5.王宮
スティーブンが宣言したとおり三日後、彼を含めた大勢の人々が離宮から出ていった。エイダは既にミテから王都へ旅立っていたので、この場にはいない。離宮の管理を任されている使用人たちは、その隊列が見えなくなるまでずっと深々と頭を下げた。
丸一日をかけて、スティーブンは王都に、王宮に戻った。誰に何を言われようと、それは自身が受けるべきものだと覚悟していた。たとえ何を言われた所で、自身はここに戻らねばならず、またここで生きていかねばならないと心を決めたのだ。
……それも、父上が許せば、の話だが。
そう思いつつ、スティーブンは長く広い王宮の廊下を歩いた。離宮の廊下とて、長く広くはあったけれど王宮とは比べ物にはならなかった。久しぶりの“我が家”にスティーブンは多少緊張していることを認めていた。覚悟を決めていれば緊張しないことなどない、などというのは幻想であることを知って、少し笑ってしまった。
少しの緊張と恐怖、それより僅かな期待とを抱いて、スティーブンはつとめて堂々と両親の待つ部屋に入った。
「父上、母上、戻りました」
「スティーブン……!」
「そうか」
「そうか、じゃないわ! 貴方も! スティーブンも! あたくしに心労ばかりかけて!」
「す、すみません、母上」
「すみませんでもないー!」
部屋に入るなり母アリスが泣き出すので、スティーブンも父ウィリアムもとにかく彼女を座らせるのに神経を使った。アリスは王妃として公務に臨んでいる時と、プライベートの時との差が激しく、こうなったら長いのだった。
「……っ、スティーブン、貴方が戻って来てくれて、とても嬉しく思います。本当によかった」
「ありがとうございます、母上。しかし私は」
「休めたか」
「は」
「休めたか、と聞いている」
「それは、はい。しっかりと」
「うむ」
「うむ、じゃない! もう!」
スティーブンは、何だか拍子抜けをした。昔、やっと馬に乗れるようになった頃、家族で離宮に行った時に似たようなやり取りをしたことも思い出した。あの頃は、まだ、自身が王族だとかそんなことは何も考えてもいなかった。
「いいですか、スティーブン!」
「はい、母上」
「貴方はいつも母の言うことを聞きませんが、父上の言うことこそ話半分で聞きなさい! この人は何も考えてなんていないのですから!」
「アリス……」
「貴方は黙ってらして!」
「……む」
「いいですか、父上は確かに昔からご優秀で、賢王の名に相応しい方です」
「はい」
それは理解していると、スティーブンは頷いた。アリスはそれをしっかりと見て、真剣な顔で話を続けた。
「ですが、この方の頭の中は常人には理解できないもので埋め尽くされています。例えるならば、見たことのない難解な方程式を途中式などすっとばして一瞬で答えてしまう人なのです。考えなくても分かってしまうから、我々の“考える”という行為すら知らないでいるのです。理解しようなどと思ってしまえば、こちらの頭がおかしくなります」
「は、はあ」
「それでも、この方はこれでよいのです。国の王として正しければそれで。けれど、父親としては言わずもがなです」
「言わずもがな……」
「何か仰って?」
「いや……」
妻にぎろりと睨みつけられたウィリアムは、臣下の前では決してしない顔で床に視線を落とした。一連のやり取りを見て、スティーブンは、ああ、この人たちはこういう人たちだった、と思い出した。自身の両親であるのだから、この愉快な夫婦仲を知っていたのに。どうにも久しぶりに感じて不思議だった。
「父上ができることと、貴方ができることは違うわ。そして、それでいいのよ。貴方は父上にならなくていいの」
「……はい。それを、あの離宮で学びました」
そう、エイダに教えられたのだ。彼女は正しく教育係だったと、スティーブンは頷いた。
「まあ、あたくしも口を酸っぱくして何度も言ったのに、ねえ?」
「そういうこともあるだろう」
「ふふ、そうですね」
息子の顔つきが変わったことを、国王夫妻は静かに喜んだ。もう、この子は大丈夫だと、手を握り合うことができた。それが自身たちによってもたらされた変化でなかったことに、僅かばかりの寂しさを覚えたが、自分たちも通った道であった。
「……貴方は、生まれた時から他の誰にも背負えない重圧を持って生まれました。それを謝ることはできないの、それは貴方を生まなかった方がよかったと言っているのと同じだから」
「母上」
「母上も父上も、あまりよい親ではなかったわね。それでも、スティーブン。あたくしたちは貴方を愛しています、本当よ、とても大事に思っているの」
