うことか?」

 地区の住人からです。

「それはそうなんだが、於雪さんが、巫女装束を着た上で仰るんだ。これで誰かが風邪でもひいてみろ。怒られるのはわしやぞ、於雪さんに」

 相手は電話を切って即、隣近所の人達に「今の放送、於雪さんの警告らしいぞ」と伝えに行きました。

 防災無線で注意喚起を終えた自治会の会長、のんびりと御茶をすすりつつテレビを観ていましたら「東北六県で雪がやんだ」との速報を見て思わず、御茶を吹き出しそうになりました。

 会長、湯呑みを持ったまま窓から十六夜神社の拝殿を眺めます。当然ながら拝殿の中までは見えませんが、降雪を止めるとか言う芸当が出来るのは於雪さん以外に思い付きません。

 降雪が止まったとは言っても奥羽山脈などの山間部や沿岸部、北陸や関東などとの県境では降雪が続いています。それでも警察や消防、自衛隊などは「今の内に」と積雪で身動きが取れなくなった車両から人を救出したり、高齢者や身体が不自由な人たちを自宅から最寄りの体育館や公民館へと避難させたりと一人でも多くの人を安全な場所へ誘導しようと努力します。

 東北のとある気象台の屋上、台長さんが一人で天を仰いでいます。今にも手が届きそうな所に雪雲があるのに雪が降ってこない。否、実際にはちらりほらりと雪は舞っていますが、正午頃までの視界を遮るほどの降雪がピタリと止まったという現象を誰も説明が出来ずにいます。

「何故?」

「どうして……」

 両手を届きそうな雲へと伸ばしますが、それで回答を得ることは出来ません。

「嗚呼……」

 鉄扉が勢いよく開きます。若い職員が駆けてきます。

「台長、何してるんですか!風邪ひきますよ!」

 思えばあまりの現象に暖房の効いた部屋からコートも羽織らず、何かに惹かれるかのように屋上まで来ていました。台長は若い職員に半ば引きずられるようにして鉄扉の向こうへと引っ張られていきました。

 同じ頃、十六夜神社の拝殿内では於雪さんがまるで修道女が聖母マリア像に祈りを捧げるかのような、両膝をつき、両手を組んだ姿勢で本尊に祈祷しています。

「はぁ~っ……」

 丑三つ時、於雪さんの緊張が途切れます。広くない拝殿の中で於雪さん、大の字になって寝転んでいます。髪を結んでいた水引も外していますから拝殿の床には艶のある黒髪がファサッと拡がっています。

「そう言えば……」

 疲労困憊した於雪さんはなぜか随分と前のことを思い出していました。

 あまりの豪雪に嫌気がさした於雪さん、拝殿で祈って十六夜地区の真上だけぽっかりと雪雲をよけたのです。それで於雪さんは「我ながら上手く出来た」と自画自賛していました。現代のように気象衛星があれば台風の眼のように見えたことでしょう。

 しかし、それで一息ついたのもつかの間、当時の自治会の会長さんが拝殿まで怒鳴り込んできました。

「於雪さん!こんなことをして、新聞社が来たらどうするんじゃ!わしら、隠しきれんぞ!」

 この後、会長さんはガミコラ、ガミコラ、ガミガミガミと数時間に及ぶお説教、於雪さんも「ごめんなさい、ごめんなさい、も一つごめんなさい」と謝り倒しました。

 あそこまで親身になって怒ってくれる、気骨ある会長はあれ以来十六夜地区には出てきません。

 於雪さんはそれまでにも天候をいじってきましたが、この一件以来は周囲に合わせるようになりました。

 元々十六夜地区は四方を山に囲まれていますから冷たい風はある程度防げています。それでも冬は気温が下がることには変わりありません。十六夜地区の人達が凍えないよう、於雪さんは気温を上げていたのですが、電気やガスの発展に合わせて於雪さんも気温をいじるのを控えるようになりました。それでも冬になると「電気代が高い」とか「ガス代が……」などと住民の苦情を聞くと於雪さんはいてもたってもいられず、ついつい気温をいじってしまいます。そうは言っても周囲に比べて一度か二度だけ気温を上げて電気代やガス代の負担を下げるだけですが、それだけでも随分と住民の光熱費は助かっています。

 同様に夏は少しだけ気温を下げることで過ごし易くしています。合わせて木を植えて木陰を増やすようにしました。皮肉なことに過疎が進むと空き家や空き地が増えますが、そう言う土地に自治会が率先して木を植えていったお陰で夏は過ごしやすくなりました。

 今夜に限って言えば於雪さんの気持ちが東北六県に向いていたので十六夜地区は本来あるべき気温に包まれていました。各家庭では暖房器具の温度設定をいつもより一度か二度上げて過ごしていたことでしょう。

「それにしても、疲れたぁ~……」

 於雪さん、相変わらず大の字になったまま寝転んでいます。

「何か、いる……」

 於雪さん、気配を感じます。拝殿の外に神経を集中してみます。この時間ですから十六夜地区の人が歩いているとは思えません。

「なんだろう」

 於雪さんは拝殿の外に出てみます。鳥居の向こう側に誰かが立っています。結構大柄で赤い服を着ていて同じ色の帽子を被っています。しかも立派な髭、於雪さん、目が点になってしまいました。

