第五章・あたりまえだのやばたにえん / 13
一方、坂を下ったアリエス。
上り坂は難儀であったが、車輪つきで下り坂ならあっという間だ。もとより坂上の集落と宮下地区は段丘崖で隔てられているだけで、直線距離はほとんどない。漕ぎ出してから藤倉邸に達するまで、二分とかからなかった。全速力で下るとキク婆さんがひどく怯えた声を出すので、ブレーキを重ねて遅くせねばならないのが歯がゆかった。
だだっ広い藤倉邸の長い外塀、先日アリエスがビビり倒した表門から少し離れたところに、日常の出入りに使う小さな裏門がある。といっても、間口一間の屋根付き門で、そこらの日本家屋より立派な作りだ。入ると目の前に母屋が建ち、石畳が二手に分かれ、右手に家族全員が普段使いにする玄関口が、左手に厨房へ続く勝手口の扉がある。
初日以外はアリエスも裏門から入っているから、もう慣れたものだ。自転車を止めると、重い引き戸にぐっと力を入れて開ける(藤倉邸の外壁や扉には、外からは見えないが、防弾の鉛板が入っているのだ)。厨房の窓からは灯りが漏れ換気扇が回っていて、勝子は確かに夕食の仕度中だった。
息急ききって勝手口に飛び込むと、勝子は仰天して身構えた。条件反射で揚げ物をするコンロの火を切るあたりは、厨房のヌシの沽券であろう。「何事だい?!」
その大声と、荒く開いた戸口の音を聞きつけて、欽太とゆかりも厨房に顔を覗かせた。───夏休み中のアリエスは曜日の感覚を失っていたが、その日は土曜日である。お盆も近く、ふたりは普通に休みだった。昼食時、いっしょにちゃぶ台を囲んだときにもちゃんと顔を合わせている。
その事実が意味するところに、荒い息のアリエスは、すぐに気づけなかった。
「テツが、ケンカ、してて……加勢が、要る、って……」
「場所は?」
「変な、お菓子屋の、前……」
「あぁ、そういや今日はキクさんとこ行ったんだったね。松鶴堂だね、あいわかった」勝子が太鼓判を押したときには、もう欽太は携帯電話から指示を出していた。「松鶴堂前の更地だ。親父がたぶん小金山と揉めてる。うん。何人か頼む。すぐに車出して。一台は裏門に回してくれるかな。僕も行く」
「あと、婆ちゃん……」
「あぁ、あそこで揉めると、キクさん出てくるもんねぇ」勝子が開けっぱの勝手口から裏門へ出て、キク婆さんを荷台から下ろす。ぬかりなく左右を見渡し、追跡はないかを確かめてから、手を取って迎え入れた。何事だい何事だいと不審げにつぶやく婆さんに、いいからちょっとお茶飲んでって、と応接間へ誘導する。
その様子を横目で見ながら、ゆかりは土間で息を整えるアリエスに尋ねた。
「それにしても、なんで電話しなかったの? 家電の番号教えたよね?」
「え? 勝子が出るかわからないから、直接行った方が早いって……」
「今日は土曜よ。あたしやお父さんはずっといたんだから、電話鳴れば出たわよ」
「それに、あのお婆さんが危ないから、巻き込まないように避難させろって……」
「九〇過ぎの年寄りに急坂を下らせる方が危険でしょ。こっちから出向いて盾役を並べた方が、早いし確実。その判断がおじいちゃんにできないとは思えないけど───」
ゆかりは察した。
祖父が遠ざけたかったのは、アリエスだ。ヤクザのケンカを目の当たりにさせるのは忍びない、未熟で、幼い、子供だ。
全速力で坂を駆け上がるエンジン音が、息も絶え絶えに万事休すかと覚悟を固めていたテツとジョーの耳に届いて、ふたりはふわぁと肩の荷を下ろした。藤倉興業所有の数台の営業ワンボックスカーが、松鶴堂前の空き地に至り半グレどもの囲みを突破して、急旋回して停車する。
すかさずスライドドアが開き、中から背広姿の壮年の社員が───つまりは強面の元ヤクザどもがどっと降り立ち、統制の取れた動きで列をなした。一方、作業着やカジュアル姿の若者が揃う小金山商事は、見目も立ち位置もバラバラだ。
