1.必要な”教育”
令嬢編は、王子編のヒロイン視点になります。
おそらく王子編を読んでいないと分からない箇所が多いです。
よろしければ、王子編を先にご確認頂けますと幸いです。
「本日より貴方の教育係に任命されました、エイダ・ラフィネと申します。よろしいですね、スティーブン王子殿下」
形だけは丁寧に、最上の礼をとってエイダはそう言った。声が震えなかったのは今までの教育の賜物だろう。エイダは改めて自身を育ててくれた父母や教育係たちに感謝した。決して恐れではなかったが、どういう訳かエイダの緊張はこれでもかと極まっていた。
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遊学から戻って王子の教育係の話を聞いた時、エイダは驚きすぎて絶句した。何せ我が国の王子殿下はどの国にいようとも評判がよく、そもそも離宮に閉じこもっているなんてことも彼女は知らなかった。頭を抱え数日悩んだ後、エイダは教育係の話を受けた。王からの勅令であるのだから、通常断るという選択肢もないのだけれど、そこは初めに「断ってもいい」と直々の手紙に書いてあったのでエイダはそれにも大いに悩んだ。
かくしてエイダはスティーブンの教育係になった。とはいえ、エイダがスティーブンに教えられるものなどなかった。帝王学や政治なんてものは既に公務に就いており、評価も高かったスティーブンの方がよく知っているだろう。では、エイダは何の“教育”をすべきなのか。エイダはスティーブンに直接会って、そしてそれにすぐさま気づいた。
スティーブンは息の抜き方を知らない。昔、お互いに子どもだった頃の彼は、当時から王子ではあったけれどそれでも普通の遊びを楽しむ健やかな子どもでもあった。きっと今のスティーブンはその一切を忘れてしまっている。顔色は悪く頬はこけ、何とも言えない風体だ。音に聞く王子様など、どこにもいなかった。
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エイダが教育係に就任したと宣言した次の日、スティーブンは何故か熱を出していた。だからなのか昨日とは打って変わり、エイダはもう緊張はしていなかった。
「……」
「……」
「笑いたければ笑えばいいだろう」
「人が苦しんでいるのを見て笑うような変態的思想は持ちあわせておりませんの」
自分が教育係になったことがそんなにもショックだったのだろうかとエイダは心配をしたが、憎まれ口を吐けるのならまだ大丈夫だろうと気を取り直した。
「おやすみなさるまで、お傍におります」
スティーブンの返事を聞く前に、エイダはベッドの傍に置いてある椅子に座った。暇つぶし用の本も持っているので問題はない。長くなりそうであれば侍女に紅茶でも頼もうと吞気に考えながらエイダは本を開いた。
暫くすると、スティーブンは寝息を立てだした。そっと顔を覗き込むが、魘されている様子などはない。エイダは弟妹にするようにこまめに額の布を変えてやったり、そっと汗を拭いてやったりした。
暫くして起きてきたスティーブンにミルク粥を用意すると「わざわざ給仕の真似事をする必要は」と窘められたが、既に運んできてしまっている以上はどうしようもなかったので、そのまま給仕の真似事を続行した。その後もちくちくと何事かを言われたが、エイダが知らないふりをしているとスティーブンは諦めたようにミルク粥を食べていた。
「おやすみなさいませ。殿下に必要なのは良質な睡眠と休養です」
そう言って、すまし顔で部屋を出ながらエイダは自身の言葉に頷いた。やはりそうだった。スティーブンには休養が必要なのだ。眠らせること、休ませること。それがエイダが彼に教えるべきことだった。
エイダの遊学先の一つに、五十年程前まで【過労死】という恐ろしい言葉があった国がある。仕事をすることが生きる上での至上の責務であり、怠けることは罪悪。休日であっても、仕事の為に勉強をしたり職場の様子を見に行ったりすることが素晴らしいこととされていた。仕事のし過ぎで心身に異常をきたし、自身で命を絶つ者や心臓や頭に負荷をかけ過ぎたことによる突然死をすることがあり、それを【過労死】という。五十年程前までは「努力の賜物」だと、まるで良いことのように皆が絶賛したらしい。
しかし、その国の先代国王がその死すらも美徳にしようとする風潮を禁じ、強制的に休みをとらせる法律を作り、破った者を厳罰に処したのだ。初めは多くの反発があったらしいが、そのおかげで国民が【過労死】することは、ほぼなくなった。初めてこの歴史を学んだエイダはぞっとしたが、けれどこれは決して他人事ではないのだとも教えてもらっていた。
スティーブンは恐らく【過労死】する一歩手前なのだろう。自身に厳しい人が陥りやすい心の病でもあるのだと、エイダは遊学中に聞いたことがある。エイダはかの国で学んだことを一生懸命に思い出しながら、今後の対策を立てた。