 さすがの於雪さんも恐る恐る鳥居へと歩いて行きます。

 その赤い服というか、赤いコートを着た人は何を遠慮しているのか、鳥居を潜ろうとはしません。於雪さんが鳥居を潜ると赤いコートを着た人は「アリガトウ」と片言の日本語で言いますが、於雪さんはまだ目が点のままです。

 赤いコートの人はポケットから何かを取りだして於雪さんに手渡します。

 スッポンエキスの小瓶とマムシエキスの小瓶。

「え?」

 於雪さんがキョトンとしている間に赤いコートの人はそりの運転台に腰を下ろします。荷台には大きな袋、そしてそりを牽いているのは噂通り九頭のトナカイでした。

 於雪さんが御礼を言おうとしたのですが、赤いコートの人を乗せたそりは出発してしまいました。

「もう少し、夢の有る物が欲しかったなぁ……」

 於雪さん、ポツリと呟きました。

 仕方が無いので於雪さんはスッポンエキスとマムシエキスを飲んで寝ることとしました。

 翌朝、早い時間に目が覚めてしまった於雪さんは除雪作業の陣頭指揮に立ちます。実際に指示を出しているのは自治会の会長なのですが、於雪さんが居ると居ないとで皆の士気が変わってきます。

 於雪さんも公民館の前で除雪作業を手伝っていると男の子が母親と共に訪ねてきます。その腰には特撮ヒーローが変身に使うベルトが巻かれています。男の子は於雪さんに今年のクリスマスプレゼントを無事受け取ったことを報告したかったようです。

「良かったね。サンタさん、来てくれたんだね」

 於雪さんの問い掛けに男の子は「うん!」と元気良く頷きます。

「お姉ちゃんは、何か貰えたの?」

 そう尋ねられましたが、まさか「スッポンエキスとマムシエキス」と答えるわけにもいかず、「私は大人だから、何も貰えなかったよ」としか答えられませんでした。


 元日。

 早朝から十六夜地区では初詣で十六夜神社へ参拝に来る人がちらりほらりといます。

「あけましておめでとうございます」

 於雪さんは参拝に来た人へいつも通りに明るく挨拶をします。

 しかし、十六夜地区のお正月は少し盛り上がりに欠けます。於雪さんが旧暦を大切にしており、旧正月を一年の始まりと捉えているので新暦のお正月に於雪さんはほとんど力を入れません。しかし、日本全体が新暦で動いていますから無視することも出来ません。結局、十六夜神社の行事に関しては従来通り旧暦で行うこととなり、あとは全て新暦に合わせて行事を行うこととなりました。

 於雪さんは例年通り大晦日は公民館で年越し蕎麦も食べ、年が明けると自治会の人が用意したお雑煮を食べ、御節料理もお裾分けしてもらい、一人ご満悦です。

 於雪さん、食べてばかりというわけでもありません。年末年始にしか十六夜地区へ帰ってこれない人も大勢いますし、そう言う人達が十六夜神社へ年始の挨拶に来ますから朝早くから「あけましておめでとうございます」と笑顔で応対しなくてはいけません。

 社務所には少ないながらもお守り、絵馬、破魔矢、神札などが取り扱われています。値段も記されてはいますが、値段などあってないようなもので於雪さん、勝手に値引きして参拝者に押し売ろうとします。毎年のことですし、十六夜神社の参拝者は地元の人しかいませんから皆、於雪さんの軽い冗談なのだろうと受け流し、古いお守りや破魔矢などを返し、定価を支払って新しいお守りや破魔矢などを受け取って帰ります。

 新暦の三が日、於雪さんはほぼ一日社務所に詰めて参拝者の対応に追われていますが、その社務所の片隅にはいつもの男の子が絵本を片手にちょこんと座っていました。

 男の子、冬休みに入って幼稚園が休みになっても毎日、於雪さんを訪ねて公民館か十六夜神社へと来ます。公民館には絵本を含めて児童向けの図書が少しはあります。男の子は於雪さんに絵本を読んでもらうのが楽しみですし、世界地図を拡げて行ったことも無い国々について於雪さんに教えてもらうのも楽しみです。

 もちろん、於雪さんが海外旅行へ行ったなど、十六夜地区の誰も聞いたことがありませんからテレビや新聞などで得た知識を織り交ぜて面白おかしく語っているだけかもしれませんが、男の子にとっては於雪さんの出任せ冒険譚が面白くて仕方が無いようです。

 さすがに三が日、於雪さんは忙しいだろうと男の子の両親も止めたのですが、男の子は十六夜神社へ初詣に来たまま帰ろうとしません。

 自治会の会長らその場に居合わせた大人達も男の子をなだめすかせてみましたが、困ったことに男の子、一歩も譲りません。

 大人達は「困ったねぇ……」と声を揃えます。

 普段と違い、三が日の於雪さんはいわゆる巫女装束、緋袴に千早を身にまとい、凜とした表情で参拝客と接しています。その姿に魅入られたのか、男の子は於雪さんのそばから離れようとしません。