これまで両社は、表面上は軋轢を避けてきた。松鶴堂リフォーム詐欺事件の発覚を機に、いよいよ全面対決か───という様相だ。指をポキポキと鳴らす音が、双方から聞こえてくる。
一触即発の局面を制するかのように、もう一台ワンボックスカーが坂を駆け上ってきた。中から現れたのは、裏門から出た分、到着が少しだけ遅れた藤倉欽太である。
急いで出てきたから、洒落ている余裕はなかった。量販店で買った、クールビズ対応という名の薄っぺらな生地でできた、紺色の安物ジャケットを引っかけてきただけだ。ネクタイを締め直そうとして手を襟元に持っていくが、つける暇がなく襟をラフに開けたままなのを思い出す───その手には、結婚指輪が光っている。
疲労困憊のテツが、安堵のため息をつきながら欽太のもとに寄った。
「助かった。アリエスは無事に戻ったかい」
「あの子はちゃんと役目を果たしました。だから僕がここにいます」
「上々だ。───いやぁ、すまねぇ、もう無理だ。体が言うことをきかん。後は任せた」
「わかってます」
テツは、欽太と入れ替わりにワンボックスカーの中に収まって、ぐったりと横になった。
同じようにジョーも、この場は欽太に任せて引っ込むことにしたが、「これ。アリエスが撮った」車に乗り込む前に、欽太にスマホを見せた。例のリフォームの写真である。「書類は、松鶴堂を漁れば出てくる。ヤツらを締め上げる証拠を欲しがってると聞いてるぞ、これでどうだ?」
「なるほど……こんなウチの目鼻の先でやらかしているとは、ちょっとのさばらせ過ぎましたかね。でもこれじゃ、小金山自身は知らぬ存ぜぬで尻尾切りを決め込むだけです。どうにかして、グウの音も出ないようにしなきゃいけません。今日がそのチャンスになればいいんですが」
ジョーがよっこらと車に乗り込むのを手伝いながら、欽太は答えた。
一方、小金山の側にも一台の車が新たに到着していた。とりわけ艶めいた黒のセダンから下りてきたのは、サングラスをかけ細い葉巻をくわえた小太りの男───小金山義司その人である。
ブランドもの長袖黒スーツを着ているが、その舶来もののデザインは、日本の気候と日本人の体型に合っているとは思われぬ。顔立ちは三〇代と見えるが、とっちゃん坊やと言おうか、中身より形を整えて虚勢を張っているように見える。外に出たとたんにどっと流れ落ちる汗をハンカチで拭うその手に、結婚指輪はない。
まず彼は、名桑に近づき、唇を親指で拭うしぐさをした。〝黙れ〟の意味であろう。
「バカ野郎、ヘタ打ちやがって」
「でも社長、」それでも何か言おうとした名桑の顎を、ぐっとつかんで押しとどめる───名桑の方が背が高いので、やや不格好だ。「指示以外のことすんなっていつも言ってるだろうが。ここでやり合ったって、一銭の得にもならねぇってわからねぇのかてめぇは!」
「サーセン!」
名桑が苦々しげな顔をしつつも引き下がり、代わりに小金山が欽太の前に立った。
欽太の背後には、背広姿の藤倉興業社員たちが居並ぶ。……その中に、杖を突き突き、荒事には堪えそうにない着物姿の源さんが混じっているのはご愛嬌である。だが彼を筆頭に、ここなお家の一大事、いよいよ社長がにっくき小金山と一戦交えるおつもりだと、みな殺気立っていた。
小金山の背後には、名桑を筆頭に、老人ばかりが幅を利かせる田舎町になじめぬ若者たちが群れをなす。なべて年寄りとは、金を貯め込んだくせに多額の年金もガメていく守銭奴と思っている。
双方、不満や怒りをはらむ武力を背にしてにらみ合った。
───とはいえ、これをぶつけ合わせ、世代格差を荒事に格上げしたところで、一銭の得にもならぬという点においては、欽太も小金山と同意見だった。