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教育係になって一ヶ月、エイダは早くも自身の“教育”に満足していた。スティーブンの顔色はもうかなりよく、背筋もしっかりと伸びていてどこに出しても恥ずかしくない王子様だった。髭の剃り残しまで気にするくらいで、会話もきちんと成立している。エイダが想定していたよりもずっと早く、この“教育”は終了しそうだった。
初めこそぐちぐちと何やら言っていたスティーブンが、エイダの言うことには別段逆らうことをしなかったのも大きかったのだろう。国王陛下からの令状が効いているのだろうけれど、そもそも彼は声を荒げたり暴力を振るうようなことはなかった。実はひっそりとそのあたりを心配していたエイダは安心すると同時に、不敬なことを考えてしまったと反省もしていた。
いつもより少しだけ早くミテの滞在施設に戻ったエイダは、ベッドに横になりながら何となく昔のことを思い出していた。最近、スティーブンがエイダに笑顔を向けるから、少しだけあの頃が懐かしくなったのだ。
あの頃、まだエイダがその幼さに許されて、ぬいぐるみを抱きかかえながら王城に通っていた頃、スティーブンは皆の王子様だった。当時から格好よく、厳しく躾けられていたのか同年代の子どもよりずっと紳士的で、遊びに来ていた者には必ず一度は話しかけてくれた。呼ばれる子どもの人数が少なくなるにつれて、自然と話す時間は増えていったが、しかしエイダとスティーブンは別段飛びぬけて仲が良い訳ではなかった。悪かった訳ではない。一緒に遊んだりもしたし、絵本を読んだりもした。けれど、それだけと言えばそれまでだった。
スティーブンは気の合う数名の男児と遊ぶことを好んだし、エイダは王妃や王妃に招かれた夫人や年上の令嬢たちとお茶をすることの方が好きだった。それでも、子どもながらにエイダは自分こそがスティーブンと結婚するのだと確信していた。周りもそのつもりであったようで、そんな風な話をよく向けられていたから、そうならない筈がなかった。けれど、そうはならなかった。
王城に招かれていた最後の女児であるエイダが招かれなくなって、スティーブンの婚約者探しが白紙に戻ったことを貴族たちはすぐに察した。そしてエイダも。あの時のことは、確かにエイダの傷となってずっと心に残り続けている。自身の何がいけなかったのか、王妃に足るものがなかったと判じられたのか、今でもエイダはあの時の夢を見るくらいだ。
エイダは、スティーブンに恋していた訳ではなかった。これからもそうだ。あの美しい笑顔は皆のもので、エイダのものにはならない。自分のものにならないものに焦がれるのは、ただただ虚しいだけだ。それならば、自身のものになるものだけを愛そうとエイダはあの時、心に決めたのだ。与えられない王妃の椅子に興味はない。それを欲しいのだと叫ぶ気力はエイダにはなく、更には別段にエイダが王族に嫁ぐ利益もそう多くはなかった。
王妃という名は煌びやかで美しいが、その反面、重くおぞましくもある。ラフィネ公爵家は元々王族が興した家であるから、王族と深すぎる関係を持つ必要だってない。あまりにも密接が過ぎると他の貴族からのやっかみも増える。だからこそエイダの父は、スティーブンの婚約者に娘を強く推さなかったのだろう。そのことをエイダ自身も今はよく知っている。
けれどただ、子どもの頃を懐かしむのは悪いことではないだろう。今ではエイダの名前も覚えていないスティーブンが、自身のことを「エイダちゃん」と呼んでくれていたあの頃。世の中には楽しいことしかないのだと信じて疑っていなかった頃、エイダは確かにスティーブンの友人だったのだ。あの素晴らしい王子様とその昔に遊んだことがあるだなんて、これはちょっとした自慢になる。
この“教育”が終わったら、そろそろ父に結婚相手を探してもらってもいい。遊学中にいくつか話を貰ってはいたが、父が乗り気でなかったのかエイダには未だに婚約者すらいなかった。友人の中には既に結婚して子どもを授かった人だっているのに、少しばかり遅い気がする。そう、成人はもう済んだのだ。いつまでも遊んでばかりもいられない。そうだ、本当に良い話が一つもないのなら、貴族子弟の家庭教師として働きに出るのもいい。そんなことを考えながら、やっとエイダは微睡んだ。
―――
エイダがいつもより少し早く離宮にやって来ると、スティーブンは室内にはいなかった。執事が泣きそうな顔で笑いながら馬場にいると言うので、エイダもつられて少し泣きそうになった。
「あら、殿下。本日は乗馬をなさっているのですか」
「……今日は、随分と早いな」
スティーブンが何となくばつの悪そうな顔をするので、エイダは笑うのを耐えなければならなかった。楽しそうなスティーブンに水をさす訳にはいかないので、どうにかそれを耐えきり東屋に行こうとしたエイダだったが、それは許されなかった。
「? え、ええ!? きゃあ!」
「ちょっと付き合って」