「私も、お二人のことを愛しております」
「本当なら、本当ならね、よい王になる前に、貴方の健康と幸せを願いたいのです。でも、それはできないから。……貴方が戻って来てくれて、本当によかった」
やはり、エイダは最後通告だったのだ、とスティーブンは悟った。彼女でもどうにもならなかった時、自分は一生ここには戻れなかっただろうことも。スティーブンは膝に手をつき。深々と頭を下げた。
「ご心配をおかけしました」
「いい」
「父上」
「帰ったのなら、いいのだ。顔色はよくなったが、長旅は疲れただろう。休みなさい」
「はい。……ああ、いえ。父上、お話が、いや、折り入ってお願いが」
「明日! 明日よ! 今日は寝なさい!」
「寝ると言っても、母上、まだ昼で」
「あたくしに逆らうのではありません!」
アリスは自分より大きくなった息子の背をぐいぐいと押して外に出した。押し出されたスティーブンは、仕方なく言いつけどおりに自室に戻ろうとした。途中、自身に与えられていた執務室を覗いたことに意味はなかった。
「……クリス? クリストフ、か? おい、どうした大丈夫か?」
昔から懇意にしているクリストフ・オアーゼが、そこで机に突っ伏し倒れこんでいるなんて思いもしていなかった。スティーブンは、慌ててクリストフの傍に駆け寄りその肩を揺すった。
「は! 期日はまだの筈だ!」
「うわっ」
「うわ、とはなん、どわあー!」
寝ていただけであったらしいクリストフは勢いよく飛び起き、それに驚いたスティーブンに更に驚くという器用な真似をした。大袈裟な音を立てて椅子から落ちるものだから、スティーブンを部屋の外で待っていた近衛まで驚いて部屋に入ってきた。しかし部屋を見まわして、スティーブンに害がないことを確認すると、また部屋の外に出ていった。
「……大丈夫か、クリス」
「おお、ああ、ええ。大丈夫ですよ、殿下」
「いい、この場に私たちしかいないようだ」
近衛がしっかりと閉めた扉を確認してから、クリストフは立ち上がった。
クリストフ・オアーゼは、多くの大臣や宰相を輩出するオアーゼ侯爵家の嫡子だ。スティーブンより二つ年上で、同い年ではなかったが政治的意味合いのもと、幼少期から彼の傍にした人物の一人である。
名門貴族の跡取り息子であるが、こざっぱりとして愛嬌があり頼れる兄貴気質を持つクリストフを、スティーブンも気に入っていた。「兄だと思って頼れ」と言われても、そうはできなかったが、スティーブンは確かにクリストフを慕っていた。王子としての立場上、それを表には出せなかったけれど。
「この場には我々しかいない。そして我々は、身分を取り除けば気の置けない仲、でよろしいですね、殿下」
「あ、ああ」
「多少の無礼は目を瞑って頂けますか」
「もちろん、我々の仲だ」
スティーブンは半歩、後ろに下がった。明らかにクリストフの様子がおかしい。子どもの頃にも数回経験したことがある。
「お前いい加減にしろよ、この馬鹿」
「う」
耳に痛い言葉だったが、怒鳴られた訳ではない。静かに、しかし据わった低い声色はいつ聞いてもひやりとする。
クリストフは公の場や自身の親世代以上の人間がいない場では、比較的にフランクな話し方する。そのクリストフがそういった場でないにも関わらず、人に敬語を使いだすのは叱る前準備だ。彼は三人兄弟の長子であるから弟妹たちをよくこうやって叱っていたし、スティーブンも幼い頃、何度かこうやって叱られたことがある。
「不甲斐なくて、すまない。しかし私は」
「不甲斐ない、じゃねえの。何だこの仕事量は。馬鹿か、馬鹿だったんだな、お前」
「ば」
「見ろ、この机の数」
そう言われて大人しく指示に従うと、スティーブンの為だけの執務室には以前にはなかった机が四つ置かれていた。王子の執務室なので広さはそれでも十分にあったが、何の机だろうとスティーブンは首を傾げた。
「今日は来てねえけど、それヘンリーとエイダンとアイザックの机。俺の机は本当はそっち。お前の椅子が一番寝やすいから、俺らは順番にお前の椅子で寝てんの」
ヘンリー、エイダン、アイザックはクリストフ同様、スティーブンと幼い頃から共に育った気安い者たちだ。スティーブンが国王になった時には、皆が要職に就くことになっている。
「……何故?」
「何故? じゃねえんだよ。お前がいない間、お前の仕事を俺らで分担してやってたの。四人がかりで」
「なっ」
スティーブンは、自身の開けた穴は父ウィリアムが埋めているものと、勝手に思い込んでいた。ウィリアムであれば、スティーブンの仕事量など苦ではないだろうと。それは親子だからこその甘えであり、友人に被せていいものではなかった。