「寒いから、公民館に居た方がいいよ」

 大人達は心配して声をかけますが、男の子は首を横に振ります。

 於雪さんも心配になったのか、「公民館で待っていて欲しいな」と言います。合わせて「あなたが居てくれるのは嬉しいのですが、ここで身体を壊されては、十六夜地区に住む皆が悲しくなります。どうか、ここは大人達の話を聞いて、公民館で待っていてくれませんか」とも言います。

「うん……」

 男の子はしょんぼりとしつつも公民館へと向かいます。

 結局、男の子は三が日のほとんどの時間を公民館で過ごすこととなりました。

「いつも一緒だから、ねぇ。於雪さんいないと、寂しいんだろうねぇ」

「幼稚園から帰ったら、いっつも遊んでもらってたし、於雪さんのそばにいないと、落ち着かないんじゃ無いかな」

 自治会の役員たちは男の子が於雪から離れようとしない理由をあれこれ考えてみます。

 一方で男の子の両親は仕事が忙しいのは仕方が無いにしても我が子に関して於雪さんを頼りすぎていたかもしれないと思っていました。

 元々都会の騒々しさが嫌でどこか静かな土地で暮らしたいと思い、十六夜地区へと転居してきたのですが、生活費を稼ぐためとは言え、都会に住んでいた時と変わらない、あくせくした日常を送っていたと反省もしています。

 三が日が終わった後も男の子は毎日朝食を終えると於雪さんに会おうと公民館か神社へ来ます。

 三が日を過ぎると十六夜神社の参拝客もまばらとなりますし、於雪さんも公民館でテレビを観たり、庭掃除をしたりとのんびりしています。その於雪さんの見える範囲に男の子がちょこんと座っていたりします。於雪さんが近くに居るだけで安心するようです。

 積雪が無ければ近所の子らと外で遊ぶのかもしれませんが、男の子の性格はどうやら於雪さんと二人っきりで遊ぶ方が好きなようです。

 冬休みも終わり、十六夜地区にも日常が戻ってきました。

 そして旧暦の一月一日を迎えます。

 十六夜地区では一年で一番積雪が多いとも言われる日でもあります。十六夜地区は旧暦一月一日を祭日としていますが、峠を越えた先ではカレンダー通りです。人によっては有給休暇を取得して十六夜地区の行事に参加する人も居ますし、自営業の人は仕事の合間を使って行事に参加したりします。

 児童、生徒はどうするかというと各自の判断に委ねられます。地域の祭日を理由に幼稚園や学校を休むことも出来ますが、行事自体は丸一日というわけでも有りません。それ故に多くの児童、生徒は旧正月が土曜日、日曜日とかさらない以上、行事に参加することはありません。

 しかし、例の男の子は前日、誰から聞いたのか「明日は休む」と言い出して両親を困らせました。


 翌日。

 朝六時に十六夜地区公民館には自治会の会長や婦人会の会長、老人会の会長、各役員らが集まっています。

 上座には於雪さん、その於雪さんの前には新調した巫女装束が一式置かれています。そして各会長が居住まいを正し、自治会の会長が巫女装束を新調した旨と「お納め下さいますように」と於雪さんに口上を述べます。

 数年に一度、於雪さんの巫女装束は新調されるのですが、今年がその年でした。

「はい」

 於雪さんは事務的な口調で答えます。各会長が平伏しているにも関わらず、於雪さんは頷くことすらしません。

 於雪さんの返事を聞き終えた途端、婦人会の会長が「はいはい。男の人は出ていってね」と言い、男性陣は公民館の外へ出て行き、入れ替わるように玄関の外で待っていた婦人二人が入って来ます。そして於雪さんが着替えるのを手伝います。手伝いと言っても於雪さん一人で着替えることは出来るので今着ている衣類を畳んだり、新調した巫女装束を手渡したり、髪を梳いて水引で髪を結ぶぐらいです。

 玄関には同じく新調された草履が用意されています。草履を履いた瞬間、ピンッと空気が張り詰めます。

 薄く積もった雪にしっかりと足跡を残すことが義務であるかのように於雪さんは一歩ずつ踏みしめていきます。先導するのは自治会長、手には提灯を持っていますが、今の時代、提灯も中はロウソクでは無くて電球と電池が用いられています。街灯もありますから提灯による先導は大して意味を持ちませんが、これも一つの伝統であり、これからも長く続いていくことでしょう。

 公民館の玄関から十六夜神社の鳥居まで僅かな距離ですが、旧正月のこの時だけではとても長く感じます。

 十六夜地区の人達が早い時間から於雪さんが通る道の左右に並んで待っています。その中にはいつも於雪さんが世話している五歳の男の子が両親と一緒に居ます。

「おめでとうございます」

「あけましておめでとうございます」

 並んでいる人達は於雪さんに挨拶をしますが、聞こえていないのか、あえて無視しているのか、於雪さんは会釈すら返すこと無く歩きます。そして何故か男の子の前へ来た途端、歩みを止めます。何か言いたげな男の子の視線と表情に気が付いたのでしょうか、横目で視線を送り、促します。

