第四章・重いコンダラ天元突破 修行編 / 5
欽太はアリエスを連れて茶の間を出た。渡り廊下を進み、離れに建てられた武道場に向かう。取締役会議をした大広間とは、母屋を挟んで逆の位置にあたる。
アリエスはまたしても、初めて味わう不思議な空間に入り込むこととなった。
翔太と陽菜のプール遊びは終わったようで、広い屋敷の中が、ひっそりと静まり返っていた。微かな生活音、庭の池で鯉の背が水面を分ける音、築山の草木を渡る葉擦れのざわめき、あれほど不快だった蝉の声すら、さざ波のように広がって心落ち着かせる。
武道場は、畳が三〇以上ずらりと並ぶ、広い広い和室だった。窓は開け放たれ、薄い網戸で虫だけを遮っていた。木々をわたり池を越えて縁側から風が吹き込み、エアコンがなくても汗が乾いて涼しかった。
そこにテツがいた。道着姿で、掛け軸だの日本刀だのが飾ってある床の間を背にひとり座禅を組み、静かに瞑想している。
アリエスは息を飲んだ。
背筋がピンと張り、微動だにせず、まるで仏像のようだ。だが、無表情のようでいて微かに穏やかに浮かべる笑みには、確かに命がある。
社会見学で見た、〝優しい笑みをたたえてらっしゃる仏様〟は、何がありがたいのかさっぱりわからなかったけど、いま理解した。〝ありがたい姿〟がまずあって、それを木で彫って模したものが仏像なのだ。木っ端にありがたみがあるのではない。
攻めるに近寄りがたく、守りに転じるには無防備過ぎる。ポーカーフェイスの究極だ。これができれば、ポーカーだってきっと強くなれる、と直感できた。
「───アリエスさんをお連れしました」敷居の手前から、欽太が呼びかけた。
「おう」テツは姿勢を崩さずに答えた。「入れ」
自然と体が動いて、アリエスは敷居を踏み越えていた。テツは背筋をぶらさずすっくと立ち上がり、自分の前に相対して立つよう促した。
「よし。準備は……できてるな」
「勝子とゆかりが道着を整えてくれたみたいです」敷居の手前に控えたままで、欽太が言った。「着替えはこれからも任せましょう、女の子ですからね」
「そうか。助かる。───話は、したのか」
「はい。つつがなく」
「わかった。ありがとう」
テツが言い、欽太は一礼してその場を去って行った。アリエスはまた驚いた。親が、子に向かって、『ありがとう』って言うの? そんなことありうる?
まごつくうちに、ピシッと言葉が飛んできた。「気をつけ」テツが両手を横にすっと下ろして、目の前に立っていた。「礼」両手を横にしたまま、テツは深く頭を下げた。
アリエスにはなぜテツがそうするのかわからなかった。まったく、不思議なことばかり起きる。「学校みたいなことすんのな。作法を教わりに来たんじゃないのに」
「いいから頭を下げろ。学校の礼とは、意味が違う」
年寄りに頭を下げさせたままにしておくのも気が引ける。アリエスは、おざなりに頭を下げた。
「よし」
それを確かめると、テツは床の間に飾ってあった日本刀を手に取り、アリエスに放り投げた。
日本刀って鋼の塊じゃないの? アリエスはまごつきながら、体の真正面で抱え込むようにして受け止めた───が、予想したずっしり感はなかった。……竹光だ。小太刀ほどの長さだが、アリエスの体格からすれば物干し竿だった。
「今、礼をしたのはな、これからそれを使うって合図みたいなもんだ。今からやるのは武道の一環であって、ケンカでも果たし合いでもねぇってな。───だいたい礼儀ってのはそんなもんだ。一度礼をしたらしばらくは真面目にやる。もう一度したら、その後は不真面目でいい、ただの区切りと思っておけばいい。本当に礼を尽くしたい相手には、自然と頭が下がるもんだ」
なんだかたいそうなことを言っているようだが、手に馴染まぬ長得物を持たされたアリエスは、それどころではない。「コレ、何?」
「見てのとおりだ。そいつで俺をぶん殴れ」
「えぇ?」
「できるもんならな、ってこった」テツはニヤリと笑った。「五分のうちに一度でも当てたら、それで稽古はしまいだ」
「ふぅん……」それがポーカーと何の関係があるんだろうか。まったく、何が何やらだ。
よくわからないままに、アリエスは、竹光の感触をぐっぐっと握って確かめた。片手で持つのか両手で持つのかどっちだろう……と思っていると、テツが雑巾を絞るようなしぐさで、両手で持つよう伝えた。
「そっちは何持つの?」
「俺ぁステゴロだ、何もしねぇ、避けるだけ」
「簡単すぎない?」
「言ったな?」
テツはからからと笑うと、かかってこいとばかりに、挑発的に手招きした。