「すまない、君たちにそんな苦労を」
「苦労はしたけどな、お前が反省しなくちゃならんのはそこじゃねえの。分かるか」
「僕が、王位を継げなかったとしても、君たちに不利益にならないようには」
「違うし、王位はお前が継ぐんだよ! あー! 腹立つ……!」
クリストフは頭を抱えて長く息を吐いた。失望されたか、とスティーブンは苦く自嘲したが、けれど、と前を向いた。
「期待を裏切って、すまなかった。だが、僕が王位を継ぐには君たちの力が必要なんだ。傲慢だと自覚をしているが、どうか、この国と国民の為に力を貸して欲しい」
クリストフは眉間と鼻にぎっしりと皺をよせて、スティーブンを見据えた。そして、
「そうなんだけど、そうじゃねえだろう。お前は本当に、馬鹿真面目なんだからなあ……」
と、脱力した。クリストフはそのままゆっくりを肩を落としながら、その場にしゃがみ込む。
「クリス、顔色が悪い。とくにかく今日は帰った方がいい、すぐに馬車を手配しよう。いや、医者をここに」
「いらんいらん、ただの寝不足と不養生だ。寝れば治る」
「しかし」
「大丈夫だ。むしろ顔色が悪かったのはお前なの」
「私は、今、頗る健康だ」
「はは、みたいだな」
クリストフは自分の横にしゃがみ込んだスティーブンの頭を、ぐしゃぐしゃと乱雑に撫でて笑った。
子どもの頃、二歳というのはかなり大きな差だった。クリストフの弟が四歳下であったからか、彼はスティーブンの方を初めてできた弟のように可愛がりよく遊び相手を買ってくれ、こうやって撫でてもくれたものだった。唐突に懐かしく、スティーブンはほんの少し固まってしまった。
「俺らは怒ってんだよ、スティーブン」
「……ああ、それについての謝罪と報酬はまた後日必ず」
「俺らは、お前が誰にも頼らなかったことに怒ってんの。謝罪はいらん、報酬は貰ってる。お前がやるべきなのは、今後、俺らにちゃんと相談して頼ることなの」
クリストフの目は優しかった。昔と同じように、弟を見るような目でスティーブンを見ていた。
「相談して、頼る……」
「あれはな、一人でやっていい仕事量じゃない。文官たちには見直しを厳命してあるが、そもそもあれを一人でやる前に誰かに相談をしろ」
「……あの程度、父上であればできたことだったから、相談なんて」
「お前の父君はな、規格外、比較対象にしちゃ駄目なやつ。大体、お前あんだけ青白い顔して体調が万全って訳じゃなかっただろう。“ちょっと疲れた”くらい言えよ、俺たちだって何回か“休め”って言っただろう。“医者にかかれ”とか」
「……」
「言ったぞ、まさか聞いてなかったのか?」
「き、聞いていたが、その、大丈夫だと」
「大丈夫じゃねえわ。俺らは俺らで家の仕事もあるにはあったが、四人がかりだぞ。それなのに全く終わらん。文官たちもいきなりの見直しでどこをどう修正すべきかてんやわんやで、結局どうともできてない」
クリストフはゆっくりと立ち上がった。スティーブンもそれに続く。
「抜本的な改革が必要だ。お前の父君は賢王でいらっしゃるが、永遠に生きてくださる訳でもない。俺たちが俺たちの時代を作り、更にはそれを次に渡さなければならない。今のままじゃ無理だ」
「クリス……」
「今まで気づかずに悪かった。お前が“手伝え”と命じる前に、仕事を奪ってやればよかったな」
「それは」
それは、できなかった筈だ。クリストフがいくら次期宰相と言われていようとも、実際にはまだ爵位を賜っていないのだ。他の者たちもそうで、そんな者たちが王子の仕事を無理矢理に手伝うなど、謀反を疑われても仕方がない。
「今日は帰るわ。明日、いや、明後日だな。全員集めるから話し合おう」
「……ああ、分かった。ありがとう、クリス」
「……」
「何だ?」
「顔色、よくなったな。安心した。あ、机の上の書類には触るんじゃないぞ。明後日まで処理しなくてもいいやつばっかりだ。間違っても仕事をしようだなんて思うんじゃない」
「わ、分かった」
念を押されてたじろぐスティーブンを笑って、クリストフは出て行った。スティーブンはその背を見送って、久しぶりに自身の椅子に座った。鈍い音を立てて軋む椅子から執務室全体を視界にいれると、ひどく新鮮な気分だった。この部屋にいる時、スティーブンは常に書類とにらめっこばかりしていたのだからそれもある意味、仕方がなかった。
クリストフの言いつけどおりに書類には触らず、けれどすぐに動く気分にもなれなくて窓の外を眺めた。この部屋の窓を見たのは、この部屋を与えられた時以来だったかもしれなかった。
読んで頂き、ありがとうございました。