 本来ならば立ち止まらずに鳥居をくぐらなければならない旧正月の行事で於雪さんが立ち止まると言う異例、周囲の人達は「何が起きたのか?」と少々冷や冷やしていますが、一方で先導していた自治会長は周囲の反応を見て振り返り、於雪さんが立ち止まっていることを知ります。

「止まるなんて、珍しい」

 そう思いましたが、自治会長自身は於雪さんに催促するわけでも無く、提灯で於雪さんの足下を照らしたまま待っています。

 両親は我が子に挨拶をするよう促しますが、自治会長を始め周囲の人達はそれを止めます。両親は戸惑いを隠せませんが、あくまでも自然な流れと男の子自身に委ねようとします。

「おはようございます!」

 いつものように元気良く男の子は挨拶します。それを聞いた両親は「ここは、明けましておめでとうございます、でしょ」と言いそうになりましたが、それよりも早く、於雪さんが男の子の方へ身体の向きを変え、「おはようございます」と丁寧なお辞儀を返しました。一歩男の方へ進んでからしゃがみ、男の子に目の高さを合わせると両手をその頬に当てて「今日は朝早くから、ようこそお越し下さいました。身体を冷やさぬよう、どうか、気を付けて下さいね」と優しく話します。それは男の子に話しているようで実は周囲の人達全員に語りかけているようにも聞こえます。なによりも於雪さんの話し方が対等な相手と話しているかのようです。

「……かっこいい……」

 唐突に男の子がポツリと言います。五歳の男の子にとって「カッコ良い」が最高の褒め言葉だったのかもしれませんが、両親にしてみれば他の言葉を選んで欲しいところですし、相手に対して失礼では無いか、その様なことを考えてしまいます。しかし、周りの反応など気にすること無く、於雪さんはキュッと男の子を抱きしめて「ありがとう」と言った時の表情はとても嬉しそうな、年相応な少女と言った感じです。

「でも、次は、かわいいって言ってね」

 男の子の耳元で甘さと艶っぽさを含めてささやいた言葉は周りの誰にも聞こえませんでしたが、男の子の顔はポーッと赤く染まりました。

 於雪さんは「行きますね」と男の子に言うと立ち上がり、ピンッと張り詰めた空気を漂わせて歩き始めます。男の子は於雪さんの後ろを付いて行こうとしますが、両親がしっかり手を握っているので動けません。

 鳥居の手前で自治会長から提灯を受け取ります。自治会長や列を作っていた人達は於雪さんに対して深く一礼をします。於雪さんは受け取った提灯で自らの足下を照らしつつ鳥居をくぐり、拝殿の中へ入っていきます。男の子は両親の手を振り払って鳥居の前まで来ますが、何故かそれ以上は前へ進もうとしません。周囲の大人達が誰も鳥居をくぐろうとしないからか、それとも何かを感じているのか、じっと拝殿を眺めています。

 自治会長が両親に「於雪さん、今年一年の平穏無事を祈願しているんですよ。その間は誰も邪魔したら、いかんのですよ」と説明します。

「ところで、於雪さんって、神社の巫女さんって事はわかるんですが、普段何をしているんですか?」

 男の子の父親が会長さんに尋ねます。以前から気にはなっていたのですが、誰に尋ねれば良いのか、また最近越してきた者が尋ねて良いことなのか、その点がわからなかったので尋ねずにいました。

「十六夜神社の巫女、それで良いのではないかな。他に、何か必要かな」

 自治会長、微笑を浮かべて答えます。

「はぁ……」

 要領を得ない答えですが、これ以上聞くことは年上に対して失礼な気がしたので父親は控えることとしました。

 その間、男の子は鳥居の前で周囲の人から話かけられていました。

「於雪さんに気に入られたんだねぇ。いいことだよ」

「今年は良い年になるはずだよ」

 男の子も戸惑いましたが、両親にしても於雪さんに話かけられるのが、どこまで凄いことなのか、その価値が全くわかりません。

「皆さん、冷えますし、一旦帰りましょう」

 自治会長が鳥居の前に集まっている人達に呼び掛けますが、男の子だけは梃子でも動かないと言った表情です。

 両親が引っ張ったり、抱き上げて連れて帰ろうとしても何故か今日に限ってはとても重く感じてしまいます。

「困ったねぇ、君が風邪でもひいたら、怒られるのはわしらなんだけど、なぁ……」

 自治会長も困っています。

「すみません。すみません」

 男の子の両親は謝りますが、どうすることもできません。

 大人達が困っているとどこかで小さな音がします。音が聞こえた方を見ると於雪さんが拝殿を出てこちらへと歩いてきます。

「え……」

 皆、困惑しています。

 一年の平穏無事を祈願している最中に於雪さんが拝殿を出てくるなど、過去に例が無いことです。

「何事です?」

 於雪さんは尋ねつつ、男の子が鳥居の向こう側でぐずっているのを見て状況を把握します。大人達は於雪さんに対して「申し訳ありません」と謝りますが、於雪は鳥居の手前でしゃがみ込み、「どうしたの?」と優しい声で男の子に問い掛けます。五歳児にとって自分の気持ちを表す言葉が見付からないのか、今にも泣き出しそうな表情で於雪さんを見ます。於雪さんは両手を伸ばし、「来る?」と問い掛けます。男の子、「うん!」と言う返事と共に鳥居を潜って於雪さんに駆け寄ります。

