第二章・君の名は 君の名は。 / 15
タチバナシステム本社では、欽太が引き続き小金山について語っていた。
「これでも、博くんの作った地盤を引き継いで、彼が小金山商事を興してくれたことには感謝してるんです。そこから、何がしか成し遂げたい野望もわかるんだ。だけどね、やり方がよくない。彼は悪いバクチ打ちだ。賭けちゃいけないところに賭けて、その上、勝ちをもぎ取るためにイカサマに手を出している。
父はいつも言ってました。今の世はバクチっていうと全部悪者みたいな雰囲気ですが、本当は、いいバクチと悪いバクチがあるのだと。その区別がつくようになれ、と。
若者が夢を持ってそれに賭けるのは、いいバクチだから大いにやればいい。僕が東京に行くと言ったとき、さんざん渋った父ですが、時を経て学生仲間と事業を興すと言ったとき、いちばん応援してくれたのも父です。
だけど、それが悪いバクチに変わらないよう気をつけろ、とも言われたんですよ。いいバクチ打ちは、状況の変化に敏感に反応できるんです。ここぞで攻め、引き時を誤らない。悪いバクチ打ちはそれができない。ひとつことに思い詰めて、そこになりふり構わず賭けてしまう。あるいは、あれもこれも手に入れようとして、可能性のある全てに賭けてしまう。そういうバクチこそヤクザのカモでね、たいていは破滅するまで負けますし───むしろそんなのにうっかり勝たれては困る。世の中のほとんどを占める、バクチを打たずコツコツ生きている堅気にいい迷惑だ。
小金山義司は、そういう陥穽に嵌まったんです。単に商売敵としてだけでなく、そんな世界に嵌めてしまった我々のけじめとして、そろそろきっちり退場していただく頃合いなんですよ」
欽太の最後の一言が、元ヤクザの血を引く矜持から発せられた、ぞっと背筋が冷える響きになったのを感じ取りながら、富市は冷静に答えた。
「僕は安易に頷いちゃいけないところでしょうが、わかります。無駄なプライドや強すぎるこだわりが、物事を良くするためしはない。それで自縄自縛になってしまったら、元も子もない。損切りって言うんですかね、そういうのに気づいたら傷が深くならないうちに切り捨てて、新たなステージに切り替えていくものです。バクチだけとは限りません、ビジネスでも、そして人生でも、勝負や駆け引きはたいてい一度では終わらない。何度も何度も繰り返すもので、最終的に立っている者が勝者なんですから。
……さて、話はしまいにして、そろそろ我々の仕事を仕上げますか」
───少女は、しばらく難しい顔をして、口を引き結んだまま目線をあちらこちらさまよわせていた。
しかしやがて、腹を決めたように顔を上げ、結んだ口の端を少しだけもごもごと動かして、「……ス」かすかな声で言った。
「え?」
「すまん、聞こえなかった」
テツとジョーが訊き返すと、少女はしばらく口の中でまたもごもごやっていたが、やがて、持っていたリュックの中からノートとペンを取り出すと、
〝真保亜璃江州〟
と大書して、ばん、と卓に叩きつけた。
三人は目を白黒させた。それが彼女の名前らしいが、……読めない。今時の子供にしてはとても上手な楷書で、個々の字はちゃんと読める。しかしどう読むかわからない。文字列のどこまでが姓でどこまでが名なのかさえ、さっぱりわからない。
「……?」光恵は絶句した。
「まほあ……?」ジョーはそこで諦めた。
「ごうしゅう? 江州音頭の江州か?」テツは最後の二文字だけ読み取って、トンチンカンなことを言った。「滋賀の出身なのか?」
「しんぼ・ありえす! 二文字が苗字で後の四文字が名前!」
少女は───アリエスは半ギレで叫んだ。プレイ中は完璧に表情を隠せていたのに、今はひどく赤面している。よほど名前が恥ずかしいらしい。
「これでアリエスって読むの……」
光恵は嘆息した。教えたくなかったわけだ。わざわざノートに書いた理由もわかった。読みだけを教えたとき、当然にこちらが返すであろう「それ、どういう字を書くの?」という質問の方が、少女の心を穿つからだ。先手を打った方がダメージが少ないと判断したのだろう。
昨今のキラキラなネーミングを知らぬではないが、それにしたってやる気のない当て字だ。最後の二文字は、字を考えるのがめんどくさくなったとしか思えない。子の名付けすらめんどくさがる親から産まれてきたのか、この子は。
これ、いい名前だとお手盛りで誉めても、よけいに傷つくだろうなぁ……光恵にはどう対応すべきかわからず、あたふたと目線をさまよわせた。
アリエスはといえば、顔を真っ赤にして恥じ入っている。つまるところ、人生一一年目の子供には一〇万円でも足りない、自らの尊厳を賭けたバクチだった。
しかしながら、テツとジョーには、なぜ彼女が恥ずかしがっているのか、よくわからなかった。
後述するが、彼らは他人の名付けにとやかく言える立場にない。加えて、夜露死苦だの愛羅武勇だのの暴走族用語の全盛期を当然に知っている。カッコいいじゃねぇかと誉める側にいた。
厳太兵衛から陽菜まで、人名を大量に覚えざるを得なかった人生七〇年、目立つ名前の方が、珍妙であってもありがたいというのが、ごく普通に彼らの価値観だった。事実ふたりは、漢字はともかく、アリエスという読みは一発で覚えた。
だからテツは何も気にしなかった。あらためて、頭を下げた。
「それじゃ、アリエス。この藤倉徹五郎に、ひとつポーカーを教えちゃあくんねぇか」
アリエスは絶句した。赤い顔で目を白黒させて、むぅぅと声にならない悲鳴をあげた。