第五章・あたりまえだのやばたにえん / 9
この建物は店舗兼住宅であり、月毎の訪問の際は、彼らは脇道の路地に回って住まいの玄関から入る。だが今日は店舗入口から入り、アリエスに中を見せてやろうと、ふたりは目配せして決めた。
さすがに夏場ゆえぴったり締められていた引き戸を、テツはがらりと開けた。明るい屋外から、暗い店内に入る。目が慣れるまで少し時間がかかった。
古い木目調のエアコンが、ガタガタ音を立てながら冷風を吹き出して満たす、その空間には───広い土間に、丈の低い平台の什器がいくつも並び、手書きの値札が添えられた駄菓子が雑然と陳列されていた。ボトル詰めの一〇円ガム、一〇円キャンディ、きなこ棒、ソースせんべい、酢イカに酢こんぶ、その他もろもろ。商品以外は柱も掛け時計も西城秀樹のポスターも、すっかり年季ものでくすんでいるが、掃除は行き届いていて清潔だ。店主の几帳面さが見て取れた。
「何だこりゃ?!」アリエスが目を丸くするのも無理はなかった。彼女は、個包装をさらに大きなパックに詰めた菓子しか知らぬ。「これ、お菓子? 食べられるの?」
テツとジョーにとっても、久し振りの光景だった。まして客目線で見るのは、自らの子や孫を連れてきて以来かもしれなかった。
取り扱っている商品は、菓子だけではなかった。ロケット花火、虫取り網と虫かごのセット、駒が磁石でできたポケットサイズ将棋盤といったいわば駄玩具も、ごっちゃになって壁沿いに並んでいる。
「おー、バットがまだある。しかもプラじゃねぇ、木製だ」テツが一本足打法を真似してみせた。
「見ろよこんなのもあったぞ」ジョーが銀玉鉄砲を振り回した。
「俺がホントにガキの頃にゃあ、向かいの崖際の空き地に、紙芝居屋がよく来てたもんだ」
「紙芝居かぁ、橘の方には来なかったなぁ。あの頃は、ここらの方が栄えてたからな」
「テツもジョーも、なんか楽しそうだね」アリエスが目を細めた。「ここが遊び場だったんだ?」
「そういうこった。ここの婆さん、俺らが来ても、ずっとケツの青いガキ扱いだよ」笑って答えてから、テツは少し表情を曇らせた。「……ずっと、な」
テツは手近な椅子に、バットを杖にして座り込んだ───駄菓子屋になぜ椅子があるかといえば、そこにテーブル形インベーダーゲームの筐体が放置されているからだった。もう壊れて動かず、電源は入っていない。テツは手持ち無沙汰にジョイスティックを弄りながら、過ぎた時間に思いを馳せた。
「婆さん、目も耳もだいぶ弱ってきてんだが、加えてここ数年は、頭の中の時計がイカレちまってるみたいなんだ。日々変わらない仕事はできるし、会話も普通にできるが、今がいつか、ってのが曖昧で、俺らのことも、本当にガキに見えてるようだ。いちどゆかりに来させたときにゃ、娘だと思われて閉口したって言ってな、それっきりこの役目を手伝ってくれん」
「でもそのとき、当の婆さんはすごく機嫌が良かったらしくてな。娘がいた寂しくない日々に戻れたみたいだ。そこで、御機嫌取りに、な」と、ジョーはアリエスを指差した。「嘘でいいから、『ただいま、お母さん』って言ってみてくれ」
「えぇ~?」アリエスは露骨にいやな顔をした。「そんなの、恥ずかしいよ」
「ただいまが恥ずかしいことあるかい」テツが言った。「これは良い嘘だ。あれだ、相手からいい反応を引き出すためのブラフってヤツよ。アリエス、得意だろ」
「ブラフはちゃんと頭使って、タイミング計るもんだよ。簡単に言わないし、言えないって。───で、どこにいるのそのお婆さん」
しかめ面のままでアリエスが発した問いに、テツとジョーはふっと我に返った。───婆さん、出てこねぇな?
テツとジョーの記憶では、店の入り口の引き戸を客が開けば、逆に勘定場の奥の引き戸から婆さんはすぐに現れた。戸口にセンサーなどついていないのに、どんなにこっそり入っても、いつの間にか勘定場の丸椅子にちょこんと座っている。超能力だと噂したものだ。なのに今日は出てこない。
店は開いていたし、エアコンも利いている。ならば不在ではないはずだ。勘定場の奥の摺りガラス戸に向かって、ジョーが声をかけた。「婆さん?」……返事がない。
テツとジョーは顔を見合わせた。ついにくたばったか。それぞれに靴と草履を脱ぎ、勘定場の奥の引き戸を開けて上がり込んだ。
アリエスもついていこうかと思ったが、まだ少しつむじを曲げていた。それに、店員の出入りするバックヤード領域は、勝手に入ったら怒られる場所と認識していたから、足が前に進まなかった。彼女はぼうっと店内に立ち尽くし、再び、未知で奇妙な駄菓子屋の空間を見回した。
好きなお菓子を買ってくれると言っていたけれど、自分がどれをどう好むかがわからない。一一歳の頃のテツが知っていることを、一一歳の自分は知らない。
───あ、〝うまい棒〟はわかる。ネットでよくネタになるから。〝キャベツ太郎〟にはキャベツ入ってないってことも知ってる。食べたことはないけど商品名だけは知っているものをいくらか見つけて、少し嬉しくなった。試しに買ってみようか……。
店の戸口の引き戸が、ゆっくり弱々しく、からからと開いたことに、アリエスは気づかなかった。ゴムサンダルが土間をこするかすかな足音とともに、色あせた紺の絣を着た、腰の曲がった老婆が姿を現した。
「こーら、松」
叱る声が低い位置からいきなり聞こえて、アリエスはしゃっちょこばった。しかしその間延びした口調には、とげがなかった。叱られているのに、咎められていない、彼女が初めて経験する声だった。
「あんたは家の玄関から入れって、いつも言ってるだろ。店の品には触るんじゃないよ。あんたのおやつは、大学芋がこさえてあるから。……あれ。こさえたっけ。どっちだったかな。いけないねぇ物忘れがひどくて」言いながら、アリエスの腰を柔くぽんぽんと叩いた。「さぁ、突っ立ってないで、おうちにお入り」
アリエスの中に言い知れぬ感情が湧き上がった。涙が、少しだけ、出た。
「ただいま、お母さん」
少女が我知らずこぼした言葉は、そのすっかり遠くなった耳に届いただろうか。〝娘〟の存在を当然のことと振る舞って、勘定場によたよたと向かった老婆は、小さなレジの前のせんべい座布団をくくりつけた丸椅子に、ちょこんと座り込んだ。
アリエスはそのたたずまいを見て、この空間に積み重なった時間を確かに感じ、その価値を悟った。小さな店の薄暗い土間に子供たちが溢れ、小遣いで買える菓子を頬張りながらじゃれ合う、かつて松という少女が見ていたであろう幸せな幻影を見た。自分にも、そして松にも、そこに価値を積み重ねることはできない。───指の端で、涙を拭った。