 当然、母親は止めようとしましたが、間に合いません。

 満面の笑みで於雪さんは母親に「しばらくお預かりしますね」と言いますが、母親の方は何が起きているのか、理解が追い付いていません。

 男の子は両親に向かって「バイバーイ」と手も振りますが、於雪さんは「何か違うよ」と言いたげな表情で男の子を見ます。男の子しばらく考えてから「行ってきます!」と元気良く言いましたので於雪さんも「うん、うん」と頷きつつ、男の子の手を引いて拝殿へと向かいますが、その姿は年の離れた弟を溺愛する姉のようにも見えます。

 鳥居から拝殿までわずか数メートル、その間も楽しそうに話していますし、拝殿へ上がる前に男の子が靴を脱ぎ、きちんと揃えただけでも於雪さんは褒めそやします。

「さぁ、帰りましょうか」

 自治会長が鳥居の外にいる人達に声をかけます。

「役員の皆さんは、公民館へ」

 誰かが言います。

「あの、私たちは……」

 男の子の両親は問い掛けます。

「公民館で、待ちますかね。すぐに戻ってきますよ」

 婦人会の会長が優しく答えます。

 役員たちはそれぞれ持ち寄った料理の一品二品を味わいながら待つこと三十分、公民館の戸が開きます。

「お腹が空いたんだって」

 於雪さんの明るい声に比して男の子のどんよりとした表情、余程お腹が空いたのでしょう。

 両親よりも先に役員らが玄関へと集まり、男の子を居間へと誘います。しかし、空腹でも男の子の関心は於雪さんに向いているようで「一緒に食べよう」と袖口を掴んで離しません。

「ごめんね。私にはまだ、為すべき事があるんだ。だから、終わったら必ず来るから、待っててね」

「うん……」

 頷きはするもののまだ袖を離しませんし、不満その物の表情です。

 於雪さんが腰を落とし、男の子の瞳をじっと見つめます。

「……うん……」

 ようやく男の子は於雪さんの袖を離しましたが、「行って欲しく無い」と言う表情は変わりません。

 於雪さんが神社の拝殿へと戻った後、男の子はぽそぽそと朝食を摂ります。

 いつの間にか、男の子は寝ています。両親は今の内に男の子を抱きかかえて一旦帰宅しようと思いましたが、周りの人達がそれを止めます。

「於雪さんが待っとけって言うとるんだ。待ってなさい」

「でも、皆さんにご迷惑では……」

「於雪さんの機嫌を損ねる方が、よっぽどの迷惑だよ。戻ってきて、この子がいなかったら、どれだけ機嫌を損ねることか」

「ですから、ちょっとの間だけでも……」

 両親と役員がもめているとカタンと小さな音がしました。そしてエアコンに着いているデジタルの温度表示が一度、また一度と下がっていきます。エアコンは下がっていく室温を設定温度へ引き戻そうと頑張りますが、室温の下がり方が激しすぎて追い付きません。

 室内にも関わらず、吐く息が白い。どこまで気温が下がるのか、誰にもわかりません。誰かがエアコンのリモコンを掴み、温度を上げていきますが、それでも間に合いません。

 男の子の父親が「何が起きているんです⁉」と恐る恐る尋ねます。

「於雪さんだよ!こんなことができるのは、於雪さんしかいないんだよ!」

 役員の一人が怒鳴ります。その声で男の子が目を覚ますのでは無いか、居合わせた人達がヒヤリとした次の瞬間、母親が「ヒッ……」と息を呑みます。

「どうした?」

 夫の問い掛けに「今、そこに、於雪さんが……」と答えるのが精一杯でした。

「顔を見たのかい?」

 役員の一人が問い掛けます。男の子の枕元に於雪さんがちょこんと座っていたのですが、妻が見たのは於雪さんの後ろ姿だけでした。

「後で於雪さんに会っても、ここで見たなんて言わん方がいいよ」

 婦人会の会長が言います。

「なぜ、です?」

 夫が問います。

「あなたたちは都会で育ったからわからないだろうけど、十六夜のような古くからの土地にはね、見ても見ていない、聞いても聞いていない、話したくても話さない、そういう事があるのよ。この十六夜では、それが於雪さんなの。わかるかしら」

 若い夫婦には理解出来ないようです。

「もし、どうしても耐えられないなら、十六夜を出て行けば良いよ」

 自治会長が優しく語ります。

「でも、於雪さん、この子気に入ったのは、何故なんだろうねぇ」

 ポツリと一人が呟きます。

「なにか、賭けたい何かがあったんだろうねぇ」

 エアコンの温度表示が一度、また一度と上がっていきますが、しばらくは誰も気が付きませんでした。

 男の子は朝が早かったからか、ぐっすりと眠っています。周りの大人達は世間話に花を咲かせていますが、若い夫婦だけはその世間話にも加わることも出来ず、隅でしょんぼりしています。

