第四章・重いコンダラ天元突破 修行編 / 12
そうして、テツとアリエス、藤倉家でのふたりの修行の日々がしばらく続いた。
アリエスは毎朝九時頃に藤倉邸にやってきて、藤倉家の裏門から勝手に入り、応接室で道着に着替え、武道場に入る。午前中はテツの指南を受け、昼にソーメンをすすり、午後は茶の間でカジノシトラスに向き合い、夕方に帰る。それが毎日のルーチンになった。
一週間ほど経った、日曜日。
朝、裏門に現れたアリエスは、近所のスーパーの大きな手提げ袋を手にぶら下げていた。そして武道場に入り、今日は早めに切り上げると宣言した。なぜかとテツが問えば、答えて曰く───。
「今日は、あたしが昼飯を作る。いいかげんソーメンは飽きた」
「……それ、勝子には言ってあるのか」
「言ってないよ、勝手に押しかける。一一時くらいでいいよね」
道着をまとえば礼に徹し、冷静沈着な所作を旨としていたテツの姿勢と表情が、見る見る崩れた。『え、えらいことや……せ、戦争じゃ……』の野望の王国コラと同じ表情となって、ワナワナ震え出した。
「……どったの?」
テツは慌てふためきうろたえまごつき、酔漢のごときおぼつかない足取りで母屋へのインターホンに飛びつくと、欽太を呼び出した。
修行などしている場合ではない。厨房にて、直ちに勝子vs.アリエスが勃発した。
むっすりと渋い表情で、唇をへの字に曲げて、包丁を片手に持ったまま腕組みをして仁王のごとく立ちはだかる勝子に、アリエスはいきなり爆弾発言をぶつけた。
「だからソーメンはいいかげん飽きたっつってんだろ、このクソババア」
勝子の眉がピクリと動いた。
厨房の入口、のれんの外側にいてヒヤヒヤしながら見守る藤倉家の男どもは、度肝を抜かれていた。クソババア! ろくでなしが引きも切らず押し寄せる藤倉家にあっても、勝子をクソババア呼ばわりした向こう見ずは、そう多くはない。
「……みゆき以来よねー」
ゆかりは厨房の中にいて、冷蔵庫に背をもたせかけながら、誰に言うともなくひとりごちた。過去に勝子とやりあった、この〝みゆき〟なる女性については後述するとして───ゆかり自身も、そうした向こう見ずのひとりであった過去を思い出し、遠い目をした。
とはいえ、さすがにソーメンが続いたくらいで母を罵ったことはない。そのていどでキレていたら、藤倉家では血管が何本あっても足りない。
「コックを雇え」と進言し、実行に移されたこともあるが、三日で逃げられた。こと勝子が仕切っている限り、料理人も女中(勝子はホームヘルパーなどという言葉は知らぬ)も居着かないのである。三月に一度の大掃除に藤倉興業の従業員を駆り出す以外は、超広い屋敷に家族のみが暮らしている。
閑話休題、
「あのさぁ、アリエス……? 子供持ってみるとわかるわよ……毎日同じメニューでいいなら、その方がいいやーって……」
「うるせぇ」ゆかりの実感こもったつぶやきを、アリエスは切って捨てた。「そんなのあたしに言うな。てめぇで食いたいもん食いたいから、自分で作るって言ってるだけじゃんかさ。そっちもラクできるんだから、喜ばれると思ってたのに」
「もう女が厨房にこもるって時代じゃないんだから、作らなくてもデリバリーで良くない?」
「だーかーらー、自分で作りたいんだってば、なんかおかしい?」
「できるの?」
「できるよ。ガキにゃ無理とか言わないでよ、そういうの大っキライ」
ここに来て、ゆかりは説得を諦めた。しかたないんじゃない? と勝子にも目配せする。「何を作る気?」と尋ねてみると、
「冷製パスタ」アリエスは胸を張って答えた。「材料切って混ぜて麺と和えるだけだよ」
陰で聞き耳を立てる藤倉家の男どもは驚愕した。パスタ! スパゲティじゃなくて?!
「そんで、トマトとツナ缶と大葉と、ここどうせオリーブオイルないだろうから買ってきた。あとの道具と調味料は貸してよ。だいたいあるでしょ」
オリーブオイル! なんというハイカラなものを!
勝子はといえば、仁王の姿勢のまま微動だにしなかった。アリエスを睥睨したまま、しばらく黙って考え込んだ後───流し下の戸棚を、ばこん! と音を立てて開けた。中から巨大な寸胴鍋を取り出し、テーブルにドンと音を立てて置いた。
「子供にこれを貸せると思うてかい」
直径五〇センチ、小さなアリエスを詰め込めそうなサイズである。
あぁそうか、とため息をついてゆかりが補足した。「作るなら、ゆでるパスタは少なくとも七人分。そこに熱湯がたっぷりよ」
勝子はじっとアリエスを見据えて返答を待った。
アリエスは寸胴を見て、勝子を見て、唇をへの字にして、いったんは目をそらして、
「手伝え……ください」ぼそりと言った。
「言葉はハッキリと!」
「自分だけじゃできないんで、手伝ってください」今度はどうにか、顔を上げての返事。
勝子は、ふん! 鼻を鳴らした。外から覗き込んでいる男性陣をチラと見やると、テツと欽太はともに、GO! のサインを送っている。
「できるんだね? 作る量はともかく、包丁は毎日握ってる、と?」あらためて問うと、
「そうしなきゃ生きてけないもん。自分のメシは毎日自分で作ってるよ」
その回答を聞いて、勝子とゆかりは目配せしあった。アリエスは気づかず、にんまり笑ってみせた。「……でも今日は、みんなに食わせるんだ。ちょっと楽しみにしてた」
「ふぅん。そこまで言うなら、いっぺんやらせてみようかね。だけど熱湯はあたしがやるから」
勝子はようやく頷いて、アリエスに包丁を握らせた。
───そしてすぐに、絶叫が響き渡った。
「猫の手! ねーこーのーてーっ!」
「あんた誰に料理教わったのーっ!」
「え? 誰にも教わってないよ、全部ネットのレシピ動画だよ」
恐怖に顔をひきつらせる勝子とゆかり。その間にもトマトを切り進めるアリエス。───左手の指をまっすぐ伸ばして、指先でトマトを支え、右手は包丁を握り込み、肩に力を入れ、刃を上から押さえつけるように当てている。
「この包丁、なんかすっげーよく切れるね。楽!」
「……わかったお母さん、この娘きっと包丁研いだことない。ふだん、当たったくらいじゃ指切らないようななまくら使ってる」ゆかりがあえいだ。
藤倉家の刃物は、お抱えの研ぎ師が、包丁から長ドスに至るまで鏡のように顔が映るまで研ぎ上げる。下手に扱うと、骨までバッサリだ。
しかたない。勝子は黙ってアリエスから包丁を取り上げ、自分でトマトを切り始めた。
「自分でやれるってば───」
反駁するアリエスを無視して、すとんとんと手際よく切りながら、厨房の外の男どもに呼びかけた。
「お義父さん、明日からこの子、昼前の一時間借りていいかい。少し料理も仕込むよ。こりゃ、何かやらかす前にちゃんと教えてやんないと、やる気がある分厄介だ」