「つ、つきあってって……」
いきなりに馬上へ引き上げられたエイダはひどく戸惑った。馬上は思っていたよりもずっと高く、少しでも身じろげば転がり落ちてしまうのではないかと恐怖した。気づいた時にはスティーブンに抱き着いてしまっていたが、彼は別段に気にした様子もなかったのでもうそのままにしがみつく。降ろして欲しいと頼んでも聞いてはくれなかったのだから、このくらい許されるべきだとエイダは断じた。鼓動が早まったのは、ただの恐怖からくるものだ。それ以外に理由なんてない、そうに決まっている。
「じゃあ走らせるよ」
「走るんですか!?」
「ふ、走るんだよ」
堪えられないといった体でスティーブンが笑うので、エイダは文句の一つでも言おうかと口を開いたが結局何の言葉も出てはこなかった。いざ馬が走り出すと、恐怖よりも珍しさが勝ったのだ。
アルコイリスという名の王子の為の馬は、彼が言った通りに賢くエイダのことを思いやってあまり揺れないように走ってくれた。馬に乗らないエイダにはあまり分からないことであったけれど、片手で彼女の腰を支えもう片方の手で手綱を引くスティーブンの技術もあったのだろう。エイダにとって人生二度目であるらしい乗馬は、泣き叫んだという一度目とは違い素晴らしく楽しいものになった。
暫くそうしているとアルコイリスが満足をして歩みを止めたので、やっとエイダは地に降ろしてもらうことができた。しかしいくらアルコイリスが丁寧に走っていたとはいえ、慣れないことをしたせいか、エイダはまともに立つこともままならない。
それをまたスティーブンが笑うので、さすがにそれにはエイダも怒ったが、サンルームに運ばれている最中に執事がこれでもかと静かにこんこんと彼を叱るので、すぐに気の毒になってしまった。しかし当のスティーブンは一切堪えていないようで、話しながらまたエイダのことを笑う。スティーブンが楽しいのなら、それはそれで良いことなのだけれどあまりにも釈然としなくて、けれどそこまで嫌な気分でもなくてそんな自分の気持ちに戸惑った。
「本当に悪いと思っているよ、次は無理にはしない」
「次があるんですか」
「え、やっぱり、嫌だった?」
「そういうことでは」
「今度は事前に言うよ。だから、また一緒に乗って欲しい」
子どもの頃のように微笑まれて、エイダは一瞬息をのんだ。“また”なんてあるのだろうか、きっとある筈のないものだ。この“教育”が済めば、スティーブンは王宮に戻りもう一度地盤を固めて然るべき相手と結婚をするのだろう。そしてこんな約束などすぐに忘れてしまうのだ。自身が男の身であったのなら、容易くできる約束なのだろうにとエイダは僅かに自嘲した。
「……仕方がありませんね」
果たされる筈のない約束だ。でも、果たされればいいなとエイダは思った。スティーブンが嬉しそうに笑い返してくれたので、きっとこの返答は間違いではない。
「……ねえ」
「はい」
「王宮に戻ろうと思うんだ」
「はい」
突然の宣言であったけれど、エイダは落ち着いていた。それが当然のことであると知っていたからだ。
「いや、はい、じゃなくて。……どう思う、教育係としては」
「特には何も」
「えっと、戻ってもいいってこと?」
スティーブンはおずおずとそう聞いたが、エイダは背筋を正して彼に向き直った。
「いいも何も、王宮は殿下がお戻りになる場所であり、それは当然のことでございますもの」
「当然、なのだろうか」
「ええ、当然ですわ。スティーブン・フィエルテ王子殿下、陛下の次代である貴方様の他に玉座につく者などおりません。然るに、いずれ王宮は貴方様の所有するべきものとなります。未来の所有者が戻らずしてどうしますか」
エイダが離宮に訪れた初日に、飲めない酒を無理に飲んでいた人は、もはやどこにもいなかった。エイダは王宮でのスティーブンのことを深くは知らない。けれど、生真面目で仕事に熱心で使用人にまで気配りができる王子様のことは、皆が覚えている。それをただ聞き及んだだけのエイダであったが、噓偽りなく、目の前の人がそうであると断言ができた。
きっと、スティーブンは疲れてしまっただけだ。そしてこの“休暇”は彼に必要なことだった。読書の時間に歴史書や教則本を引っ張り出したり、新聞で時勢を確認したり、使用人に気さくに声をかけたり。彼の本質は何も変わっていない。王宮の方では現在、スティーブンの側近たちが体制を整えているとエイダは聞いていた。休息もしっかりととれた。ならば、後は戻るだけなのだ。
「……そ、うか」
「ええ」
「そうか」
噛みしめるように、スティーブンはそう言った。エイダも何だか感極まって、しかし胸がざわめいて仕方なかった。この時間が終わることを悲しんでいるだなんて、そんなことを認める訳にはいかなかった。それは裏切りであり不敬であり、エイダにとっての罪悪の全てだった。
読んで頂き、ありがとうございました。
令嬢編、遅くなってすみません。待ってくださった方、ありがとうございます。