 いつしか壁に掛けてある時計も正午近くになっています。

「今年は、ちょっと遅いねぇ」

「出だしが、遅かったからねぇ」

「でも、そろそろ終わるんじゃないかね」

 男の子が目を覚まします。そして辺りを見回します。

「……お姉ちゃん……」

 於雪さんを探しているようです。

「そろそろ、戻ってくるんかな」

 役員の一人が言いますと本当に公民館の玄関が開き、於雪さんが戻ってきました。

「ただいまぁ、遅くなってごめんね」

 誰よりも先に男の子が於雪さんの元へと走っていきます。

「ごめんね。待たせたよね」

 草履を脱ぎ終えた於雪さんは早速男の子を抱きしめます。男の子は時計を指差し、正午だから一緒に昼食を摂ろうと言います。

 於雪さん、素直に応じて男の子に手を引かれて座卓へと向かいます。炬燵と座卓の上には役員らが持ち寄った食事がいくつか並べられています。男の子は於雪さんにあれもこれもと勧めますが、於雪さん、そこまでは食べられません。

 食事を摂りつつ、男の子はあれこれと話しますし、於雪さんは一つ一つに丁寧な返事をしています。

 困惑しているのは男の子の両親、「うちの子は、こんなにも話すのか」と感じています。そして「これからは、この子と話す時間をもう少し作ろう」とも思いましたし、今日からでも実行に移そうと夫婦で決めました。

 男の子は一通り話して満足したのか、それとも炬燵に足を入れていて温かくなりすぎて眠気を招いてしまったのか、徐々に口数が減っていった挙げ句、眠ってしまいました。

 両親は於雪さんの顔色をうかがいながら我が子を抱き上げてそそくさと公民館を出て行きました。

「於雪さん、あの子が気に入ってるみたいだけど、何かあるのかな」

 婦人会の会長が聞いてきます。

「あの子は、将来、役に立つよ。だから……」

 一旦言葉を区切った於雪さんはニッて笑ってから「だから、今から嫌われないようにしてるんだよ」と言葉を繋ぎます。

 自治会の役員たちは言葉を繋いだ部分が冗談を含んでいると思う一方で期待が半端ではないことを改めて感じました。

 役員たちは筆記具と手帳やメモ帳、ノートを持って待っています。

 於雪さんは立ち上がり、空気はピンッと張り詰めます。

「二月の中頃に大雪となります。峠が使えなく可能性があります。融雪剤を忘れないように。春になると、これはいつものことですが、鹿や猪が餌を求めて来ます。畑は注意するように。今年の梅雨は雨が多くなるでしょう。作物は注意するように。今年の夏も暑くなります。健康には気を付けるように。秋祭は例年より一週間ほど遅らせるように。秋の終わりにはまた鹿や猪に熊が餌を求めて来ます。年末年始もまた雪が多いでしょう」

 ここで於雪さんは言葉を区切り、老人会の会長を見て「それと、貴方はお酒の量に気を付けるように。注意しても一度は救急車に運ばれることになるでしょう」と伝えます。

「はぁ……」

 老人会の会長、しょんぼりしていますが、於雪さんの預言通りに一度はお酒の飲み過ぎが原因で救急車を呼ぶことになります。幸いにして命に関わることはありませんでしたが、それでも以降はお酒を控えるようになったとか。


 十年と少しの時が経ちます。

 あの男の子も今では高校一年生、毎朝バスで約一時間かけて駅近の県立高校へと通っています。当然、帰宅もバスで約一時間かかることになります。

 駅前のささやかなロータリーにあるバス停に高校生達が集まっています。まだバスが来るまで少しだけ時間があるようです。

 十六夜地区から通学している男子たちは学年を超えてじゃんけんで買い出し係を決めています。

 夕方ですから当然、お腹も空きますし、喉も渇きます。十六夜地区までの約一時間、我慢しろという方が無理という物です。

 あ、三年生が負けました。しかし、人数分を一人で持つには重さも量も半端ではありません。結局は駅前にあるスーパーマーケットへと負けた人と一緒に買い出しに行くこととなります。

「そう言えば……」

 例の男の子が何かを思い付きます。

「どうした?」

 二年生の男子が問い掛けます。

「ぃゃ、於雪さんに何か買って帰ろうかって」

 その場に居合わせた皆が「あ~」ってなりました。

「お前、本当に於雪さん、好きだなぁ」

 じゃんけんに負けた三年生が言います。

「好きとかじゃないんだけど、なんか、今日はそんな気分で……」

 二年生の女子が「そう言えば、越してきた時、ずっと於雪さんのそばにいたもんね。覚えてるよ」と懐かしそうに言います。

「早くしないと、バス来ちまうぞ」

 他の一人が言うのでじゃんけんに負けた三年生と男の子、それに二年生の女子が慌ててスーパーへと行き、ペットボトルの飲料と菓子パン、おにぎりを適当に買い物カゴへと投げ込んでいきます。

「於雪さん、何が良いかな?」

 男の子は店内を見回します。於雪さんのことです。菓子パン一個でも買って帰れば諸手を挙げて喜んでくれるのは知っていますが、今日に限って言えば何かいつもと違うものを買って帰りたい気分です。

