第五章・あたりまえだのやばたにえん / 1
半月ほどが過ぎ、八月になった。
アリエスは毎日藤倉家を訪れた。彼女の武道場での動きは日毎に良くなっていた。摺り足をマスターし、呼吸を乱さず移動するところまでは自在にこなせている。死角まで移動して素早く突きを入れるような工夫をされると、テツも意識して防御せねばならなかった。
テツのポーカーの腕もめきめき上がった。今ではそこそこハイレートで対人戦に取り組んでいる。相手をジョーに見立てて、一対一のテーブルへも参戦し始めた。
勝子による厨房トレーニングも日々続いている。昼食のソーメン率は若干下がり、ソーメンであってもおかずが一品添えられた。食卓の彩りの変化は、藤倉家一同を大いに喜ばせた。
翔太と陽菜はアリエスを姉のように慕い、特に翔太は、アリエスの真似をしたがった。武道場ではいつの間にか勝手に道着を着てアリエスの後ろに立っており、しかし空手ともカンフーともつかぬメチャクチャな手足の動きで戦隊ものごっこを始めたので、直ちにつまみ出された。
そして、翔太が自分もやりたいとねだったので、カジノシトラスのアカウントをもうひとつ作ることになった。同時ログインでなければ、複数のアカウントを使える仕様なのが幸いだった。確率も習っていない小学生にできるものかと、大人たちは笑ったが───ゲームと思えば、当然ながら八歳児の方が吸収が速い。テツのプレイに後ろからちょくちょく口出しするくらいになるまでに、そう時間は掛からなかった。
当人の腕が上昇し、競う相手が現れて談義するようになると、コーチ役の出番は減る。
「そこはレイズでしょ、もっとレイズして大丈夫だよ」
「いや! これはコールでいい。大じいちゃんの読みを信じろ。───そら、後からオールインが入った。レイズしてたら大損してた。な、言ったろ?」
ある日の夕方、藤倉邸のいつもの茶の間。PCが接続されたテレビの前で、テツと翔太のそんな会話が弾むに任せ、アリエスは後ろから様子を見守っていた。
欽太が退勤してきた。背広から普段着に着替え、茶の間に入り、───先月までは父親と変わり映えしない話をする時間帯だったが、今はアリエスが相手の場合が多い。
「どうですか、父はジョーさんに勝てそうですか」
「基本は身についたと思うよ。低レートでじっくり構えれば、かなりの確率で搾取できるようになった」アリエスは答えた。「でも最終的な目的は、性格を知り尽くした相手との、短期決戦のヘッズアップ勝負でしょ。そこで優位を取るにはどうするか、ってのは、もうちょい経験が要るし、下手すりゃ小手先の技術に頼るよりテツの勝負勘を信じた方がいいまであるからね」
───しかし欽太が現れると、アリエスは少し寂しそうな顔をする。つまり、夕餉時が近いと知れるからだ。
「さて、そろそろ帰るかな」
彼女は、夕食は藤倉家の食卓に加わらない。自宅で摂ると決まっているのだという。母親が何かの拍子で家にいた場合、その決まりを守らないと狂ったようにキレるらしい。自分の行状を棚に上げてなぜ娘を叱れるのか理解不能だったが、あまり素直でない彼女が素直に順う習慣に、欽太は口を出す気になれなかった。
おそらくはまだ家庭が壊れていなかった頃に、藤倉家同様、〝家族で囲む夕食〟という意味合いで決められたのだろう。父が去り母が台所に立たなくなり、ダイニングテーブルには埃が積もっているだろうに、形骸化してなおくさびのように根付いたままの習慣。
欽太は知っている。今は、それに順ったところで、誰もいない、暗く、静まり返った自宅が待っていることを。アリエスが毎日やってくるのは、自宅にそれを咎める者がいないからだ。
彼は、そろそろ母親を呼び出して、娘の先行きについてきちんと話をする頃だと考えた。しかし、今が楽しげなアリエスにその意向を伝えるのは憚られたので、母親だけに連絡を取ろうと、優秀なる藤倉興業の営業部隊に、出先でそれとなく情報収集させたのだ。
そのアンテナに、彼女はまるで引っかからなかった。帰宅していないどころか、消息不明なのだ。過去にどこそこで浪費していた、という話は聞こえてくるのだが、ここ数週間の───ポーカー大会の前夜、生活費を残らず持ち出して以降の足取りがつかめなかった。
アリエスは母の不在に慣れきっていて、さも当然のように、今回は長いね、と、薄い反応を示すだけだったが。