 駅前のスーパーマーケットとは言え、人口の少ない土地の店舗ですから決して広いわけでもなく、品揃えにも限りがあります。その中から一品を選ぶのは結構大変なようです。

「早くしろよぉ」

 三年生の声が聞こえます。レジの前に並んでいますが、あと一人で順番が巡ってきます。レジの順番も大事ですが、これ以上悩んでいると間違いなくバスにも乗り遅れそうです。男の子、目に入った一品を掴んでレジへと急ぎました。

 三人が戻ってくるのを持っていたわけではないでしょうが、バスは三人が乗車するとすぐに発車しました。バスの車内は仕事帰りの人や同じ方向へ帰る学生らも多く乗っており、高校生達はなかなか座れません。しかし、駅を離れると降車する人の方が多く、徐々に車内には余裕が生まれてきます。村役場前のバス停に着く頃には高校生達は座って小腹を満たしています。車内には「飲食禁止」の貼り紙が貼られているのですが、十六夜地区の子らに限っては運転手さんも黙認しています。飲み終えた空き缶やペットボトル、菓子パン類の入っていた袋などを降車する際にきちんと車外へ持ち出し、各家庭の護美箱へ捨てているので許されているのです。育ち盛りの高校生が夕方に約一時間もバスに揺られて空腹を我慢するなど、大変な事ですし、大人の理解があってこその黙認です。

 バスは村役場前を過ぎて村立中学校前に至ります。このバス停では部活動などで帰宅が遅くなった中学生たちが数人乗ってきます。もうバスの車内は十六夜地区と言っても良いぐらいに他の集落の人はいません。

 いつの頃か、正確には伝わってはいませんが、バスの中に飲み物の容器や菓子パンを包んでいた袋を放置する人が居たそうです。当然、バス会社も怒りましたが、それよりも先に於雪さんが気が付いて当人を氷結地獄に閉じ込めたとか、その様な話がまことしやかに伝わっています。実際には体温が平熱より二度ほど下がるという低体温症で数日寝込んだというのですが、於雪さんが本当に関わっていたかどうかは定かではありません。

 バスは峠を越えて十六夜入り口のバス停に停車し、中学生と高校生数人が降りていきました。

「また明日ぁ~」

 そういう感じの挨拶が交わされています。

 バスはさらに数分進んで十六夜公民館前のロータリーへと到着します。

 バスを降りると男の子はまっすぐに公民館を目指します。公民館の玄関を開けようとしたら丁度良いタイミングで戸が開き、於雪さんが顔を覗かせます。

「お帰りなさい」

「あ……ただいま、です」

 タイミングが良すぎて意表を突かれたようです。

「於雪さん、ただいまぁー」

 女子たちは於雪さんに一礼をしつつ、家路を急ぎます。

「於雪さん、お土産、買ってきたよ」

 男の子はスーパーのレジ袋を差し出します。

「なんだろう、嬉しいなぁ」

 於雪さん、心底嬉しそうな声を出します。公民館の奥、居間では老人会の会長が笑いたいのを堪えています。ちなみに今の老人会の会長は二年前まで自治会の会長を務めていた人です。二年前に自治会の会長を勇退したのですが、十日もしないうちに老人会の会長の座を譲られてしまい、不承不承に務めています。そうは言っても長年にわたって於雪さんの話し相手を務めてきましたし、今もそれは変わりません。

 さて、話を戻しまして男の子がレジ袋から出したのはパックに入ったお赤飯、「何か、良いこと有ったの?」と尋ねる於雪さんに「ぃゃ、そう言うわけじゃないんだけど、目に入ったんで、っぃ……」と答えるのですが、胸中では「失敗したぁ……」と反省しきりでした。

「ありがとう。頂くね」

 於雪さんはいつも通り丁寧に受け取ります。

「あ、於雪さん、チンしたら温かく食べれるよ」

「チン?」

「レンチン。レンジでチンするんだけど、於雪さん、使えないよね」

 そう言うと男の子、さっさと靴を脱ぎ、公民館の台所に入って手頃な食器を一つ棚から取り出し、於雪さんの手からお赤飯の入ったパックを受け取って中身を食器へと移します。

「そのままでも、食べれるのに」

 於雪さん、男の子の顔をのぞき込みますが、「温かい方がおいしいに決まってるよ」と男の子は真顔で答えます。

 ちなみに於雪さん、エアコンとテレビのリモコンはなんとか使えますが、それ以外の機器類は全く扱えないのでした。炊飯器も「昔はボタン押すだけだったのに、ねぇ……」と最新の炊飯器はあれこれ機能がありすぎて全く使えないそうです。

「まるで、夫婦だなぁ」

 老人会の会長、二人の後ろ姿を眺めながらそう思いましたが、「何か言ったぁ?」と於雪さんが聞いてきます。どうやら心の中を読まれたようです。

「何も言ってませんよ。そろそろ帰りますかね」

 老人会の会長、席を立ちます。

「お疲れ様でした!」

 男の子が元気良く声をかけます。

「また、明日ね」

 於雪さんも声をかけますが、於雪さんの心はおそらくお赤飯に向けられているようです。

 多分、於雪さんがお赤飯を食べ終えるまで男の子は話し相手を務めることでしょうし、それがこれから先、何十年も続くことでしょう。

 年月は流れて例の男の子も大学へ進学したのは良いですが、就職活動で頭を抱える時期を迎えていました。

 本人は東京か関東の賑やかな土地にある大学へ進学したいと考えていましたが、いかんせん家庭の経済的な事情を考えると関東での独り暮らしだけでも相当な負担となります。

 そうかと言って自宅のある十六夜から通学できる大学があるわけでも無く、結局はアパートを借りることに変わりはありません。

 男の子は公立の大学へ入学しましたが、「やっぱり、関東の有名な大学に……」との思いは今も変わらないし、有名な大学の方が就職にも有利なのではないか、その思いもあります。

 夜遅い時間、星空を眺めながら缶ビールの蓋を開けます。

 次の瞬間、背後に冷たい何かを感じます。

「何を、悩んでいる?」

 男の子が振り返ると於雪さんがベッドにちょこんと腰掛けています。

「あ、こんばんは」

 あまりにもいつも通りの反応に「ちょっと!もう少し驚くとかしてよ!私がここに居るのよ!」と於雪さん、強く主張してきます。

「不法侵入で、警察呼ぼうか」

 男の子はスマートフォンを片手に淡々と応じます。

「あ~待って待って、警察は呼ばないで~」

 ここまで気心の知れた二人だからこその会話でした。

「それで、於雪さん、何しに来たの?」

「失礼だなぁ、きみが悩んでいるから、心配して、来たんじゃないか」

「ぃゃ、そこまで悩んでいないけど……」

 於雪さんに心の奥まで見られているようです。

 十六夜に移住した幼い頃から高校を卒業するまで姉同然に慕っていたし、忙しい両親よりも自分のことを知っているでしょう。隠し事が通用する相手ではありません。

「就活が、上手く行かなくて、さ……」

「あぁ、それなら、十六夜へ帰ってきたらいいじゃ無いか。仕事ぐらい私が見付けてやるよ」

「十六夜にいい仕事、あったかなぁ」

「村役場の職員を五人か六人、病院送りにすれば、きみ一人ぐらいなら採用して貰えるだろう」

「だめだめだめ!そんな卑怯な、皆頑張って就活しているのに」

「いいじゃないか。きみ一人ぐらい私が裏で手を回したからといって、罰は当たらないよ」

 どこまで本気で言っているのか、こればかりはわかりません。

「そう言えば、於雪さん。前から聞きたかったんだけど、於雪さんって結局、何者なの?」

 一呼吸置いてから「えぇ~っ!?」に続けて「今頃聞くの!?それを!?」と於雪さん、驚きを隠せません。

 男の子は小学生の高学年辺りから於雪さんの素性が気になり、十六夜の大人達に時折尋ねていましたが、皆言葉を濁したり、話題を変えたりして納得のいく答えを得られませんでした。

 於雪さん、ちょっとだけ動揺しています。

 男の子にしてみれば一瞬の沈黙でも於雪さんにしてみれば長い時間に感じられました。


「私ね、雪女、なんだ」


 遠い昔、とても遠い昔のこと、私はね、山の中を彷徨っていたの。たくさんの憎しみ、たくさんの悲しみとか、恨み、怒り、色んな物を抱きしめて彷徨っていたの。

 ある日、雪の中に男の人が倒れていたの。死んでいるだろうと思っていたら、息があったのね。仕方が無いから助けてあげて、その人と暮らすようになって、子供ができて、その子供たちが相手を迎えて、また子供ができて、その繰り返して十六夜という集落ができたんだよ。

 今、公民館がある場所、あそこに私たちの家があったんだよ。それでね、十六夜神社には、私の夫と子供たちが祀られているの。

 そしてそれを守るのが私の務め。

「それじゃぁ、十六夜の人達って皆、於雪さんの子孫ってこと?」

 貴方のように外から来てくれる人も居るから、皆じゃ無いかな。結婚してきてくれる人も居るけど、出て行く人もいるし、人が減っているのは確かね。だからきみのように外から人が来てくれるのはとても嬉しいんだ。

「喜んで貰えたら嬉しいよ」

 さて、そろそろ帰るとしようか。

 きみに仕事、私が責任を持って探してあげるよ。だから十六夜に帰ってこい。


 そう言うと於雪さんはベッドから降りて玄関の方へと歩いて行きます。

「じゃぁ……」

 振り返って手を振って玄関の戸を開けようとして「あっ!」と小さく声をあげます。その顔は真っ赤になって照れています。

 そしてスッと於雪さんの姿が消えました。

 於雪さんの姿が完全に見えなくなってから男の子は「クスッ」と於雪さんの失敗を小さく笑いました。

 その後、村の議員が一人不正を働いていたことが判明し、その不正に関わっていた村の職員二人共々逮捕されました。

 当然職員二人は懲戒免職となりましてその二人分の空席を誰が埋めたかを今は強いて書かないでおきましょうね。

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